福音の箱舟、慈悲なき救済
乾いた風が、硝煙の臭いを含んで吹き抜けていく。
かつて東京湾と呼ばれた広大な荒野は、今や鉄と炎の墓場と化していた。地平線を埋め尽くすエデン軍の量産機『ホープレス』の群れ。対するノアⅣの防衛線は、もはや風前の灯火だった。
——だが、その絶望の淵に、白銀の雷鳴が轟いた。
雲海を割り、巨大な影が降下する。
強襲母艦『アーク・ロイヤル』。
朝日を背に受けて輝くその船体は、神話の箱舟の再来を思わせた。
艦内、CIC(戦闘指揮所)。
無数のモニターに囲まれたオペレーター席で、ユキの瞳が翠色に輝く。彼女は今、ノアZEROから供給される衛星データと、直上から散布したドローンの視覚情報を脳内で統合し、戦場の全てを俯瞰していた。
「戦況分析、完了。……見えた。」
ユキの指先が、空間に浮かぶホログラムキーボードを叩く。それは、かつて整備士として機械と対話していた時よりも、遥かに高速で、洗練されていた。
「全艦、対空戦闘用意! 左舷弾幕、仰角15度! エデンの空挺部隊を散らしつつ、中央突破ルートを確保します!」
彼女の指示に従い、アーク・ロイヤルの対空レーザーファランクスが一斉に火を噴く。光の帯が空を切り裂き、降下中の敵輸送機を牽制する。
「カイト! 進路クリア! 目標は、敵包囲網の結節点、座標ポイント・ブラボー! そこを崩せば、リシェルさんたちの退路と、反撃の起点が生まれる!」
『了解。……行くぞ、ベオウルフ!』
カタパルトから、漆黒と白銀のツートンカラーを纏った機体が射出された。
『ベオウルフ・リベリオン』。
スラスターの噴射炎が彗星の尾のように伸び、機体は重力を振り切って戦場の只中へと急降下する。
◇
地上。
リシェルの『アサルト・ヴァンガード』は、弾薬を撃ち尽くし、左腕を失った状態で膝をついていた。
周囲を取り囲むのは、20機以上のホープレス。無機質なカメラアイが、一斉に彼女を捉える。
「くっ……ここまで、なの……?」
死を覚悟し、瞼を閉じたその瞬間。
上空から閃光が降り注いだ。
——ズガガガガガッ!!
リシェルを取り囲んでいたホープレスたちが、次々と吹き飛ぶ。
土煙の中から現れたのは、巨大な剣を携えた、あの英雄の機体だった。
「カイト……!」
『遅くなってすまない。リシェル、立てるか?』
通信機から響く、懐かしく、頼もしい声。
カイトはベオウルフ・リベリオンを操り、リシェルの前に立ちはだかる。
『ユキ、次の指示を!』
『右翼から敵増援、30機接近! カイトは10時の方向へ展開して陽動! その隙にバルト隊と合流させて!』
ユキの指示は、まるでチェスの名手のように的確だった。
カイトは地を蹴り、敵の大群の中へと飛び込んでいく。
「さあ、かかって来い!」
ホープレスが一斉射撃を開始する。数百の銃口が火を噴き、ビームと実弾の雨がベオウルフ・リベリオンを包み込む。
だが、当たらない。
カイトの視界には、数秒先の未来が「光の軌跡」として映し出されていた。
(……見える。)
右から迫るビームの射線。左から飛来するミサイルの弾道。
それらは、カイトにとっては「既に確定した過去」のようなものだ。
ベオウルフ・リベリオンは、紙一重で身を捻り、最小限の動きで回避する。その動きは、まるで舞踏のように優雅で、そして神速だった。
敵の懐に潜り込み、剣を一閃させる。
ホープレスの腕が飛び、武器が破壊される。
「うおおおおッ!」
カイトは叫びと共に、敵陣を切り崩していく。
だが、その刃は、敵のコックピットを避けていた。
◇
アーク・ロイヤルの甲板上。
展開された特設ステージに、アリアが立っていた。
強風にプラチナブロンドの髪をなびかせ、彼女はマイクを強く握りしめる。
この船の通信アンテナは今、彼女の声を増幅し、DIVA粒子に乗せて戦場全域へ届けるための「拡声器」となっていた。
「届け……私の、歌!」
アリアが息を吸い込む。
その瞬間、戦場のノイズが、ふっと遠のいた気がした。
**《嵐に閉ざされた空を 見上げる瞳に》**
**《希望の光が 降り注ぐように》**
透き通るような歌声が、空気を震わせ、荒野に染み渡っていく。
それは、単なる音声信号ではない。人々の魂に直接響き、活力を与える「魔法」だ。
地上で、消耗しきっていたノアⅣのパイロットたちが顔を上げる。
バルトの『Gファランクス』のジェネレーター出力が、急速に回復していく。
ヨシュアの『ソウル・エンチャンター』のセンサー感度が、極限まで研ぎ澄まされる。
鴉の『朧影』の光学迷彩が、より深く、世界に溶け込んでいく。
「力が……湧いてくる……!」
バルトが操縦桿を握り直す。
「アリアちゃんの歌だ! へっ、最高の応援歌じゃねえか!」
さらに、歌声は重なっていく。
アーク・ロイヤルの通信室から、エマ、シアン、リン、カエデ、ユナの声が合流する。
**《一人じゃない 絆る魂》**
**《鋼鉄の翼で 明日へ翔べ》**
6人の歌姫による大合唱。
そのハーモニーは、物理的なエネルギーフィールドとなってノアⅣ軍の機体を包み込む。
傷ついた装甲が光に覆われ、機体性能がカタログスペックを遥かに超えて向上する。
「行ける……! 今なら、負ける気がしないわ!」
リシェルが叫び、片腕のアサルト・ヴァンガードで猛然と反撃を開始する。
ノアⅣの量産機『アイアンクラッド』に乗るゲイルたち一般兵も、歌声に鼓舞され、鬼神のごとき強さで前線を押し上げていく。
防戦一方だった戦況が、劇的に逆転し始めていた。
◇
一方、最前線で無双の活躍を見せるカイトだったが、そのコックピット内での表情は苦渋に満ちていた。
未来視によって回避行動を取りながら、彼は目の前のホープレスを「無力化」することだけに専念していた。
メインカメラを潰す。動力パイプを切断する。脚部を破壊して行動不能にする。
致命傷を与えずに、敵の戦闘能力だけを奪う。
それは、敵を撃破するよりも遥かに高度な技術と、精神的な集中力を要求する行為だった。
(くっ……!)
一機のホープレスが、カイトの死角からナイフで突っ込んでくる。
未来視でそれを察知したカイトは、振り返りざまに相手の手首を掴み、関節を極めてナイフを取り落とさせる。そのまま相手を投げ飛ばし、地面に縫い付ける。
その時、相手のコックピットハッチの隙間から、パイロットの姿が一瞬だけ見えた。
粗末なパイロットスーツ。痩せこけた頬。
その顔立ちは、かつてカイトが過ごした棄民都市で見かけた、名もなき人々のそれと同じだった。
(やっぱり、そうか……。)
エデン軍の兵士たち。彼らの多くは、ノアの圧政によって故郷を追われ、全てを奪われた棄民たちだ。
自分と同じ境遇の、あるいは、自分だったかもしれない人間たち。
彼らは今、イザベラのシステムによって心を操られ、憎しみを増幅させられて戦わされている。
「どけぇぇッ! 貴様ら富裕層の犬がぁぁッ!」
通信機越しに、敵パイロットの狂乱した叫び声が聞こえる。
カイトは、剣を振り上げかけた手を止めた。
(殺せない……。彼らを、殺すわけにはいかない!)
カイトの中で、葛藤が渦巻く。
彼らを止めなければ、ノアⅣが滅びる。だが、彼らを殺せば、自分は彼らから故郷を奪った連中と同じになってしまう。
『カイト! 右! ビームが来る!』
ユキの悲鳴のような警告。
カイトは反射的にシールドを展開するが、反応が遅れた。
衝撃が走り、ベオウルフの装甲が焼ける。
手心を加える余裕などない戦場で、不殺を貫くことの無謀さ。
だが、カイトは諦めなかった。
「アリア! もっと強く……彼らに、歌を届けてくれ!」
カイトの悲痛な叫びが、歌姫に届く。
◇
ステージの上で、アリアは目を見開いた。
カイトの苦しみ、そして敵兵たちの悲しみ。DIVAシステムを通じて、その全てが彼女の中に流れ込んでくる。
彼女は、歌声の質を変えた。
味方を鼓舞する「戦いの歌」から、敵の心を溶かす「癒やしの歌」へ。
**《憎しみの炎 涙で消して》**
**《思い出して 愛しき日々を》**
その歌声は、広域共鳴システムによって増幅され、強力な精神干渉波となってエデン軍のヘッドギアを直撃した。
——ザザザザッ……!
ホープレスのコックピット内で、パイロットたちの脳内を支配していた「精神高揚ノイズ」に、アリアの歌声が混線する。
強制的な興奮状態と、歌による鎮静作用が衝突し、システムがエラーを吐き出す。
「あ、がぁ……っ! なんだ、この歌は……!」
パイロットの一人、アルドは頭を抱えた。
ヘッドギアからの命令が途切れ、代わりに優しい旋律が脳を満たしていく。
視界を覆っていた赤いもやが晴れていく。
目の前にいるのは、悪魔ではない。自分たちと同じように、必死に生きようとしている人間たちだ。
「俺は……何を……?」
戦意という名の狂気が、急速に冷めていく。
一人、また一人と、ホープレスの動きが止まる。
剣を下ろし、銃口を逸らす。
アリアの歌声は、イザベラが作った洗脳システムを、根底から覆しつつあった。
◇
エデン軍、前線指揮所。
司令官は、モニターに映る信じがたい光景に呆然としていた。
「バカな……! システムダウンだと!? 全機、コントロールを受け付けません! パイロットたちのバイタルが、戦闘状態から通常状態へ低下しています!」
「敵の……歌のせいか!?」
さらに、追い打ちをかけるように通信が入る。
「報告! 後方の補給基地より入電! 『基地壊滅! 所属不明機の急襲により、物資全損!』……通信、途絶えました!」
「なんだと!? 補給線が断たれたのか!?」
前線の崩壊と、後方の壊滅。
完璧だったはずの包囲網が、たった数時間でズタズタに引き裂かれていた。
想定外の事態に、指揮官の思考が停止する。
そこに、トドメとなる情報が飛び込んだ。
「あ、海側から巨大な熱源接近! あれは……空飛ぶ船!? 砲撃来ます!!」
ズドォォォォン!!
アーク・ロイヤルの主砲が、エデン軍の集結地点をピンポイントで粉砕した。
ユキの精密射撃だ。
「ひ、退けぇッ!! これ以上は全滅するぞ! 撤退だぁぁッ!」
悲鳴のような撤退命令が出された。
戦意を喪失していたエデン軍は、雪崩を打って敗走を始める。
統率された軍隊は、烏合の衆となって散り散りに逃げ去っていった。
◇
夕闇が迫る荒野。
戦闘音は止み、静寂が戻りつつあった。
無数のホープレスが、あるいは破壊され、あるいは機能を停止して立ち尽くしている。
カイトは、ベオウルフ・リベリオンを降り、地面に立った。
目の前には、両足を破壊された一機のホープレスがある。
そのコックピットから、パイロットがよろよろと這い出してきた。
アルドだ。
彼は地面に蹲り、震えながらカイトを見上げた。殺される、と思ったのだろう。
カイトは、ゆっくりと彼に歩み寄る。
そして、手を差し伸べた。
「……もう、終わりだ。」
アルドは、カイトの手を呆然と見つめた。
そこにあるのは、憎しみではない。悲しみと、そして共感だった。
アルドの瞳から、涙が溢れ出した。
「う……うぁぁぁぁ……。」
彼はカイトの手を取れず、ただ大地に突っ伏して泣いた。
カイトは、何も言わずにその場に立ち尽くしていた。
アーク・ロイヤルが、夕陽を背に着陸態勢に入る。
アリアの歌声は止んだが、その余韻は、人々の心に深く刻まれていた。
勝利。
だが、誰一人として歓声を上げる者はいなかった。
傷ついた街、倒れた人々、そして、同じ人間同士が殺し合ったという事実。
その重みが、カイトの肩にのしかかる。
(俺たちは……守れたのか?)
カイトは空を見上げた。
この戦いは、まだ終わりの始まりに過ぎない。
真の敵は、まだ影の中にいる。
「帰ろう、カイト。」
いつの間にか、ユキからの通信が入っていた。
その優しい声に、カイトは小さく頷いた。
「ああ……帰ろう。」
彼は、泣き崩れるエデン兵に背を向け、仲間たちの元へと歩き出した。
その背中は、以前よりも少しだけ大きく、そして孤独に見えた。




