天井の観測者
高度3万6千キロ。静止衛星軌道上。
宇宙ステーション「ノアZERO」は、地球という青く美しい、けれど傷ついた惑星を見下ろす神の座のごとく、漆黒の空間に浮かんでいた。
その中枢である中央司令室は、いつものように凍りつくような冷気と、電子機器の駆動音だけが支配する静寂に包まれていた。
司令官、リヒャルト・フォン・アイゼンベルクは、指揮官席で深く息を吐いた。
地上の戦況は、彼にとって頭の痛い問題ばかりだった。エデン軍の侵攻、ノアⅢの陥落、そしてノアⅣでの激戦とカイトたちの反撃。それら全てを「監視」し、「記録」し、しかし「不干渉」を貫かなければならない。それが、月から与えられた絶対的なオーダーだったからだ。
「平和とは、程遠いな……。」
彼がコーヒーカップに手を伸ばした、その時だった。
『BEEEEEEP!! BEEEEEEP!!』
鼓膜を劈くような警報音が、司令室の空気を引き裂いた。
リヒャルトの手が止まり、カップの中の液体が波打つ。
普段の戦闘アラートとは違う、最重要レベルの緊急警報コード「オメガ」。
「何事だ! 報告!」
オペレーターたちが跳ね起きるようにコンソールに向かう。彼らの顔には、訓練された軍人の冷静さを超えた、純粋な動揺が走っていた。
「高エネルギー反応を感知! 規模、計測不能! これは……星装機の起動シグナルです!」
「場所は!? エデンか、ノアⅣか!?」
「いいえ、違います! 座標特定……北緯34度、西経118度! 北アメリカ大陸、西海岸! 旧ロサンゼルス・ポイントです!」
「……なっ!?」
リヒャルトは絶句し、立ち上がった。椅子が倒れる音さえ耳に入らない。
北アメリカ大陸。
そこは50年前、7人の科学者の一人であるリゲルが、大陸ごと封鎖した、絶対不可侵の領域だ。
「黒い壁」に閉ざされ、物理的にも、時間的にも、外界とは断絶されたはずの世界。
そこから、星装機の反応だと?
「ありえん……! 壁の向こうからの干渉など……誤作動ではないのか!?」
「いいえ、確かに検出しました! 波形パターン照合……既存のどの星装機とも一致しません! しかし、その出力係数は……!」
オペレーターが言葉を詰まらせる。
リヒャルトの背後から、衣擦れの音と共に、冷徹な声が響いた。
「……『オリジナル』と同等。いや、それ以上か。」
リヒャルトが振り返ると、そこには白衣を纏ったラプラスが立っていた。
彼女はいつもの飄々とした態度を消し去り、鋭い眼光でメインスクリーンを見上げていた。
「ラプラス……! 貴様、これはいったい……!」
「黙って。見ているんだ。」
ラプラスは手元の端末を高速で操作し、観測データを解析する。
彼女の脳裏には、かつて月でマザーから開示されたデータの記憶が走っていた。
月から持ち込まれた素体は7つ。それぞれが異なる属性のコアへと覚醒し、7人の科学者に委ねられた。
それが全ての始まりであり、全ての手札のはずだった。
だが、今、観測されている波形は、そのどれとも異なる。
それでいて、明らかに「同質」の輝きを放っている。
(馬鹿な……。月の系譜ではない? 地球が隠し持っていた、8番目のオリジナルだというのか?)
マザーは隠していたのか? それとも、マザーすら知らない「地球独自の遺産」が眠っていたのか?
ラプラスの知的好奇心と、想定外の事態への警戒心が激しく火花を散らす。
しかし、その光は一瞬だった。
「……反応、消失しました!」
オペレーターの声と共に、スクリーンの光点がふっと掻き消えた。
まるで幻であったかのように、アメリカ大陸は再び沈黙した「黒い壁」の向こうへと沈んでいく。
「消えた……? 破壊されたのか?」
リヒャルトが問う。
「いいえ。」
ラプラスは眼鏡の位置を直した。
「微弱すぎて維持できなかったか……あるいは、誰かが『隠した』か。いずれにせよ、種は蒔かれたということさ。」
ラプラスは、思考の海に沈む。
8体目の覚醒。それは偶然か、必然か。
リゲルがアメリカを封鎖したのは、異界の侵食を食い止めるためだけではなく、この「8体目」を誰にも触れさせないためだったとしたら?
(わからない……。僕の計算式にない変数が、次々と現れる。)
ラプラスは唇を噛んだ。
彼女は「観測者」を自負していた。世界の動向を、高みから見下ろし、記録する者だと。
だが、今の事態は、彼女の予想を遥かに超えて動き出している。
衝撃の余韻が冷めやらぬ司令室に、間髪入れずに次の警報が鳴り響いた。
今度は、通信回線への割り込みだ。
『緊急入電! 広域帯にて、強力な通信波を受信! 発信源は……チベット山岳地帯!』
「自動発信プログラムです。識別コードは……『ISABELLA』!」
メインスクリーンに、文字データが羅列される。
そこに記されていたのは、驚くべき情報だった。
——『エデン・秘密エリア座標データ』全開示。
地図上に、これまで電子迷彩で隠されていたエデンの本拠地、その全ての施設配置、対空防衛網の死角、エネルギー炉の位置までもが、赤裸々に表示されたのだ。
「なんだ、これは……。」
リヒャルトは呻いた。
これは、軍事情報として最高機密に属するものだ。それを、全世界……特に、敵対するノアZEROに向けて垂れ流している。
「招待状だよ、司令。」
ラプラスが、乾いた笑いを漏らした。
「イザベラからのね。『用済みのゴミ捨て場はここですよ』という、親切な案内だ。」
「味方を……売ったというのか?」
「味方? ハッ、彼女にとってエデンなんて、ただの『道具箱』さ。必要な道具を取り出した後は、焼却炉に放り込むだけの空箱に過ぎない。」
おそらくイザベラは、エデン軍をノアⅣへ向かわせ、本拠地を手薄にさせた隙に、セレーナを使って必要なものを奪い去ったのだ。
そして、用済みとなったエデンを、ノアZEROの手で始末させようとしている。
彼女自身の手を汚さず、混乱の種を撒き散らしながら、自分は次のステージへと進むために。
(食えない女だ……。)
ラプラスは、モニターの向こう側にいるであろう、かつての同志の顔を思い浮かべる。
イザベラとセレーナ。彼女たちの現在の正確な居場所は、ラプラスにも掴めていない。
おそらくは、セレーナの覚醒した転送能力を使って、監視網をすり抜けているのだろう。
目指す先は一つ。北アメリカ大陸。
「……ラプラス。何を笑っている?」
リヒャルトの不審げな声に、ラプラスはハッとした。
自分が笑っていたことに、今の今まで気づいていなかった。
「笑っている? 僕がか?」
「ああ。楽しそうにな。……世界が破滅に向かっているというのに。」
ラプラスは、ガラスに映る自分の顔を見た。
確かに、口角が吊り上がっている。
それは、未知への恐怖ではなく、制御不能なカオスに対する、科学者としての抑えがたい高揚感だった。
(ああ、そうか。僕は……待ち望んでいたのかもしれない。この閉塞した世界が、壊れる瞬間を。)
ラプラスは、白衣を翻して歩き出した。
「司令。エデンの処理は君に任せるよ。ドローン爆撃でも、サテライトキャノンでも、好きにしたまえ。座標は正確だ。
まあ、その前にエジプトから連絡が来るだろうけど」
「どこへ行くつもりだ、ラプラス!」
リヒャルトが呼び止める。
ラプラスは、振り返らずに答えた。
「降りるよ。地上へ。場所は、ノアⅣだ。」
「ノアⅣ……? なぜだ、戦火の只中だぞ!」
「だからこそさ。」
覚醒したカイトと、それを支えるアリア、ユキ。
エデン軍を退けた彼らは、今やこの混乱の中心にいる。
そして、イザベラたちも、接触を図るはずだ。
そこが、運命の交差点になる。
「それにね……届け物があるんだ。」
ラプラスは、白衣のポケットの中で、小さなカプセルを握りしめた。
「……届け物?」
「ああ。可愛い子供たちのためにね。」
ラプラスは、足早に司令室を出て、自身のハンガーへと向かった。
クリムゾンロード専用ハンガー。
今は主を失ったその場所に、ラプラスの足音が響く。
彼女は、部屋の奥にある、厳重にロックされた保管庫の前に立った。
虹彩認証、声紋認証、そして生体認証。幾重ものセキュリティを解除し、重い扉が開く。
冷気が漂う保管庫の中。
そこに鎮座していたのは、漆黒の輝きを放つ、一つの「コア」だった。
「……待たせたね。」
ラプラスは、愛おしそうにそのコアを見つめた。
それは、彼女が長い年月をかけて開発してきた、人工のDARKコア。
オリジナル・コアの模倣品ではない。ミコト・スメラギとしての知識と、ラプラスとしての狂気を注ぎ込み、独自のアプローチで構築した、制御可能な闇の心臓。
コードネーム:**『ネビュラ(星雲)』**。
本来のDARKコアは、リゲルの例を見ても分かる通り、強大すぎるがゆえにパイロットの精神を蝕み、暴走させる危険性を孕んでいる。
現在のレイ(零)の状態は、まさにその綱渡りだ。覚醒したDARKコアの出力に、彼の肉体と精神が耐えきれなくなるのは時間の問題だった。ニコが懸命に調整しているとはいえ、限界は近い。
(リゲルと同じ過ちは繰り返させない。)
ラプラスの脳裏に、かつて愛した男の最期が過ぎる。
強すぎる力に飲み込まれ、世界を閉ざしてしまった彼。
もし、あの時、制御できるだけの「器」と「代用品」があれば、彼は救えたかもしれない。
この『ネビュラ』は、出力こそオリジナルには及ばない。しかし、その安定性と、パイロットへの精神的負荷の軽減に関しては、オリジナルを凌駕する設計になっている。
これをレイに渡す。そして、ニコの技術で新たな機体に組み込む。
そうすれば、レイは「人間」としての形を保ったまま、その力を振るうことができるはずだ。
「……偽物かもしれない。だが、時には偽物が、本物を救うこともある。」
ラプラスは、特殊なコンテナにコアを収納した。
それは、彼女なりの贖罪であり、そして親心だった。
彼女は、自身の専用機『ヴァニティ』のコックピットへと向かう。
虹色の翼を持つ、観測者のための機体。
武装は最低限だが、その機動性とステルス性能、そして電子戦能力は、世界最高峰だ。
ラプラスはコックピットに滑り込み、システムを起動させた。
全天周囲モニターに、宇宙の星々が映し出される。
「さて……行こうか。」
彼女は、地球を見下ろした。
赤く燃える戦火。渦巻く思惑。
その全てが、彼女を呼んでいる気がした。
イザベラの動きは読めない。セレーナの行動も予測不能だ。
アメリカの8体目は謎のままだ。
だが、だからこそ面白い。
スラスターが点火される。
『ヴァニティ』は、静かにノアZEROの港を離れ、重力の井戸へと身を投げた。
流星のように大気圏を駆ける機体の中で、ラプラスは呟いた。
「待っていてくれ、カイトくん、レイ、ニコ……。そしてイザベラ。僕も、プレイヤーとしてテーブルに着かせてもらうよ。」
科学者の仮面の下で、彼女は微かに震えていた。
それは恐怖か、それとも武者震いか。
答えは、ノアⅣの空の下にある。




