凡人の覚悟、白銀の出航
地中海の陽光が、白亜の科学都市ノアⅥを照らし出している。その広大な発着ポートにおいて、ひときわ異彩を放つ巨大な影があった。
白銀の流線型フォルムを持つ超大型強襲母艦『アーク・ロイヤル』。
イザベラが「遊び」で設計し、セレーナが強奪同然に運び込んだこの船は今、数時間後に迫った出航の刻を前に、まるで巨獣が目覚めようとするかのような熱気を帯びていた。
艦内、メインコントロールルーム。
そこは、戦場さながらの慌ただしさに包まれていた。
「Bブロック、機関出力安定確認。冷却システム、グリーン。C区画の居住エリアへの酸素供給、問題なし!」
「第3ハッチ開放! ニコ博士の研究機材、搬入急いで! 振動厳禁よ、あれは精密機器の塊なんだから!」
「食料コンテナ、及びノアⅥから提供された弾薬、積載率98%。あと少し詰め込めるわね。隙間に予備の冷却材をねじ込んで!」
オペレーター席に座り、矢継ぎ早に指示を飛ばしているのは、ユキだった。
ヘッドセットのマイクに向かって叫び、空中に浮かぶ複数のホログラムウィンドウを指先で弾くように操作する。その姿には、かつて下層区画の整備ドックで油まみれになっていた頃の、どこか自信なさげな少女の面影はない。
イザベラからマスター権限を託され、この船の心臓部を握った彼女は、今や『アーク・ロイヤル』を統御する要となっていた。
「……すごいな。」
その様子を、一段高い位置にある艦長席から呆然と見下ろしている男がいた。
彼の名前は、**トーマス**。
どこにでもいそうな平凡な顔立ちに、少し後退しかけた生え際を気にする、中肉中背の男だ。ノアⅣ軍の制服を着ているが、その着こなしには歴戦の勇士のような威圧感はなく、むしろ事務仕事に疲れたサラリーマンのような哀愁が漂っている。
(なんで、俺がここの席に座っているんだろう……)
トーマスは、ふと遠い目をした。
彼は元々、ノアⅣ軍の兵站局に所属する、一介の文官だった。今回の星歌祭における任務も、軍の「お偉方」が体裁だけ整えて提出したプランに基づき、現地での宿舎手配や物資調達、式典への参加登録といった事務処理を行うことだったはずだ。
戦闘など無縁。星装機のパイロットたちが華々しく戦う裏で、帳簿と睨めっこをするのが彼の仕事だった。
だが、あの日。エジプトでの惨劇がすべてを変えた。
エデン軍による奇襲と、富裕層への無差別攻撃。
観客席にいたノアⅣの軍高官たちは、真っ先に標的となり、その多くが命を落としたか、行方不明となった。指揮系統は瞬時に崩壊。残されたのは、現場で右往左往する実働部隊と、カイトたち星装機パイロット、そして、事務方として裏方に徹していたトーマスだけだった。
混乱の中、カイトたちの脱出を支援し、ノアⅥへの移動ルートを確保し、アウラ司令との折衝を行い、クルーの再配置を決めたのは、皮肉にも生き残った中で最も「事務処理能力」に長けていたトーマスだった。
なし崩し的に、彼はこの難民船と化した部隊の指揮官——艦長に祭り上げられてしまったのだ。
「艦長! ノアⅥ管制塔より、最終離陸シークエンスへの移行承認が降りました!」
ユキの声が、トーマスの思考を現実へと引き戻す。
彼は慌てて居住まいを正し、艦長席のコンソールを見た。
「あ、ああ。了解だ。……ええと、全セクション、最終点検を急がせてくれ。」
「了解です! ハンガーデッキ、機関部、医療区画、全回線オープン。各班長、最終ステータスを報告してください!」
ユキのきびきびとした指示が飛ぶ。トーマスは、額の汗を拭った。
情けない。年下の少女がこれほど覚悟を決めて動いているというのに、自分はまだ、事の重大さに足がすくんでいる。
作業は順調に進み、予定されていた搬入物の積載はほぼ完了しつつあった。
特に難関だったのは、ニコの研究室そのものの「移設」だ。レイの治療に必要な巨大なカプセルや解析装置、そしてノアⅥの技術の粋を集めた機密データ。それらをアウラ司令の黙認のもと、アーク・ロイヤルへと運び込む作業は、まさに綱渡りだった。
さらに、危険極まりないDARKコアを搭載した機体『ノワール』の残骸——ニコが爆破したとはいえ、回収可能なパーツとコアメモリの予備——の搬入も、細心の注意を払って行われた。
「本日の全体スケジュール、全行程完了しました。これより夜間シフトへ移行します。」
数時間後。ユキが大きく息を吐きながら報告した。
窓の外はすでに夕闇に包まれている。
「お疲れ様、ユキちゃん。……いや、オペレーター・チーフ。」
トーマスは席を立ち、階段を降りてユキの元へと歩み寄った。
「君のおかげで、なんとかなりそうだ。正直、僕一人じゃパンクしていたよ。」
「そんなことないですよ、艦長。」
ユキは照れくさそうに笑いながら、端末のデータを整理している。
「艦長がノアⅥ側と粘り強く交渉してくれたおかげで、補給物資も弾薬も満載できました。あの交渉、私やカイトじゃ絶対に無理でしたもん。」
「……まあ、頭を下げるのと、書類を作るのだけは得意だからね。」
トーマスは自嘲気味に笑った。
彼の武器は、剣でも銃でもない。調整能力と兵站管理。地味だが、軍隊を動かす血管の役割だ。
「それで、もう休むかい? 明日は早いよ。」
トーマスが尋ねると、ユキは首を横に振った。
「いえ、私はもう少し残ります。アーク・ロイヤルの火器管制システムと、ベオウルフ・リベリオンの連携シミュレーションをしておきたくて。イザベラさんの残したデータ、まだ全部は解析できてないんです。」
その瞳は、真剣そのものだった。
セレーナとの出会い、そしてイザベラからの託された権限。それらが、彼女を単なる整備士から、戦艦の頭脳へと成長させていた。
「……そうか。無理はしないようにね。」
「はい! 艦長も、おやすみなさい!」
元気な返事に見送られ、トーマスはコントロールルームを後にした。
◇
静まり返った艦内の通路を、トーマスは一人歩いていた。
足音だけが、金属の床に響く。
自室に戻るべき時間だが、彼の足は自然と艦の深部へと向かっていた。眠れるわけがなかった。明日になれば、この船は戦場へと旅立つ。そして、ノアⅣを守るための盾とならなければならない。
(俺に、できるのか……?)
彼は、巨大な扉の前で足を止めた。
第1ハンガー。
セキュリティパスをかざすと、重厚な扉がスライドし、広大な空間が広がった。
ハンガーの最奥。
特別区画に鎮座するのが、漆黒と白銀の混じり合う機体、『ベオウルフ・リベリオン』だ。
先の激戦の傷跡は、ラプラスとユキの手によって修復されているが、その機体から漂うオーラは、以前よりも鋭く、研ぎ澄まされているように感じる。
(英雄の機体……か。)
トーマスは、手すりに寄りかかり、ベオウルフを見上げた。
カイトという少年。
普段は寡黙で、不器用な青年だが、コックピットに座れば鬼神のごとき強さを発揮する。彼の力があれば、エデンとも戦えるかもしれない。誰もがそう期待している。
だが、トーマスの胸にあるのは、不安だった。
彼は、文官としてノアⅣの軍事情勢を見てきた。
「棄民戦争」が終わって久しいノアⅣにおいて、軍とは名ばかりの存在だった。主な任務は周辺地域のパトロールや、暴動の鎮圧。大規模な戦闘など、何十年も経験していない。平和ボケした組織、それが実情だった。
星装機も、カタログスペック上の性能は高いが、それを運用する戦術論がアップデートされていない。1対1の決闘や、小規模な紛争を想定したものばかりだ。
対して、エデン軍は違う。
トーマスは、ノアⅢ侵攻の映像を脳内で再生した。
量産機『ホープレス』の群れ。個々の性能は低くとも、完璧に統率された集団行動。恐怖を知らず、死を恐れず、波状攻撃で防衛線を食い破る。それは、「軍隊」として完成されていた。
さらに、彼らにはイザベラという天才がついている。次々と繰り出される新兵器、そして戦略。
(まともにぶつかれば、負ける。)
トーマスは、冷徹に分析した。
ノアⅣの正規軍が束になっても、エデンの物量と狂信的な士気の前には、紙屑のように散らされるだろう。
正面から艦隊戦や陣取り合戦を挑めば、勝ち目はない。
「……だが、我々には『個』がある。」
トーマスは呟き、視線をハンガー内の機体たちに走らせた。
ノアⅣの星装機は、それぞれが一点特化型のユニークな機体だ。パイロットも一癖も二癖もあるが、技量は確かだ。
そして何より、この『アーク・ロイヤル』がある。
通常の母艦を遥かに凌ぐ速力と、ステルス性。そして、単艦での長期行動能力。
(要塞に立てこもっての防衛戦は下策だ。包囲されて終わる。)
トーマスの脳内で、パズルのピースが組み合わさり始める。
事務屋としての計算能力が、戦略的なシミュレーションへと変換されていく。
(アーク・ロイヤルを遊撃部隊の拠点として運用する。神出鬼没に戦場に現れ、敵の補給線や司令部を叩く。)
正規軍が正面で敵を受け止めている間に、この船が高機動力を活かして敵の側面や背後を突く。
カイトの『ベオウルフ』が切り込み、バルトの『Gファランクス』が戦線を維持し、リシェルの『ヴァンガード』が火力を叩き込む。鴉の『朧影』が撹乱し、ヨシュアの『エンチャンター』が支援する。
少数精鋭による、ゲリラ戦術。
エデン軍の「統率」という強みは、裏を返せば「想定外の事態への柔軟性の欠如」になり得る。
彼らのマニュアルにない動きで、戦場をかき回す。
「ジョーカー……か。」
セレーナが言っていた言葉を思い出す。
この部隊は、盤面をひっくり返すジョーカーになり得る。
そして、そのジョーカーを切る役目が、艦長である自分なのだ。
足音が近づいてくる。
トーマスが振り返ると、そこに立っていたのは、カイトだった。
眠れずに機体の様子を見に来たのだろうか。
「……艦長。」
カイトが、ぎこちなく敬礼する。
「やあ、カイト君。眠れないのかい?」
「はい。……少し、ベオウルフと話がしたくて。」
カイトは手すりの横に並び、愛機を見つめた。
その横顔には、決意と共に、隠しきれない重圧が滲んでいる。
「艦長こそ。……俺たちみたいな素人の集まりを指揮するのは、大変でしょう。」
カイトの言葉に、トーマスは苦笑した。
「ああ、大変だよ。胃に穴が開きそうだ。僕は英雄でも、天才指揮官でもないからね。ただの、数字合わせが得意な事務屋さ。」
「でも、貴方がいなければ、僕たちはここにはいなかった。」
カイトは真っ直ぐにトーマスを見た。
「みんなをまとめて、ここまで連れてきてくれた。感謝しています。」
その真っ直ぐな瞳に、トーマスは胸を打たれた。
この少年は、背負っているのだ。世界の運命を、仲間の命を、そして愛する人たちの未来を。
それに比べれば、自分の悩みなどちっぽけなものだ。
「……僕はね、カイト君。君たちを死なせないことだけを考えているんだ。」
トーマスは、夜のハンガーを見渡しながら語った。
「勝つことも大事だが、生きて帰ること。それが一番だ。そのための計算なら、いくらでもしてやるさ。」
彼は、カイトの肩に手を置いた。
「君は、前だけを見て戦えばいい。背中は、僕とユキちゃん、そしてこの船が守る。……頼りない艦長かもしれないが、君たちの足場くらいにはなってみせるよ。」
「……はい。信じています。」
カイトが力強く頷く。
「よし。じゃあ、そろそろ休もうか。明日は早い。」
「はい。おやすみなさい、艦長。」
カイトがベオウルフの方へと降りていくのを見送り、トーマスは再び歩き出した。
機関室の轟音を聞き、格納庫の静寂を感じ、通路の冷たい空気を吸い込む。
この巨大な鉄の塊が、明日から自分たちの「家」であり、「砦」となる。
部屋に戻ったトーマスは、机の上に広げられたタブレット端末を見た。
そこには、ノアⅣ周辺の地図と、エデン軍の予想進路図が表示されている。
彼はスタイラスペンを手に取り、そこに新たな線を書き加えた。
ノアⅣの防衛ラインを大きく迂回し、敵の横腹を食い破る、アーク・ロイヤルの航路。
(文官上がりの意地、見せてやるさ。)
平凡な男の瞳に、微かな、しかし確かな闘志の炎が宿る。
英雄にはなれなくても、英雄を支える土台にはなれる。
彼の中で、覚悟は決まっていた。
翌朝。
朝日が昇ると共に、アーク・ロイヤルのメインエンジンが咆哮を上げた。
反重力ユニットが唸りを上げ、巨大な船体がふわりと浮き上がる。
『全システム、オールグリーン。進路、東! 目的地、ノアⅣ!』
オペレーター席で、ユキが高らかに宣言する。
『アーク・ロイヤル、発進!』
艦長席のトーマスが、右手を振り下ろした。
白銀の巨船は、イタリアの青い空を切り裂き、加速していく。
目指すは極東の島国。
そこには、愛する故郷と、待ち受ける強大な敵がいる。
希望と不安を載せて、箱舟は今、動乱の空へと旅立った。




