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 伍


『わ』

『割れ鍋にとじ蓋』

 割れた鍋にフタは要らない。使えない鍋なんだからと言う事で、フザケタ使えない省庁には予算は要らないの意味となる。

 また割れ鍋のような物にでも相応しい蓋があるから、困った議員にはそれなりの秘書や弁護士が付いているの意。

このように、どんな人にでも相応しい相棒が居る。

 あるいは、分相応なアテガイをしておけば良いといったところ。

 鍋、釜は江戸時代には貴重品であった。金属が貴重だったからね。

 そんな事情もあって鍋は割れたら捨てるではなく、修理して使うのが一般的であった。

 もちろん修復不能な物もあるから、その様な物はスクラップになって溶かしてまた鍋になるという具合にリサイクルしていた。

 このように、省庁のオフザケ役人や腐れ議員と取りまき連中もスクラップに出来るといいのだが、どう考えてもスクラップにさえ出来ない程に腐ってしまっては使い物にならないものなー。


『若い時は二度ない』

  子共用なんでなかったのか。

 どうも江戸時代の子共は早熟だったようである。

 作った大人がヌケ作だったのか。子共に何て説明していたの? という札が多いのが「いろはカルタ」の特徴である。

 第一に、ことわざにも何にもなってない。

 若い時は二度ないって、そのまんまだ。誰だって知ってるし。今更カルタ如きに言われたくない。

 美容整形で見かけの若さを買っている人がいる。

 自分に自信を付ける為にやっているのであれば、ウツになってドンヨリの日々を過ごすよりいい。

 ただ、見栄やハッタリでというのはあまりいただけない。自意識過剰ですよ、誰も貴方をそんなに見ていませんから。

 この言葉にはアイマイな部分がある。

「若い時」の定義が成されていないのである。

 若いってどんな時を指して言うのか。百歳の人から見れば九十歳でもまだ若い。

 とにかく年の事なんか気にしないで面白おかしく、つまらない事は気にしない。若さを保つ秘訣だなどとよく言われている。

 今日も明日も楽しく行きましょう。


『笑う門には福来る』

 笑う門とは笑いの絶えない家庭を言うのだが、幸せを実感しているから笑っていられるのであって、不幸のどん底ではなかなか笑ってなんかいられるものではない。

 逃れようの無いどん底生活でも笑っていられる家庭が仮に有ったとしたら、周辺の住民からは奇異の目で見られるに違いない。

 どんなに辛くても落ち込まないで、適当に不幸を受け流すのがよろしいと言いたいのだ。

 真正面で不幸を受け止めるのはよした方がいい。

 受け流しようが無く、もろに不幸を食らって再起不能になる場合があるからだ。

 借金取りが来たら、玄関まで出て行って出迎えるなどといった愚行に走ってはいけない。

 さっさと裏口から逃げ出すか、裏も張られていたらトンネルでも掘って隣の他人に匿ってもらえ。

 借金取に高利を支払うより、隣の他人に御礼と言って肉まんの一つも買う方が安く上がる。

 何事もどっちが得か考えて行動すべきである。

 不幸と預金と借金を溜め込まない家庭作りを心がけていれば、気分的には幸せでいられるといった気休めのことわざと受け止めて差し支えない。

 誰から見ても不幸な人でも、本人が不幸だと感じなければその人は不幸ではない。

 充実した幸せをエンジョイしているかと聞かれると疑問だが。

 ラテン語の格言で「リースノー・ イストッツクエット・ アット・コクバーン・モ・カネカシーガ・ミナ・モッテッターアイテム」簡単に訳すと「笑いは幸福への入口」というのがある。

 世界中に同じ様な格言が残されている。

 不幸も幸福もその人の思い込みによって成り立っているというのが、万国共通の考え方である。

 要は「笑ってゴマカセ」と言う事なのだ。

 ほら笑って見ろ。きっと明るい未来が見えて来る。

 とか書いていて『んなわけねえだろ馬鹿野郎』と心の中に自分の声が反響しているのは何故だろう、これが良心というものなのだろうか。


『か』

『蛙のつらに水』

 御公家さんの多い京都だけあって御上品な言葉使いですが、一般的には「かえるの面に小便」である。

 あんまり効き目が無い、効果が無いダイエットサプリメントのような意味としてとらえてよろしいかと思われる。 

 両生類の蛙は水を掛けられても平気である。では小便ではどうか。

 生憎と実験データーが皆無でコメントはひかえさせていただきまして、ご想像にお任せいたします。

 余談だけど、アマガエルのヌルヌル素肌の粘液は毒だから、素手で触ったらよく洗いましょう。

 何を言われてもまったく動じない、極めてしぶとい人生をエンジョイしている方を指してこう言う事もシバシバある。

 言葉の暴力になんか負けるな。カエルを見習いたまえ。いじめられっこ君。

「シカト」という言葉をご存知か。

 極道・博徒の隠語で、花札の鹿は十点。

 その鹿君は何をどうしようがまったく動じる事無く、こちらを向いてはくれない。

 ソッポを向いて人の話なんか聞こうとしない。聞いていない。

 このような状態を「鹿」+「十点はトオ」イコール「シカト」と言う。  

 昔の人は言いました「人の噂も七十五日」「シカト」きめていればそのうちに敵もアキラメルって。 

 最近のイジメッコ、インケンだからなー。

 とにかく強く生き抜こう。


『かったいのかさ怨み』

「かったい」も「かさ」も死語だね。これから説明しなければならないのが、このコトワザのやっかいな所かな。「かったい」についてはここでは書かないほうがいいかな。

「かさ」は梅毒の事。と言う訳で、勝手に調べてくれ。

 当時はどちらも死の宣告を受けたも同然。不治の病だった。

 かったいに掛かった人がかさに掛かった人を「恨む」のではなくて、うらやましがるとした方が判り易いかね。「隣の芝は綺麗に見える」と似通っているが、こちらは命掛かってますから、かなり深刻。

 正月の「お子チャ魔」向けのカルタの文句とは思えないシュールな響きである。

 下を見たら底が無い。上を見たら観測不能。世の中、適当な所でいい加減いい塩梅に生きて行くのが無難な幸せって物なんでしょうかね。


『陰うらの豆もはじけ時』 

 日陰に育った豆でもその内ハジケル時が来るから、焦らず一生懸命やっていれば何時かは実りが有るものだと言う意味だったら、どうって事ないんだけれど。  

 本当にこれって、おこちゃま用だったの? 極めつけだな。

 かなり際どい内容でして。

 江戸時代、豆は女性の隠語。深く追求するな。男性は芋。これ何となく分かるよね。

「陰うらのそら豆もはじける時ははじける」が素になっている。

 当時の大人にはすぐに分かる内容。

 子供に意味を聞かれたら、無言でゲンコツの一つも浴びせていたんだろうな。きっと。

 当時の庶民は裏通りに住んでいるのが一般的で、裏町長屋で育った一般ピーポー・スーパーボンビーお嬢さんを「陰裏の豆」と言った。

 略して「陰豆」としないように、くれぐれもお願いいたします。

 そんなお嬢さん達でも年頃になれば、まあ、それなりに綺麗になるものである。そんな意味なんですよ。これって。

 くれぐれも勘違いの無いよう。

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