第3話 ブレーキ音は鳴らないまま何処までも
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「——海の水って飲んだことある?」
「だから飲めないのは知ってるよ」
「ちぇ……」
日が落ちた海岸。街灯の灯りのみが足元を照らし、散りばめられた星屑が海面に映る。
オレは辛抱たまらず駆け出し、ズボンの裾を派手に濡らした。冷たく、足の指と指の間に入った砂が心地いい。
「ちょっと、暗いんだから危ないよ。毒魚がいるかもしれないし」
四月一日はそう言いながらもワンピースの裾をたくし上げてすぐ側に立った。
「明日、水着を借りて一緒に泳ぐか」
「今更なんだけどさ。野良って泳いだことあるの?」
「ないけど。まぁ、大丈夫」
一際大きな波が押し寄せ、ザッパーンと白い泡が立つ。
呆れた様子の四月一日はすぐに笑って陸地に手を引っ張った。
「じゃあ、海はまだ早いね。そんなんじゃ波に流されて沖に出ちゃうよ」
「ここにいる生物見たかった……」
「B・P号に海水プールがあるからそこで一旦練習しよう。だから、独りで海に入らないでね。心配掛けないで」
「心配してくれてたのか」
「ずっとしてる。祖父母にも合わせるつもりなんだから尚更二人の心労にならないでよ」
「わかった」
そのまま沖に出た真ん前に、祖母が経営しているという旅館があった。
『志楽の湯』
重厚な欅の看板にそう店名が書かれていた。
建物に対して、初めて親しみというものを感じた気がした。
「——おや、いらっしゃいませ。……あれ幸叶、帰ってきたのか?」
戸を開くと、パープル色のワンピースを着た老人が四月一日の姿を見て目を丸くさせた。
お年寄りと呼ぶには若々しい姿で、てっきり和服を着た女将がいると思っていた。
「ただいま、婆ちゃん」
「おかえり。連れのイケメンは彼氏かい? いい趣味してるじゃないの。爺さんの若い頃にそっくりだ」
孫ですからね。
「彼氏じゃないよ。友達だよ」
「ほへー、男の子の友達を連れてくるなんて初めてじゃないかい? まぁ女の子の友達も見たことないけど」
「ちょ、婆ちゃん!」
四月一日は顔を赤めて余計なこと言わないよう叫んだ。
「あー、えっと、野良といいます。よろしくお願いします」
「あらあら、これはご丁寧にどうも。今は友達なんでしょ? 嬉しいわー。この子、お見合いの話をすると嫌がるから女性が好きなんじゃないかとヒヤヒヤしてたのよー」
祖母が歯止めの効かない口を開くたび、四月一日の顔は見たことのない表情に変わっていく。
なんだか少し楽しくなってきた。
「とりあえず彼については後で話すから部屋に案内して」
「まぁ彼って、彼氏って意味かしら、うふふふ。まだ夜には早いわよ」
「五月蝿い。言っとくけど部屋は別だから!」
「えー、ハッスルしないの?」
「しないって!」
元気一杯な祖母は顔を真っ赤にした四月一日に押し出されていった。
オレは案内された和室にキャリーケースを置く。
「私は祖父に挨拶してくるから、夕食時になるまで待てって」
「すごい人だったな」
「私が帰ってくるといつもああなの」
「嬉しいんじゃないか?」
「そうかもね。……貴方が孫だって知ったらもっと喜ぶんじゃない」
四月一日は上手い返しと言わんばかりに微笑むが、オレは否定出来ずに苦笑いを浮かべた。
広縁の窓辺に立ち、月明かりに照らされる海を眺める。真っ暗でなにも見えないが、波の音とは違う水飛沫の上がる音が偶に聞こえてくる。魚が何処かで跳ねたのかもしれない。
感傷に浸っていると早々に一階から名前を呼ばれた。
座卓の置かれた客間に招かれると、着物を着た堅苦しそうな爺さんが訝しげな視線を向けていた。
「——孫娘とはどういう関係かね」
「えっと、あの……」
状況がわからず、キッチンの暖簾から覗いている四月一日に助けを求める視線を送る。
しかし、「正式に自己紹介しちゃって」と軽い感じのウィンクを返された。
名前を明かしていいと許可をもらえた気がしたオレは、呼吸を整え、祖父の顔をじっと見つめる。
「あの、オレは、志楽野良といいます。志楽浩也の息子です」
そうはっきりと答えると、爺さんは目を丸くさせ、キッチンの方から皿の割れる音が聞こえた。
「浩也の息子……?」
「信じられないとは思いますけど。温泉川さん……は連絡つかないから、えっと村田孝宏に連絡をすれば確認が取れると思います。——あとこれ、親父の運転免許です」
祖父はゆっくりと身分証を受け取ると、そっとオレの顔を凝視した。
「……浩也はそっちで元気にやっているのか?」
「はい。足場屋の支柱を六本同時に持ち歩けるほど元気です」
「そうか……」
祖父は親父の身分証を握って静かになった。
「ごめんなさい。唐突にこんな風に押しかけてしまって。でも、話しておきたいと思ったんです。親父がどんな風に育って調査員になったのか。知りたかったんです」
料理が運ばれ、机に並べられる。よくよく考えれば親父以外の家族と初めて食事を囲んでいた。
聞かれるがまま話に答え、そして話の内容に合わせて親父のことを尋ねた。
調査員の話題になると、四月一日はあからさまに嫌そうな顔をしていたがそれでも空気を壊すことは言わなかった。結果的に祖父母を泣かせてしまったが、満足した気分で部屋に戻ることが出来た。
これからやる事は沢山ある。なりより、幸叶との関係をどう終わらせるかだ。
よくよく考えてみると、四月一日のことを何も知らない。知っているようで、重要なことを聞いていなかった。
明日、時間があればこっそりと聞いてみよう……。
翌朝、目を覚ますと「街の人に挨拶をしてくるね」と置き手紙が置いてあった。
海に潜るのを禁止されてしまったオレは、とりあえず観光でもしようと適当に堤防の上を歩く。朝見る景色は昨夜見たものから様変わりしていて、海は青々しく、まるで生きているかのように波が押し寄せる。
浜辺でサンダルを穿いた子供が駆け回っていたり、所々煌びやかな装飾品を身につけた成金ぽい人たちがバーベキュウをして楽しんでいた。
本当に、ここは検問の外の世界なのかと違和感を覚える。
階段を登って泊地に上がると、並んだ漁船の間で竿を垂らす一人の釣り人がいた。
「——なにか釣れるんですか?」
暇だったオレはなんとなしに話しかけた。
「ん、あぁ。そうだ。色々いるでぇ」
「釣竿ってどこで売ってるんです?」
「真っ直ぐ向かった場所にシャッターが閉じかけの店があるだろ。あそこだ」
「あれって閉まってないんですね」
「観光客が釣竿買ったりするんだけど。飽きたからとか言って返品求めてきたりするんだとよ。ほら、移都市だと釣りできるところがないから」
「うんざりしちゃったんすね」
シャッターの隙間から店内に入ると、沢山の釣り道具が全てを占めていた。大部分が釣竿やルーアー、釣り針や仕掛けなどだ。
生臭いような甘いような香りに少し顔を顰めながらも珍しいものばかりで見入ってしまう。店の一番奥には、人の丈を越える魚拓が天井から掛けてあった。
「すみませーん」
レジ前で金を数えていた男に声を掛けると、眉間に皺を寄せながらも顔を向ける。
「なんのようだ」
「あの、釣竿を買いたいんですけど」
「好きなのを持ってこい」
「そうじゃなくて、丈夫で長持ちする釣竿を探しているんです」
「釣り初心者なら店の入り口付近に軽めのものがある。長持ちするかは使い手次第だ」
「そう言うものですか。一様、川や池とかでも釣りができる奴がいいんですけど」
更に注文に指定をつけると、店主は訝しむようにこちらを見てきた。
「お前、なんの為に釣竿が欲しいんだ? 漁師志願者か?」
「色んなところで釣りできたら楽しそうじゃないですか」
店主は小馬鹿にするように鼻で笑う。
「都市外で釣りができる場所なんて、ここを含めた四か所しかねーよ」
「海に面しているところ全てを一か所って言うならそうかもしれないですけど。川とか湖はもっとあるんじゃないですか?」
「そういうこと言ってんじゃねーよ。つーかお前、そんなアホずらの癖に調査員なのか?」
アホズラは関係ねぇだろ、コンニャロ。久しぶりにそんなことを言われたぞ。
「違うけど。調査員にはなるつもりだ。水中の生物だって調べたいから釣りを始めようと思ったんだ」
「いい根性だな」
店主はクスリと笑って両膝を叩いた。
「仕方ねぇな。この俺様が釣りの真髄を教えてやるよ」
「え? いや、釣竿が欲しいだけ……」
「竿なんてものはこの際木の枝だっていんだよ。重要なのは仕掛けと時間の二つだけだ。ここで爆釣りできる代物でも、他所では全く釣れなかったりする。天候時間含め細かな調節が必要なんだよ」
「はぁ……そうですか」
帰りたくなってきたんだけど。なんなのこの人……。
「この話をすると、大概の奴は面倒臭いとぼやくんだが、どうやらお前は違うらしい」
いや、変な人に絡まれて面倒だとは思っていますよ。
「じゃあ、針についてだな……」
このあと、二時間にも渡る釣りの秘訣を教わった。明日も話してやるからと言われたが、予定があるからと断ると彼が自作した釣りの教法を買わされた。
半強制的に買わされた教本は、意外にもネットには載っていない魚の情報などが記載されており、(信憑性はわからないが)毒魚の調理法など困ったときに使えそうな豆知識があった。
畳の上で横になりながら教本を読んでいると、玄関の戸が開く音がした。
四月一日が帰ってきたのだと思って体を起こす。
「お帰り。思っていたより遅かったな」
十九時ちょい過ぎ。一緒に回ろうと言っていた割に旅行二日目は殆ど一緒にいることがなかった。
「ちょっと、実家の手伝いしててね」
「実家って旅館の?」
「違うよ。信楽家じゃなくて四月一日家の方だよ。一様、代理人がいるんだけど、四月一日家は町の管理者だから立場的には私も代表代理なの」
「不安だな……」
「失礼ね。まぁ私も母さんのように上手くやる自信はないけどね。カリスマなんてないし」
「そういやタクシー運転手になるんじゃなかったのか?」
「なるよ」
「親の後を継ぐ気はないのか? なんか勿体無いな」
「……じゃあ、野良が代わりに継いでくれる?」
真っ直ぐとこちらを見据える。
冗談で言っている訳でないのはすぐに伝わった。
「いやぁー、馬鹿には難しそうだな」
「なら二人でやる? 一緒になら継いでもいいよ」
「やけに、グイグイ来るね」
「こんなこと話せるの君くらいだもん。だから、少しだけ楽しい」
「にしてもなんでタクシー運転手なんだ? 親の後を継いだほうが安定するだろ」
「君が言えることじゃないでしょ」
それはそうだ。
四月一日は唸りながらも納得のいく答えが出たのか口を開く。
「でも、やっぱりそうね。ここに居るのが怖いからかな。長く生きたいってのが一番の理由」
「怖いの? 元々はここに住んでたんでしょ?」
「移都市ほど厳重な防衛設備なんてない。地震が起きて大津波が来たら確実にこの街は消えて無くなる。都市からここまで来るところで見たでしょ。この星には人間には想像出来ないもので溢れている」
「でも、そんな生物に惹かれてたんだろ。だから博物館の常連だったんじゃないのか?」
「好きなことをして生きていけるなら皆がそうしている。何度も言い続けるけど、君が調査員になることは反対だよ。生き物が好きだからって理由で調査員になりたいのなら、ここで私と暮らして海の調査でもしていてよ」
……告白? いや、違うか。どうにも彼女と話していると決意が揺らいでしまいそうになる。
親父との別れのときに決意したはずだ。自分の決めた道を進み続けると。
結局返事のしないまま、彼女の必死の告白は有耶無耶になった。
——その晩、後ろめたい気持ちの所為か寝付けずに宿を抜け出していた。
月明かりは美しく、この日は曇り空だったせいか星なんて見えやしない。
堤防の上で腰を掛けて海を眺めていると、突然背後から懐中電灯の光が灯り、のっそりと一人の男が近づいてきた。
「——こんな夜遅くになにしているんだ?」
祖父だ。八十歳を越えているらしく今にも折れ曲ってしまいそうな腰を持ち上げていた。
「それはこっちの台詞ですよ。こんな夜中に出歩いて大丈夫なんですか?」
「眠れなかったんだ」
「それは、自分もです」
なんとなく会話に困って海を眺める。
祖父も同じように海を見た。
「幸叶とは喧嘩しているのか?」
「え?」
「話し声が聞こえてな。まぁそれが気になって眠れなかったんだが」
「すみません……」
「謝ることじゃない。それよりも、お前と幸叶の将来の方が重要だ」
祖父はハッキリとそう言って隣に腰を据える。
「貴方も、調査員になることに反対ですか?」
夢を否定されるのを不安に思いながら尋ねた。
祖父は少し悩んだあと間を開けて答える。
「普通の家族なら反対するだろうし。孫娘を思うなら正直諦めて欲しいと思ってる。けどな。ワシはお主の人生に干渉していいほど深い関係じゃない。お前が幸叶のことを知らないように。幸叶がお前のことを知らないように。将来は本人にしかわからない」
「好きにしろってことですか?」
「まぁ簡潔に述べるとそうだ。他人がどうこうしたところで人生の良し悪しを感じられるのは本人だけだ。ただな……だからと言って他人を無碍にしていいものでもない。誰かが干渉してこなくても夢は変化していくし。人格だって少しずつ変わっていく。だから君の行先を変えようとする相手を遠ざけようとしないでほしい」
「そう、見えていましたか……」
「少なくとも孫娘を相手にしているときはな。とわいえ、鬱陶しいと思う気持ちもわからんでもない」
「バッサリしてますね」
「孫に似たんだろ」
「ひどい言い草だ」
でも少し、なにをすればいいのか分かった気がした。
「あと、聞いておきたいことがあったんですけどいいですか?」
「答えられる範囲ならな」
「どうして、幸叶はオレに固執しているんです? 正直、異常ですよ」
「異常か。まぁそうだな。でも本人にはそんなこと言うなよ。あの子はとても一途なんじゃから」
「一途?」
「昔、将来を誓い合った相手がいたんだ。多分今でもその人のことが心残りで。だから家族を作ろうとしない。今いる者だけを愛しているんだ」
あぁ、そう言うことか……。
「母親は亡くなっているんですか?」
「あぁ……家族はもう、老いぼれ二人とお前だけだ」
6月29日推敲済み




