傷跡
乾いた砂埃が、ノアⅣの街を灰色に染め上げる。3ヶ月前のあの夜、白銀の巨人が狂乱の舞いを繰り広げた悪夢の痕跡は、まだ色濃く残っていた。
上層市民が暮らすエリアでは、ネオンサインが煌びやかに輝き、まるで何もなかったかのように人々は日常を謳歌している。しかし、下層区画に足を踏み入れれば、状況は一変する。細い路地裏には、焼け焦げた建物の残骸が積み上げられ、立ち並ぶ避難ドームの窓から漏れる光は微かで、人々の生活の厳しさを物語っていた。
3ヶ月前、星装機バルキリアの暴走は、ノアⅣに深い傷跡を残した。街を破壊し、多くの人命を奪った白銀の巨人は、今、その力を封印されている。そして、あの時、バルキリアと激突した赤い機体…クリムゾンロードは、まるで蜃気楼のように、人々の記憶から消え去った。事件はバルキリアの暴走、ただそれだけが公式な見解として発表され、真実は、深い闇の中に葬り去られた。
アリアは、厳重に封印されたバルキリアの前に佇んでいた。強靭さを増した拘束具は無機質な輝きを放ち、厳重な警備システムが、近づく者を拒絶している。赤地に白抜きの文字で「立入禁止」と書かれた警告標識が貼り付けられ、物々しい雰囲気を醸し出していた。
アリアは、その警告を無視するかのように、ゆっくりと機体に近づき、冷たい金属の感触を指先で確かめた。3ヶ月前、彼女の歌声は、暴走するバルキリアを鎮め、ノアⅣを破滅から救った。しかし、その代償は大きすぎた。彼女の歌声は、今や人々の心を癒す力を持つどころか、狂気を呼び覚ます危険なものとして恐れられている。
「私の歌は…結局、何も救えなかった…」
アリアは、自嘲気味に呟いた。彼女の歌声は、人々の心を繋ぎ、希望を与えるためのものではなかったのか。彼女は歌姫として、一体何を歌うべきなのか。その答えを見つけることができずに、アリアは、深い自責の念に苛まれていた。
アリアの歌声が、微かにドックに響き渡る。誰に届くでもなく、ただ、空に消えていく祈りの歌。
傷ついた戦士よ、翼を休めよ
しばしの間、安らぎを与えよう
その魂が再び輝くとき
鋼の翼で、再び飛び立つだろう
アリアがバルキリアの封印された姿に心を痛めている頃、下層区画の片隅にある整備ドックでは、カイトが愛機ベオウルフの前に立っていた。整備油の匂いが鼻をつき、薄暗いドック内は、静寂に包まれている。カイトは、その静寂を切り裂くように、工具を手に取り、無表情のままベオウルフの装甲を剥ぎ始めた。
ベオウルフは、幾多の戦いを経てきた歴戦の機体だ。漆黒の装甲には、無数の傷跡が刻まれ、その無骨なシルエットは、圧倒的な力強さを誇示している。カイトは、その傷跡をなぞるように、丁寧に機体を整備していく。彼の指先は、まるで生き物を扱うかのように繊細で、無駄な動きは一切ない。
カイトの傍らには、幼馴染のユキが寄り添っていた。彼女は、カイトの作業を邪魔しないように、物言わず見守っている。ユキは、カイトの心の奥底にある孤独を知っていた。彼は、言葉では何も語らないが、その瞳には、深い悲しみと絶望が宿っている。ユキは、その瞳を見るたびに、胸が締め付けられるような痛みに襲われる。
カイトの手は、迷うことなく、ベオウルフの頭部に装着されたディーバシステムのユニットへと伸びた。ディーバシステムは、歌姫の歌声をエネルギーに変換し、機体の性能を向上させるシステムだ。ノアⅣの戦力増強に大きく貢献してきたが、カイトは他のパイロットとは異なっていた。
過去の戦闘データが示すように、カイトはディーバシステムの恩恵をほとんど受けていなかったのだ。他のパイロットが歌姫との共鳴率を高め、機体性能を飛躍的に向上させる一方で、カイトは常に、自らの操縦技術と機体そのものの性能のみで戦ってきた。それはまるで、ディーバシステムの力を拒絶しているかのようだった。
ユキは、カイトがバルキリアに搭乗した際、精神を深く侵食されたことを知っていた。ディーバシステムを通じて流れ込んでくる歌声が、彼の過去の記憶を呼び覚まし、狂気に染めた。カイトがディーバシステムを拒絶するのは、あの時の悪夢が蘇るからかもしれない。
しかし、今、カイトは、そのディーバシステムを取り外そうとしている。
ユキは、カイトの行動を静かに見守っていたが、ついに口を開いた。
「…本当に、良いの?ディーバシステムを外して…データでは、貴方自身も恩恵を受けているはずなのに…それに、バルキリアのことが、まだ…」
ユキの声は、静かで、どこか悲しげだった。彼女は、カイトがディーバシステムを失うことで、戦力ダウンすることを心配していた。しかし、データが示す数値と、カイト自身の戦い方には、大きな隔たりがあることをユキは知っていた。そして、何よりも、バルキリアの事件が、カイトの心に深い傷跡を残していることを理解していた。
カイトは、手を止めることなく、淡々と答えた。
「あれは、俺には必要ない。」
「…でも…」
ユキは、言葉を詰まらせた。彼女は、カイトの過去を知っていた。棄民都市と呼ばれたムーの悲劇、両親と妹の死…カイトの心の傷は、あまりにも深すぎる。そして、その傷が、ディーバシステム、ひいてはノアⅣそのものへの不信感へと繋がっていることを、ユキは感じていた。
カイトは、ユキの言葉を遮るように、ディーバシステムのユニットを力強く取り外した。金属が軋む音が、静寂を切り裂いた。カイトは、取り外したユニットを無造作に床に置き、再び工具を手に取り、ベオウルフの整備を再開した。
カイトは、再び無言になった。彼は、過去を振り返ることを恐れている。過去の傷口を、自ら抉り出すような行為だからだ。
ユキは、カイトの横顔をじっと見つめ、手をそっと握った。
カイトは、ユキの手を握り返すことはなかった。しかし、その表情は、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。