楽園の隘路
エデンによる緑化都市エジプト制圧から四ヶ月。
かつての華やかな「星歌祭」の舞台であったこの都市は、今や、エデン勢力の統治下にあった。ピラミッドにはエデンの旗が翻り、転送ゲートからは彼らの管理下に置かれた物資が運び込まれる。街の賑わいは以前とは異なる平穏な喧騒を取り戻していた。人々の表情は、ノアの支配から解放された安堵と、新しい社会への期待、そして、これからの未来への不安が混じり合っている。商店が軒を連ね、活気ある市場の声が響く一方で、エデン兵士の厳重な巡回が、この都市の新たな支配者の存在を明確に示していた。
そのピラミッドの頂上に設置されたコントロールルーム。壁面を埋め尽くすモニターには、エジプトの全貌が映し出され、隅々まで監視されていた。司令官であるレオンは、苛立ちを隠せないでいた。彼は棄民都市出身で、かつてムーニーの支配に苦しんだ者の一人だ。その経験からムーニーを強く憎悪し、エデン、そしてアルトというリーダーに深い誇りを持っていた。彼にとって、エデンの理念は絶対だ。しかし、この四ヶ月間、エジプトの統治と軍事戦略において、彼がアルトから認証されたイザベラに振り回され続けてきた事実は、拭い去れない不満となっていた。
「……ようやく、来やがったか……」
レオンは、モニターに表示されたアルトの到着を告げる情報に、安堵と、同時に、言いようのない疲労を滲ませた。
この四ヶ月間、エジプトの都市を統治するには、人員もノウハウも圧倒的に不足していた。特に、かつてのムーニー支配下の複雑な行政システムを理解し、運用できる人材が乏しかったのだ。そこで、レオンは、イザベラの指示のもと、アズラエルを軟禁状態にして協力を要請。彼の持つ知識と、ムーニーのシステムを理解する能力を利用し、なんとか都市の秩序を構築していった。形としてはエデンの統治下にあったが、実際はイザベラの指示がなければ、レオンは一歩たりとも統治を進めることができなかった。
(これでようやく、文官のアルト様が来られたのだ。俺も、軍務に専念できる……)
レオンは、安堵の息を漏らす。アルトが多くの文官を伴っているため、煩わしい統治の任務からは外れることができるだろうという希望があった。
しかし、エデン軍としての現在の課題は、山積していた。
ホープレスに次ぐ新型機の開発と製造は、イザベラの専門分野だ。彼女は常に「もっと面白くなるわ」と謳いながら、地下深くの工業ブロックに引きこもっている。その技術力は確かだが、何よりも研究の面白さを優先する姿勢は、軍人としては歯がゆい。
ピラミッドの転送装置は、限定的ながら運用は可能となっているものの、ノアZEROを含むムーニーの警戒は依然として厳重だ。偵察ドローンが度々現れ、エジプトの周辺を探っている。一部の偵察部隊が行方不明になるなど、情勢は決して安定していない。
さらにレオンの頭を悩ませているのが、観客席にいた富裕層を虐殺した部隊の扱いだった。ムーニーの支配階級に対する深い恨みから、虐殺行為に走った部隊は少なくない。エデン軍の中でも、彼らを「正義を遂行した英雄」と見なす者と、「命令違反をした殺戮者」として処罰するべきだと意見が真っ二つに分かれていた。これらの問題解決は、すべて代表であるアルトが来てからと、レオンは後回しにしていた事項も少なくない。エジプトの街は平穏な喧騒を取り戻していたが、この「虐殺」という新たな火種を抱え、他のノアとの交渉がどうなっていくのか、レオンには全く検討がつかなかった。
(アルト様が来られた以上、もう、私が頭を悩ませる必要もないか……)
そう自嘲気味に呟いた。
その時、コントロールルームの扉が開かれ、アルトが姿を現した。彼の顔は、穏やかな笑みを浮かべている。その後ろには、多くの文官らしき人物が、整然と並んでいる。
「司令官、ご苦労様でした。この四ヶ月、貴殿の尽力により、エジプトは平穏を保てました。心より感謝申し上げます。」
アルトの声は、穏やかだが、その言葉には、確かな重みがあった。レオンは、その言葉に、安堵の息を漏らす。ようやく、この重圧から解放される。
しかし、アルトは、レオンの安堵を一瞬で打ち砕いた。
「ただちに、緊急会議を開く。出席者は、レオン司令官、そして……イザベラ、それから、元エジプト管理官、アズラエル様を呼ぶように。」
アルトの声が、司令室に響き渡る。その言葉に、レオンは、驚愕した。
「アズラエルを……!?しかし、アルト様、彼の軟禁状態は……?」
「その軟禁状態を、解くのだ。彼は、エデンに必要な人間だ。そして、イザベラだが、彼女は工業地区にいるようだ。連絡を取るように。」
レオンは、アルトの命令に、戸惑いを隠せない。イザベラは、エデン勢力の技術顧問であり、軍事計画の中枢を担っている。アズラエルは、ムーニーの支配層であり、エデンの敵だ。その二人を、同時に会議に呼ぶとは。
「ですが、アルト様。アズラエルを会議に出席させる意味がわかりません。彼はムーニーの……」
レオンは、反論しようとするが、アルトは、それを遮った。
「これは、緊急事態だ。レオン司令官。ノアⅢに送った使者が、問答無用で殺された。」
アルトの声が、司令室に響き渡る。その言葉に、レオンは、目を見開いた。
「何だと……!?」
ノアⅢ。上流社会のみで構成される寡頭制の都市。エデンからの使者に対して、彼らは明確な拒絶の意思を示したのだ。それは、武力衝突を意味する。
「交渉は決裂した。他のノアも、ノアⅢと同様の対応を取る可能性が高い。我々は、もはや、選択肢はない。」
アルトの声には、悲しみと、怒り、そして、確固たる決意が込められていた。
エジプトの街は、再び、激動の時代へと突入しようとしていた。
夜が更けるエエジプトの地下深く、広大な工業地区。轟音と熱気が充満する工場内には、無数の製造ラインが稼働し、エデン軍の新型星装機「ホープレス」が、次々と生産されていた。鉄の匂いとオイルの蒸気が立ち込め、暗闇の中をサーチライトの光が縦横無尽に走り回る。
その中心部、煌々と明かりが灯るイザベラの専用ラボ。モニターに映し出されるは、大量生産される「ホープレス」の製造データと、パイロットの精神高揚に関する解析結果。イザベラは、そこに映る数値を、狂気的なまでの集中力で分析していた。彼女の指先は、キーボードの上を忙しく動き、新たなデータが、次々と画面に表示されていく。
「フフフ……素晴らしいわ。DIVAコアⅡカスタムの性能は、私の予想を遥かに超えてくれたわね。」
イザベラの口元に、満足げな笑みが浮かぶ。ヘッドギアから流れる周波数ノイズによって、パイロットの精神が高揚し、彼らの動きは、まるでロボットのように統制が取れる。しかも、生命維持装置を極限まで少なくし軽量化したホープレスは、短時間ながら空中を飛ぶことも可能だ。これは、エデン軍の集団戦術において、圧倒的な優位性をもたらす。
「これで、どのノアも、我々を止めることはできないわ。」
イザベラの声には、確信が込められている。彼女の目的のためには、犠牲も厭わない。それが、彼女の科学者としての、唯一の真実だ。
その時、ラボの扉が開き、レオンが姿を現した。彼の顔には、焦燥の色が浮かんでいる。
「イザベラ。アルト様が到着し、緊急会議の招集があった。すぐに、コントロールルームへ来てほしい。」
レオンの声は、いつもの冷静さを失っていた。
イザベラは、モニターから視線を外すと、レオンに不満げな表情を向けた。
「あら、ごめんなさい。今、手が離せないの。新しいホープレスの開発で、忙しいのよ。」
イザベラの口調には、レオンの焦燥を嘲笑うかのような、皮肉が込められている。
「だが、イザベラ!ノアⅢに送った使者が、殺されたのだ!これは、戦争を意味する!」
レオンの声が、怒りに震える。
イザベラは、レオンの言葉に、肩をすくめた。
「あらあら、仕方ないわね。どうせ、アズ坊も呼ばれてるんでしょ?面白いことになりそうじゃない。」
イザベラの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。彼女の瞳の奥には、新たな実験への期待と、混沌への欲望が宿っていた。
「まあ、いいわ。すぐに向かうわ。ただ、もう少しだけ、時間を頂戴。このデータも、会議には必要になるでしょうから。」
イザベラの指示を受け、レオンは焦燥感を募らせるも、これ以上はイザベラの作業を邪魔することはできない。レオンが部屋を出て、しばらくすると、再び一人になったイザベラは、モニターに映し出されたノアⅢからの使者の惨殺現場の映像を見て、その口角を上げた。
「フフフ……。本当に、面白いわ。ノアの連中は、まだ、何も分かっていない……。彼らは、愚かだわ。」
イザベラは、その狂気的な笑みを深め、誰もいないラボに、声高に呟いた。
-
エジプトのコントロールルーム。アルトの号令のもと、緊急会議が始まった。長机を囲むように、レオン司令官、イザベラ、そして軟禁状態から解放されたアズラエルが座っている。アルトの顔には、穏やかながらも、厳しい表情が浮かんでいた。
「ノアⅢからの使者が、殺された。これは、ノア計画の新たな局面を意味する。」
アルトの声が、コントロールルームに響き渡る。その言葉は、悲しみと、怒り、そして、確固たる決意が込められていた。
レオンは、その言葉に、静かに頷いた。彼の顔には、復讐の炎が燃えている。ノアⅢへの攻撃は、正当防衛ではない。それは、エデンが抱える、ムーニーへの恨み、そして、棄民たちの絶望が生み出した、新たな争いの火種だ。
イザベラは、テーブルに肘をつき、退屈そうにアズラエルを見つめていた。アズラエルは、顔色は悪いものの、沈着な態度を保ち、何も言わない。彼の瞳の奥には、現状への冷静な分析と、どこか深い虚無感が宿っている。
「イザベラ。貴女から、今回の事件について、何か、情報はあるか?」
アルトの声が、イザベラに向けられた。
イザベラは、アルトの問いかけに、不敵な笑みを浮かべた。
「あら、アルト。そんなに急がないで。ノアⅢの使者が殺されたのは、シンプルなこと。彼らは、明確な敵意を示した。それに、私は、ただ、ホープレスに次ぐ新型機の開発で、忙しいのよ。」
イザベラの言葉は、レオンの怒りを煽る。
「イザベラ!ふざけるな!貴女は、エデンの兵士に、富裕層を虐殺するように命令した。あれは、ノア計画の理念に反する、卑劣な行為だ!」
レオンは、怒りに震えながら、イザベラを糾弾する。
イザベラは、レオンの怒りを嘲笑うかのように、肩をすくめた。
「あらあら、何を今更。私はただ、富裕層を排除することで、ノア計画の遅滞を引き起こしていた膿を取り除いたまで。そして、階級制度を廃止し、エデンの理念を広めただけのことよ。それに、それは、あなたたち過激派が、一番望んでいることなのでしょう?」
イザベラの言葉に、レオンは、言葉を詰まらせた。彼女の言う通り、虐殺は、過激派の兵士たちが、長年抱えていた恨みを爆発させた結果だ。それを、イザベラは、巧みに利用した。
「アズラエル様。今回の事件について、何か、ご意見は?」
アルトの声が、アズラエルに向けられた。彼の顔には、疲労の色が滲んでいる。軟禁状態にあるとはいえ、彼の置かれた状況は、過酷なものだっただろう。
アズラエルは、ゆっくりと、口を開いた。
「ノアⅢの使者が殺されたこと……それは、残念です。しかし、ムーニーの支配体制が、破綻寸前であることは、承知しております。ノアⅢもまた、愚かな支配層が、地球の再生を阻害しているに過ぎません。」
アズラエルの言葉は、冷酷だ。彼は、自身の理念に従い、ムーニーの支配体制の崩壊を、静かに見守っていたのだ。
「しかし、アルト様。今回の事態は、我々にとって、非常に危険な状況です。ノアZERO、そして、他のノアが、黙って見ているはずがありません。」
アズラエルの言葉に、アルトは頷いた。彼の懸念は、もっともだ。
「そのための、使者派遣よ。」
イザベラは、ニヤリと笑った。
「ノアⅢ、ノアⅣと富裕層が支配しているノアとの交渉は、早くも決裂したわ。エジプトから最も近いノアⅥからは、一部限定的な協力を得られたものの、ノアZEROを刺激する、真のノア計画に関わる極地のノアや、エジプトから遠いノアとの交渉は、これからだ。」
イザベラの言葉に、レオンの顔色が変わる。
「では、第三段階……軍事的侵攻を開始するのか!?」
レオンの声が、怒りに震える。彼は、闘技場での戦いでは、最高の力を発揮するが、しかし、無差別な殺戮を命じられることには、抵抗があった。
「その前に、この計画を、各ノアへ、アピールする必要がある。階級制度の廃止。食料支援。そして、地球緑化計画……」
イザベラは、スクリーンに、エデンが提唱する、新たなノア計画の概要を映し出した。それは、ムーニーの支配から解放され、全人類が共存する、理想的な未来。
「従来のノア計画は、地球のポールシフトを行い、極地の氷を溶かし、海を復活させるというものだった。しかし、エデンの計画は、大容量のコア内蔵熱源を極地に設置し、氷を徐々に溶かすというもの。部分的な海の復活を考え、地球に住んでいる人類に優しい計画になっているわ。」
イザベラの言葉に、アズラエルは、驚愕の表情を浮かべた。その計画は、彼の知る、マザーの計画とは異なる。しかし、その根底にある理念は、同じだ。
「そして、交渉決裂したノアへは、軍事的侵攻を行うわ。ノアⅢを皮切りに、ノアⅣ、ノアⅧ、ノアⅤ……」
イザベラは、スクリーンに、侵攻計画のルートを表示した。各ノアの戦力は、エデン軍に遠く及ばない。DIVAコアの能力によって集団戦の戦闘能力が上昇しているエデン軍は、圧倒的に有利だ。
「ノアⅥは中立の立場を取ることで、食料支援を交換条件にしたのね。なるほど。」
アズラエルは、イザベラの行動の全てを理解した。彼女は、計算された戦略で、ノアを追い詰めていたのだ。
アルトは、イザベラ、レオン、アズラエル、それぞれの顔を見回した。
「……愚かな争いを終わらせ、真の楽園を創る。それが、我々の使命だ。この計画を、必ず成功させよう。」
アルトの声には、揺るぎない決意が込められていた。彼の穏やかな表情の奥には、決して揺らぐことのない、鋼の意志が宿っている。
エジプトの街は、今、新たな時代の幕開けを告げる、静かな嵐の前の静けさに包まれていた。
そして、その嵐は、全てを飲み込み、地球全体を巻き込む、巨大な戦いへと発展していく——。




