隔絶された庭、500年の孤独
**1.帝国の枷**
空は、暴力的なまでに青かった。
吸い込まれそうな碧天には、二つの月——本来の月と、大気圏の歪みが生み出した幻影の月——が浮かび、地上の営みを見下ろしている。
照りつける太陽は、皮膚をジリジリと焦がす。
「手を休めるな、下等種族ども! 本日の魔素回収量が規定に達しなければ、夕食は抜きだぞ!」
鞭の音が空気を切り裂き、乾いた土煙が舞い上がる。
背中に鋭い痛みを感じながら、シオンは泥にまみれた手で、巨大な根菜を引き抜いた。
それは「マンドラ・ポテト」と呼ばれる、魔力を帯びた作物だ。引き抜く瞬間に微弱な衝撃波を放つため、魔力を持たない人間にとっては、収穫作業そのものが命を削る労働だった。
「……ッ。」
シオンは歯を食いしばり、痛みを飲み込んだ。
ここは、西の大陸を支配する「聖霊エルフ帝国」の直轄領、第7農場。
かつて、遥か昔の伝承にある「ロサンゼルス」という名の巨大都市があった場所だと、古老たちは語る。だが、今のシオンの目に映るのは、鬱蒼と茂る原生林と、その木々に絡みつかれるようにして残る、太古の墓標たちだ。
「鉄の樹」と呼ばれる、天を突くほど巨大な建造物の残骸。
錆びついて赤茶けた鉄骨が、まるで巨人の肋骨のように大地から突き出し、その隙間を巨大な蔦植物が埋め尽くしている。かつては人が住んでいたというその「樹」の洞には、今は翼竜が巣を作り、空を支配していた。
——この世界は、美しい。けれど、残酷だ。
支配階級であるエルフたちは、大気中に充満する「エーテル(かつてダークマターと呼ばれたもの)」を操り、魔法という奇跡を行使する。彼らは美しく、長命で、そして人間を家畜以下に見下していた。
対して、魔力を持たない旧人類は、ただ労働力を提供するためだけの消耗品だ。
シオンは、農場の柵の向こう、世界の果てを見つめた。
そこには、天と地を分断する、絶対的な「壁」が聳え立っていた。
『黒の断絶』。
遥か上空、雲を突き抜け、どこまで続いているのかも知れない漆黒の壁。
それは物理的な障壁であり、同時に世界の終わりを示す境界線だった。
帝国の教えでは、壁の向こうは「虚無」であり、魂を持たぬ魔物が住む地獄だとされている。誰も近づいてはならないし、近づけば二度と戻っては来られない。
だが、シオンは知っていた。
あの壁の向こうには、地獄などないことを。
(……今日は、見える。)
シオンは、監視役のエルフが他の奴隷を鞭打っている隙に、じっと黒い壁を凝視した。
他の人間には、ただの黒い闇にしか見えないその壁。
しかし、シオンの瞳にだけは、違う景色が映っていた。
壁が、呼吸をするように脈打ち、薄くなる瞬間があるのだ。
半透明になった黒い膜の向こう側に広がるのは、灰色の空と、荒涼とした大地。そして、鉄の樹とは違う、整然と並んだ無機質な建造物の群れ。
そこには魔法の輝きはなく、くすんだ色が支配している。けれど、シオンにはそれが、どうしようもなく魅力的な「自由」の色に見えた。
(……1日。)
シオンは、胸の中で日数を数える。
幼い頃は、数ヶ月に一度しか見えなかった「向こう側の景色」。それが、成長するにつれて頻度を増し、先月までは2日おきだったものが、ついに昨日から、1日おきに見えるようになっていた。
壁が、薄くなっている。
あるいは、世界と世界が、溶け合おうとしているのか。
「おい、シオン! 何をサボっている!」
怒号と共に、エルフの監督官が魔法で生成した氷の礫を投げつけてきた。
シオンはとっさに身を翻し、泥の中に転がってそれを避ける。
「申し訳ありません! 足がもつれて……!」
地面に頭を擦り付けながら、シオンの心臓は早鐘を打っていた。
恐怖からではない。
抑えきれない、衝動からだ。
——呼んでいる。
壁の向こう側が。
いや、壁の「中」にある何かが。
今夜だ。
シオンは確信していた。
今日、壁の周期が完全に重なる。今夜を逃せば、二度とチャンスは来ないかもしれない。
彼は泥にまみれた手の中に、こっそりと隠し持っていた「鍵」を握りしめた。
それは、畑の土中から掘り出した、プラスチック製のIDカード。500年の時を経てなお、色褪せない太古の遺物。
これが何の役に立つのかは分からない。だが、これを持っていると、壁の向こうからの「声」が、より鮮明に聞こえる気がしたのだ。
**2.禁断の地下迷宮**
二つの月が中天に昇り、農場が静寂に包まれた頃。
シオンは、奴隷小屋の腐った床板を外し、床下へと滑り込んだ。
そこには、彼が数年かけて少しずつ掘り進めた、脱出用の抜け穴があった。
泥とカビの臭いが充満する狭いトンネルを匍匐前進で進む。
心臓の音がうるさい。見つかれば即座に処刑、あるいは実験動物として魔術師ギルドに売られるだろう。
だが、シオンの恐怖を上書きしていたのは、魂の渇望だった。
広い空間に出た。
そこは、農場の外れにある、「禁忌の森」の地下深くだった。
古代の遺跡。エルフたちが「旧き神々の墓所」として封印し、近づくことを禁じている場所。
シオンは、ランプ代わりの発光苔を掲げ、周囲を見回した。
そこは、かつて「地下鉄」と呼ばれた場所の成れの果てだった。
崩れ落ちた天井から垂れ下がる鉄骨。壁に張り付いたまま化石化したような広告看板。
地面には、レールと呼ばれる二本の鉄の線が、闇の奥へと伸びている。
「……こっちだ。」
シオンは、IDカードを握りしめ、レールの先へと歩き出した。
背中を押されるような感覚。
頭の中に、言葉にならないノイズが響いている。
——来い。……目覚めの時は近い。
瓦礫を乗り越え、水没した通路を泳ぎ、シオンは進む。
そこは、500年前の時間で凍りついた世界だった。
白骨化した遺体が、朽ちた衣服を纏ったまま転がっている。彼らが握りしめていたであろう携帯端末は、今はただの黒い板切れだ。
この場所で、一体何があったのか。
伝説によれば、ある日突然、世界を覆う黒い壁が現れ、空が閉ざされたという。
その混乱の中で、人々は逃げ惑い、そして……変異した環境に適応できずに滅びていったのだろうか。
(俺たちは、取り残されたのか? それとも、守られたのか?)
そんな疑問を抱きながら、シオンはさらに奥へと進む。
やがて、空気の質が変わった。
カビ臭さが消え、代わりに、ピリピリとした静電気のような刺激臭が鼻を突く。
壁や床の素材が、コンクリートから、滑らかな未知の金属へと変化していた。
そこは、地下鉄の路線が途切れた先に隠されていた、巨大な秘密施設だった。
通路の先に、巨大な扉があった。
分厚い装甲板。表面には、「KEEP OUT」という古代文字と、擦り切れた警告色が残っている。
シオンが近づくと、懐のIDカードが、微かに熱を発した。
——ピッ。
小さな電子音が響き、500年の眠りについていた扉が、重苦しい駆動音と共にスライドした。
プシューッという空気の抜ける音が、静寂を破る。
「……開いた。」
シオンは、ごくりと唾を飲み込み、中へと足を踏み入れた。
**3.銀の巨人**
扉の向こうに広がっていたのは、広大なドーム状の空間だった。
天井は遥か高く、薄暗い空間全体が、微かな青白い光で満たされている。
その光源は、部屋の中央に鎮座する、「それ」だった。
「……なんだ、これは。」
シオンは、言葉を失った。
そこに横たわっていたのは、巨大な「人」だった。
いや、人ではない。金属でできた巨人。
全長は10メートルほどだろうか。
泥と苔に覆われているが、その下にある装甲は、くすんだ銀色の輝きを放っている。
形状は、エルフの騎士が纏う鎧に似ているが、もっと洗練され、もっと力強い。
太い四肢、厚い胸板。そして、兜のような頭部。
それは、死んでいるようにも、ただ眠っているようにも見えた。
——ゴーレム? いや、違う。これは……もっと高次な……。
シオンは、吸い寄せられるように巨人に近づいた。
足元には、太いケーブルやパイプが散乱している。それらは巨人の背中や腰に繋がっていたようだが、今は千切れ、断面から青い液体が漏れ出していた。
巨人の周囲を回る。
圧倒的な質量感。冷たい金属の肌。
だが、触れてみると、指先に伝わるのは氷のような冷たさではなく、微かな温もりだった。
まるで、心臓が動いているかのような、律動的な振動。
「お前が……俺を呼んだのか?」
シオンが呟くと、巨人の胸部にあるクリスタル状のパーツが、一瞬だけ明滅した気がした。
ふと、巨人の足元に、一段高くなった台座のような場所があるのに気づいた。
そこには、複雑な計器類が並ぶコンソールがあり、何かを待つように薄ぼんやりと光っている。
シオンは、瓦礫をよじ登り、そのコンソールの前へと立った。
見たこともない文字や図形が、ガラス面の上を流れている。
古代語(英語)だ。シオンには読めない。だが、直感的に理解できた。
これは、この巨人を「目覚めさせる」ための祭壇だと。
「……触れていいのか?」
シオンは、震える手を伸ばした。
これを起動させれば、何かが変わる。
奴隷としての日常が終わり、新しい世界が始まる。そんな予感があった。
指先が、光るパネルに触れた、その瞬間。
『生体反応、検出。……適合率、計測開始。』
頭の中に、無機質な声が直接響いた。
驚いたシオンは、後ずさろうとした。
だが、足元の配管が、経年劣化で脆くなっていたのだろう。
ガシャッ!
足場が崩れ、シオンの体はバランスを失った。
「うわぁぁぁッ!?」
シオンは、コンソールの奥にある、ぽっかりと口を開けていた窪み——巨人の胸部に繋がるコックピットハッチへと、滑り落ちてしまった。
ドサッ。
柔らかなシートが、シオンの体を受け止める。
そこは、大人が一人、ようやく入れるほどの狭い空間だった。
彼が体勢を立て直そうとするよりも早く、ハッチが音もなく閉鎖した。
——プシューッ!
完全なる密室。
シオンはパニックになり、内壁を叩いた。
「出せ! ここから出せ!」
だが、巨人は応えない。
代わりに、シートの隙間から、粘度の高い透明な液体が注入され始めた。
液体は瞬く間にコックピットを満たし、シオンの口元まで迫る。
「ごぼっ……!?」
息ができない。溺れる。
そう思ったが、不思議と苦しくはなかった。
肺の中に液体が入ってきても、呼吸ができる。これは、液体呼吸システム用のLCL(Link Connect Liquid)だ。
『パイロット登録、承認。……オリジナル・エイト、再起動シーケンスへ移行します。』
脳内の声が、より鮮明になる。
同時に、強烈な睡魔がシオンを襲った。
意識が、溶けていく。
巨人の意識と、自分の意識が混ざり合う感覚。
500年の眠り。孤独。そして、目覚めへの渇望。
巨人が見てきた夢が、シオンの中に流れ込んでくる。
(……ああ、そうか。お前も、出たかったんだな。この、壁の中から。)
シオンは、薄れゆく意識の中で、巨人の魂に触れた気がした。
そして、全てが光に包まれた。
**4.銀騎士の咆哮**
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
数時間か、あるいは数瞬か。
シオンが次に目を開けた時、世界は一変していた。
狭く暗いコックピットではない。
視界は360度、全方位に開かれていた。
まるで、自分が空中に浮いているかのように、周囲の遺跡の様子が手に取るように見える。
薄暗かったドーム内は、今はまばゆい光に満ちていた。
その光の源は、自分自身——いや、自分が乗っているこの巨人だった。
シオンは、自分の手を目の前にかざした。
そこにあるのは、人間の肌色ではない。
磨き上げられた鏡のような、白銀の鋼鉄の手甲だった。
「……俺は……。」
声を出そうとすると、それは重厚な振動となって空間を震わせた。
シオンは理解した。
自分が、巨人になったのだと。
巨体をおおっていた苔や泥は、起動時のエネルギー放出によって弾け飛び、消滅していた。
露わになったその姿は、あまりにも美しく、そして勇壮だった。
流線型の装甲に、鋭角的な装飾。
両肩には重厚なショルダーアーマー。背中には、マントのように折り畳まれたスラスターバインダー。
頭部は、西洋の騎士の兜を模した形状で、そのバイザーの奥には、碧色のカメラアイが鋭く輝いている。
これは、月に封印されていた7体とは異なる系譜。
地球の深部に隠され、独自の進化を遂げることを運命づけられた、第8のオリジナル。
『機体コード:**アヴァロン・ナイト**。システム、オールグリーン。』
脳裏に、機体の名前が浮かぶ。
シオンの心臓の鼓動に合わせて、機体のコアが脈動する。
力があふれてくる。
奴隷として虐げられ、弱々しかった自分の肉体が、鋼鉄の鎧を得て、万能感に満たされていく。
「……すごい。」
シオンは、思考だけで機体を動かしてみた。
右手を握る。左足を前に出す。
まるで自分の生身の体であるかのように、巨体は滑らかに反応する。タイムラグなど皆無だ。
だが、何かが足りない。
騎士には、剣が必要だ。
(……剣を。)
シオンが強く念じると、機体の周囲の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
亜空間ゲート。
そこから、一振りの剣の柄が飛び出してくる。
アヴァロン・ナイトは、それを右手で掴み取った。
——ジャキィィン!!
空間から引き抜かれたのは、身の丈以上もある巨大な両手剣だった。
刀身は白銀に輝き、中央には碧色のエネルギーラインが走っている。
さらに、左手には、紋章の刻まれた重厚なカイトシールドが出現し、装着された。
「これが……俺の力……!」
シオンは、剣を振り払った。
その風圧だけで、周囲の瓦礫が吹き飛び、壁に亀裂が走る。
圧倒的な破壊力。
これがあれば、もう誰にも怯える必要はない。
あの傲慢なエルフたちも、魔物たちも、この剣の前では塵に等しい。
だが、シオンが求めたのは、支配でも復讐でもなかった。
彼は、頭上を見上げた。
分厚い岩盤と土砂に閉ざされた天井。その遥か上、地上の空を。
「行こう。」
シオンは、愛機に語りかけた。
「ここじゃない、どこかへ。あの黒い壁の、向こう側へ。」
アヴァロン・ナイトの膝が沈み込む。
背部のスラスターが展開し、蒼白い炎を噴き上げた。
**ドォォォォォォンッ!!**
轟音と共に、巨体が跳躍した。
鋼鉄の拳と剣が、頭上の岩盤を突き破る。
何層もの地層を貫き、500年の時を閉じ込めていた蓋をこじ開ける。
——ズガアアァァァァン!!
大地が割れ、土煙が高く舞い上がった。
ロサンゼルスの遺跡群の中、かつて摩天楼があった場所から、白銀の光柱が天へと伸びる。
その光の中から、白銀の巨人が、ゆっくりと大地に降り立った。
そこは、夜明け前の薄明かりに包まれた世界。
シオンの視線の先には、東の空を遮るように、あの巨大な「黒い壁」がそびえ立っていた。
今、シオンの目には、その壁がかつてないほど薄く、透き通って見えた。
壁の向こう側で、何かが動いている。
誰かが、こちら側へ来ようとしている気配を感じる。
赤い、小さな光。そして、それを追うような、大きな意志。
「……待っているのか? 俺を。」
シオンは、剣を構え、壁の方角へと向けた。
その碧い瞳には、不安と、それ以上の希望が宿っていた。
500年の孤独を破り、第8のオリジナルが、今、動き出した。
それは、地球の運命を大きく変える、新たな歯車の始動だった。




