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弐拾弐

 弐拾弐


『も』

『門前の小僧習わぬ経を読む』

 寺の近くに住んでいる御子ちゃまは、坊主が毎日読む経を聞きながら育つもので、自然と経くらいは読めるようになると言いたいらしいが、聞いているだけでは読める筈が無い。 

 字という物を教わっていないのだ、唱える事は出来ても読み書きは無理だ。あくまでもたとえ話である。

 毎日同じ文言を聞き続けたら、ひょっとしたら書けるようになるかもといった希望的観測と理論に基づいて、環境が個人に及ぼす影響は多大であり、教育と環境を充実してあげれば良い子になるのだよといったところ。

 しかしながら【馬の耳に念仏】という言葉が有る様に、口を酸っぱくして言い聞かせても学習しない奴がこの世の中には居るものだ。

 中には環境によってロクデナシから馬鹿野郎くらいになる奴はいるが、底無しのクズ野郎はいくら環境を整えてやっても変わらないものだ。

 世の中そんなに甘くはない。


『桃栗三年柿八年』

 芽が出て葉が出て花が咲いて実が生って。桃と栗は三年程かかるとか。

 確かに桃と栗は三年目で実が生った。ところが栗の隣に植えた桃は翌年枯れた。

 栗は元気に育ち過ぎて、今では食べられないイガと枯れ落ちた葉が清掃処理能力を遥かに上回っている。

 隣近所の庭に散らかり放題の枯葉達は、善良なる隣人によって滞りなく処理されている。

 こうなってしまっては、当家の栗ではありませんとしらばっくれるしかない。

 柿にいたっては更に悲惨な状況で、種を撒いてから十年経っても実は生らない。

 実は採れないのに枝葉は傍若無人の限りを尽くし、道行く世間様に多大な迷惑をかけている。

『この柿の木は家の木ではありません』と張り紙をしたが、今更誰も信じてはくれない。

 もはや、この地からの逃げ頃かと物思いにふける秋の夕暮である。

 物事にはタイミングというものがある。

 さあやりましょうと言っても、ある程度の下地というものが出来上がっていなければ成功するものではない。

 借金取りとの追いかけっこによる膨大なデーターの蓄積処理によって、夜逃げのノウハウならば完璧である。

 さて、何時頃引っ越すかね。

 ※ このことわざには続きがある。

「ユズは9年でなりさがる」「ユズは遅くて13年」「ユズの馬鹿めは18年」「ウメは酸いとて13年」「ウメはすいすい16年」「ナシの大馬鹿13年」「ナシの馬鹿めは18年」「ビワは9年でなりかかる」等どれをくっつけてもいいし、全部つなげてもいい。

 この中では梨が好きだ。

 特に幸水がいいのだが、今時は豊水になってるね。

 長十郎はあまり好きではない。

 早めに発送してほしい。

 では待っている。


『餅は餅屋』

 餅は餅屋がついた餅が一番美味い。その道のプロに任せておけば間違いなく良い方向に向う。なんちゃってー、そんな事ないだろ。

『弘法も筆の誤り』どんなに優れた者でもしくじる時はしくじる。

 ビキナーズラックだって起こりうる。何がなんでもプロが正しいとは限らない。

 プロが完璧ならば株で損する奴はいない。

 競馬は予想屋の言うとおりに買っていればいい。

【そうはいかのキン○マ】だから世の中面白いのである。

『プロだプロだと威張るな専業、プロは素人の成れの果て』あーこりゃこりゃ。


『せ』

『背に腹はかえられぬ』

 緊急時における優先順位の重要性について語っている。背中を守る為に内臓の入った弱い腹を相手に向けるのは無謀である。

 動物の習性として、完全に降伏しましたとの意思表示の為に相手に腹を見せる行為が報告されている。

 考える脳があまりない畜生でも、腹が背中より大事な所だと知っているのだ。

 腹に関わる言葉は数多くある。

 腹の内・腹黒い・太っ腹などと、感情や性格のあれこれを表現する時に腹が使われている。

 西洋で言う所のハートが、古くから日本では腹であった。

 背中合わせの間柄でも、お互い腹割って話せば解り合える事もあるってものなのだが、腹割って話しても相手にハートが無くてはどうにもならない。

 腹の探り合いは、何時の世どの場面にもなくなりはしないよねー。


『背戸の馬も相口』

 人通りの多い表通りにつないでおいたのでは危険な程の暴れ馬は、裏(背戸)につないでおくしかないのだが、そんな馬鹿馬でも使い方によっては大人しくなるものだという【中央競馬会・騎手調教師組合】の標語。

 随分と昔の話になるが、ある乗馬クラブで引馬をしていた時に御客さんを振り落してしまった馬がいた。

 普段から気性の荒い性格だったが、人を落としたとなるとただでは済まされない。

 かといって相手は畜生である上にでかい。

 グーで顔面を強力に殴り飛ばしてもこちらの手が砕けるだけで、何処吹く風と平然としているのが馬である。

 そこで先生と呼ばれている騎手や調教師が再教育するのだが、この再教育する時の対決が凄い。

 跳ね周り立ち上がった馬は、地に足がついた途端に全速力で走っては急停止を繰り返す。

 馬は体力知力の限界まで力を出し切って背中の人間を振り落そうとするが、騎手がその馬に必死でしがみついての消耗戦が繰り広げられるのである。

 騎手が馬と格闘している間中、調教師は何とか馬の暴走を止めようと馬に合図を送る。

 異種格闘技が子供の御遊びにみえるド迫力対決が、馬場狭しと次々展開していく。

 どちらかが先に疲れて参ったと言うまで、永遠に続く戦いである。

 馬も命がけなら騎手も命がけ。

 乗馬経験のある方なら解るだろう。

 馬の背に乘った時の人間の頭の位置はおよそ地上三米。

 間違って暴れ馬から振り落されでもしたら、確実に何本か骨を折る。

 打ち所が悪ければ、それで一巻の終わりなのだ。

 一時間ほど馬場で戦う騎手と暴れ馬を見せてもらった。

 レフリー役の調教師もグタグタに疲れ切っていた。

 今思うに、カメラもビデオも持っていなかったのが悔やまれる。

 結局、暴れ馬を従順なサラブレットに更生した騎手の先生。

 御本人は「国体の優勝は持ち回りだから」と謙遜していたが、何度か国体で一等賞を取っている人なのだとか。

 お互いの相性もあるが、手綱一つで自由自在に馬を操るには、それなりに熟練の技が必要なんだねー。


『性は道によりて賢し』

『性は道によって賢し』となっているが、元は『芸は道によって賢し』で『プロはそれなりの知恵、技術を持っている』という意味になる。

 『餅は餅屋』とあまり変わらない。

 この場合の性は生=生産者。

 家業は代々というのが当たり前だった時代にあって、何代も続いた家業を支える技術や知識というものは、そうそう簡単に真似できるものでは無いぞといったところ。

 まぐれ当たりを期待して、基礎の無い分野に手を出したらしくじるよと戒めている。

 伝統を重んじる京都らしい札である。

 そんなもんやってみなきゃ分かんねえだろ! やらないで後悔するよりも、やって後悔した方がいいに決まっていると言った奴がいる。

 やっちまったら後戻りできないぞと言った奴がいる。

 迷いは総ての生みの親だと言った奴がいる。

 んー、困った。

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