肆
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『ぬ』
『盗人の昼寝』
泥棒さんが次のステップの為にチャージしている様を意味している。充電期間とも表現される。
夜勤がしんどいのは泥棒も例外ではない。夜の仕事となれば睡眠は昼寝でとるしかない。
ちなみに、山火事などの時の消防士の方々は何時寝ているか。寝ないんだなこれが、何日も。
正確には三十分寝たら三時間活動の繰り返し。一週間位ならこれで作業が続けられるように訓練されている。
ただし、ただしである。
寝ている間に風向きが変わったら、即煙に巻かれてあの世行き。
山火事の消火活動中に、プロである消防士が殉職してしまう不思議な事故はこんな裏事情からだ。
火事の現場のど真ん中でも寝られるように、精神的な訓練がされている。この世で最も危険な昼寝と行って良いだろう。
一日の睡眠時間は三時間。
ナポレオンも満更大嘘つきでもなかったようだが、この話には別の説がある。
奴は酷い胃腸障害と痔持ちで、下痢と痛みで不眠症だったという説だ。
私は三時間しか寝ないではなく、三時間しか寝られない。だったのかもしれない。
昼寝をする人は泥棒の他にも相撲の力士・タクシードライバー・工事現場の作業員・漁師さん・夜にお仕事をする人は大抵昼寝をしている。
力士の場合はたんに太るための昼寝だ。
工事現場の作業員は夜に飲み歩くための昼寝。
昼寝する人が皆泥棒という意味ではないので誤解のないように。
夜になってその辺の住宅や事務所に忍び込むようでは泥棒もまだまだ小者。
大泥棒ともなると国庫から国民の血税をポッポしてしまう。たいしたものだ。
時代劇などではその様な大泥棒は大抵の場合、貧乏人に金をばら撒く義賊だが、どうも現実は違っている。
村には予算をたてられる程のお金が無い。この手の泥棒は開村以来一人も現れていない。
村長が災害時緊急特出用の非常食をつまみ食いしているくらいかね。
『糠に釘』
糠漬け用の糠床に釘を入れておくと、美味しい糠漬けができるぞーといった一種の料理レシピ。
役に立つおばあちゃんの知恵袋、役に立たないおじいちゃん玉袋。
「豆腐にかすがい」「暖簾に腕おし」「馬の耳に念仏」「蛙のつらに小便」なんかとほぼ同じだ。
のらりくらりの相手にいくら説教をしても効き目がないとか手ごたえがまったくない、反応がないなど反応無しという意味では、役所に調べ事を頼んだ場合などによく言われる「なしのつぶて」とも似通っている。
近年、年金関係の資料を調べてもらうとこのような現象に遭遇する。
ぬらりひょんに釘を打つのだからいけないのであって、直接言ってもだめな時はやはり藁人形に五寸釘で訴えた方が早いか。
良い事を神に頼んでも叶えてもらえないのは経験で分かった。せめて呪いの御願いくらいは叶えてもらいたいものだ。
それがきっと世の為人の為、世界平和の為に成る様な気がしてならない今日この頃である。
『る』
『るりもはりも照らせば光る』
るりもはりも宝石で七宝の一つ。
七宝とは仏教で言うところの七つの宝物をいい、ドラゴンボールの事。
浄土三部経のひとつである無量寿経の中で、極楽浄土を彩る七宝とされる金・銀・瑠璃(るり=ラピスラズリ)玻璃(はり=水晶)・シャコ貝・珊瑚・瑪瑙の7種類石については勝手に調べてくれ。
何か宗教感としてはいささか俗っぽい気がしないでもない。
別の言い方として「瑠璃も玉も磨けば光る」「玉も磨けば光る」などとも言いう。
たとえ宝石と言えども石は石、それが宝石であると気付いた者が磨かなければ、宝石としての輝きは永久に得られない。
自分を宝石の原石であると信じ磨いてくれる者が居ないなら、自分自身で磨くしかない。
綺麗に着飾り人から良く見られようとする=磨くではないので、その辺の所はよーく考えるべきだ。
考えるのも自分を磨く一つの手段である。
早い話し、しょーもない石っころでも見る目のある人が見て、磨く技術のある人が磨けば宝物になりうる。という意味である。
アイドルと言われている職業の人達がいるが、そんな人達がこのコトワザの典型と言える。
自分の技量、人徳で当選したと勘違いしている人が多いが。政治家もそうである。
『類をもって集まる』
似たような者同士が自然と集まる事「類は友を呼ぶ」などとも言いう。
サークルとかクラブ・窃盗団・過激派、場合によってはSNS等もこの表現に含まれる。
近代日本において趣味、嗜好は多様化。価値観も人それぞれで個性も昔に比べて個人がしっかり主張してる。
同類項に収まりきらない人の方が多くなってきているので、もうじき「死語」になってしまいそうだ。
悪事を働く者達はとかく呼び合うようであるから、裏社会では生きつづけられる言葉かもしれない。
全人格に係わるような類似ではなく「ちょっと似てる」てな人ならよく見掛ける。
「ものまね」「そっくりさん」がこのコトワザに当てはまるかどうかについては検証中である。
癖とか好きな物の傾向などで意見の一致する場合がある。この場合は「馬が合う」などと言う。
『を』
『老いては子に従う』
このとうりにしたら、政治家の半数以上は消えてしまう。
世代交代の出来る所は良いとしても、上がつかえていてはそれもなかなか進まないもので、世の中そうそう容易く変わってはくれない。
「老兵は死なず、単に消え去るのみ」(兵隊歌『Old Soldiers Never Die』のスタンザ(Old soldiers never die, they simply fade away)を短縮したもの)ダグラス・マッカーサーが退任演説の際に引用したこの言葉、何処か似通ったような気がする。
何時までも権力の座にしがみ付いているのに、世直し民衆ためになる事となると興味を示さない。
潔く消え去れないのなら、いっそ思い切って死んでしまえと言ってやりたい人も大勢いますです。
一般ピーポーにおいても家庭内で「子に従って」とお願いしたくなる様な超頑固なお方を見かける。
ここの所の老舗の不祥事の数々を見聞きするに、このコトワザが必ずしも現代社会に沿った物かどうかは? しっかりした子なら従いもするだろうが、浪費壁の塊のようなダァーホには従いたくないもの。
世の中、本当になかなか上手くいかないものである。
『鬼の女房に鬼神』
この場合の鬼神とは旦那の事。
鬼嫁の旦那はやはり鬼という意味なのだが。一般的観点ではこれは間違っている。
最近の鬼嫁の旦那は嫁に頭の上がらない人ばかりだから「鬼嫁」と言われているのである。
「ドメスティクバイオレンス」は江戸時代より遥か昔からあった。
そんな鬼の様な旦那の嫁さんが鬼ならば、こんなことわざは出来なかった。
この場合は極限られた閉鎖的少数派社会。判りやすく言うと「極道の世界」の事である。
子分衆から見れば優しい親分の女将さんは優しい。(この世界では「姉さん」などと呼ばれている)
逆に、鬼の様な親分の姉さんはやはり鬼の様に恐ろしい。
姉さんは親分に一番近い存在。組の方針に一番影響力を持っているのは、実は親分よりも姉さんだったりする。
その辺の所は一般家庭でも同じ現象が起きているようで、家庭の行事決定権はお母さんが握っている。そんな御家、多いのではなかろうか。
このことわざ、現代社会にはあまりソグワナイと思っていただいていいようである。
『鬼も十八』
「鬼も十八、番茶も出花」などと言う。
鬼嫁候補も十八の頃は可愛いもので、それを番茶に掛けて、丁度良い頃なんでないのと言った意味である。
江戸時代は平均寿命が五十歳。したがって現代のように晩婚などと言ってられない。
二十歳過ぎたらもう晩婚。三十過ぎたらもうおばさん。四十過ぎたらおばあちゃん。おー、なんと恐ろしい時代だった事か。
その為に婚期が早く十五、十六当たり前。前田芳春院なんか十二歳で結婚十四で出産。今ならしっかり犯罪だ。てな時代背景があってのことわざ。
現代には当てはまらない。
使えないコトワザは結構とあるものだ。
「人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」
これも、今では一寸感覚違うようである。