弐
弐
『に』
『憎まれっ子世にはばかる』
江戸時代の関八州、特に中心の江戸では憎まれっ子は威張り散らして人の世を偉そうに堂々と生きていた旗本である。
そして、二束のワラジで人々を苦しめたヤクザ兼岡っ引きのように、権力を持った悪も指して言っていた。
今ならば悪としか言い様の無い正義が公に存在し、幕府がその者達に賃金を支払っていた。
近代に受け継がれている、伝統的な政治形態である。
現代になってもなお、一部には威張って人の話を聞こうとしないのに、拳銃を持ち歩ける地方公務員がいる。
キャリアとしてドンドン位を上げ、本店でこの様な奴が組織を牛耳ってしまうのもぞっとしないが、やる気が無さ過ぎてそのまま拳銃で遊んで居座られるのも又困る。
彼等に限った話ではない。
とかく親方が巨体な組織では多くの人間が働いている。
一人や二人や百人や千人。不届きな奴がいてもおかしくない。
確かな記憶ではないが、何処かの誰かが実験的統計をとっている。
企業のある部署の労働意欲調査だ。
殆どの調査で、全体の八割にやる気が無い。ならばいてもらっても無駄である。
人員を減らすと、減らした結果で残った人員の八割にやる気がなくなる。
くりかえしていくと誰も居なくなったという統計なのだが、どこまで本当か。
完全に否定できないのが現実で、やる気の有る者は目立つ。統計上、全体の二割とかなり少ない者だからだ。
一つ、江戸時代の救いといえば、当時の憎まれっ子は堂々と表舞台に立っていた。
特に目立ちたがり屋の悪党が【歌舞伎者】と言われた旗本連中。
平和で出番の無い彼等は、とにかく江戸の街でやりたい放題であった。しかし、隠れてこそこそとしてはいなかった。
今の様にインターネットの匿名性を悪用し、自分の身を隠したままで意地悪をする何て事は出来ない時代で、陰険な行為は極一部でしかなかったのである。
………って、あったんだねー。やっぱり。
『憎まれっ子神直し』
江戸は侍の街、京都は寺の街に対して、大阪は商いの街として語られているが実際は信仰の街。
京都よりも大阪には寺社が多く、信仰の深い寺街である。
信仰もそれなりに有るが、京都では寺社遺跡を商いに利用できる観光資源として、その価値を高く評価している。
どちらかと言えば、京都の方が商い上手と言える。
京都へ観光に行くと、商品の価格を見て驚かされる。
どう考えてもぼったくりである。
失礼。京都の人がぼったくり犯だと言っているのではない。
いわゆる【観光地価格】が当たり前の街なのである。
長い歴史の京都は、それでずっとやってきた。
住んでいる者には当たり前だが、突然トリップして行った観光客はたまったものではない。
できるならば日本の物価実情を知らない海外からの観光客と、日本の観光客の二重価格を設定してほしい。
日本在住を証明できる証明書提示での割り引き価格だ。
半値二割の五割引きくらいにしてほしいものだ。中国だってやっている。
国際的に見ても反則ではないだろう。
京都に比べて大阪の価格設定は安い。
なんてったって飲んで食って騒いで怖い御兄さんにボコられて五千円もあれば死ぬほどの想い出が作れる。
そんな信仰心のぶ厚い大阪人らしい考え方が、この「憎まれっ子神直し」である。
憎まれっ子は何時か神が直してくれる、何時か神に直されるといった意味としていい。
残念な事に当時民衆に一番憎まれていたのは、大阪でもやはり【御上】だった。
今も昔も御上の事情と庶民の感情は、たいして変わっていない様である。
歴史は偉大である。繰り返す。引き継がれる。そのまんまダラダラと続く。
【御上】と【神】を引っ掛けて、御上を神が直してくれるという言葉遊びである。
隠し言葉によって、やはりこの時代でも幕府や政権の腐敗を批判していた。
『二階から目薬』
そんなの絶対に無理と言う事をやってのける曲芸師の妙技を絶賛している。芝居小屋のキャッチコピーである。
江戸時代に目薬が有ったか無かったかなどという野暮な詮索はしないように願いたい。
言葉が残っているのだから、きっと有ったのだ。
当初このコピーに引かれて客の入りは頗るよかった。
当時の見世物小屋は、今で言う所のテレビや映画と一緒である。
予告編や特集でその気になって覗いたが、たいして面白く無いのが当たり前の世の中。
テレビ局や映画館を直接爆破する奴は滅多にいないが、江戸の昔には芝居小屋で客が暴れ出すのは日常茶飯事であったとかなかったとか。
今、この暴れる習慣は相撲に残されている。座布団投げがそうである。
そもそも、座布団投げが始まったのは試合のジャッジに不満を持った観客が、徳利やら弁当ガラを行司に投げつけたのが始まりであるとかないとか。
危険なので投げてもいいけど、座布団だけにしてとの主催者側の御願いをきいたとか。
簡単に引き下がるくらいなら、初めから物を投げるな。
六十年安保闘争の学生達のように、歩道の石を引っぺがすまでやる覚悟で始めろ。
話を戻すが、江戸時代には現代のような劇場照明施設は無かった。
ロウソクを何本も立てて照明替わりしていたから、暗い場内では二階から目薬を点して下の人の目の中に入ったのかなんてのは見えるはずが無い。
偽者扱いされるようになってしまった曲芸一座は廃れて解散。
物事いくら素晴らしい事でも、人に上手く伝える方法を考えないと失敗してしまうという格言である。
もう一つ【それ、絶対無理ですから】といった意味として使われる場合も稀にある。
『ほ』
『骨折り損のくたびれ儲け』
事故によって骨を折っても、自爆の場合は保険が出ない。ならば相手を避けて自爆などしない方がいい。
後々裁判でくたびれる事もあるが、思い切ってできるだけ軽症で済む様に回避行動を取りながら相手にぶつかった方か特ですよ。といった意味として、保険会社のパンフレットに書いてある標語。
近年になって「搭乗者傷害」という特約が出てきた。
保険料はそれなりに高い。
被保険者に全責任が有って怪我をした場合でも、全額保険金が支払われるのだから当然だ。
どんな御馬鹿ドライバーにも、責任の割合に関係なく保険金の全額を支払うという極めて御人好しな設定になっている。
保険金詐欺の標的覚悟、やけくそ保険である。リスクに見合うだけの保険料は欲しいところだ。
逆に考えれば、保険界の高利益商品でもある。
なんでもかんでも支払われるかというと、保険会社がまともに保険金を支払う筈がない。
何だかんだと理由を付けては払い渋り、不払いを繰り返す。やらずぼったくりの未払いまで横行する保険商品である。
街金闇金とほぼ同等に悪質な稼ぎが出来るとして、絶対に払わない姿勢で扱っている保険会社もある。
いったいどれだけの人が保険金不払いで泣かされているか。
どれだけマスコミが騒ごうが業務停止になろうが、保険会社にしてみれば払いたくない物は払わない。
どうしたら良心的な保険会社を見分ける事ができるか。
株価の変動を見るべし。株価は業績に比例して上がっていくのが普通。(現在は普通でない事態なので、株価より収支報告書の保険金支払い比率の方がいい)
計上利益が多い会社は、保険金の支払いが少ないと言う事になる。株価の安い保険会社は良心的なのだ。
少し詳しく書けば保険のプランは統計によって作られている。
十万件の契約があれば年間の事故件数は一万件、その内軽度が九千件・中度が九百件・重度が九十件・危険が九件・死亡が一件と言う具合に過去からの膨大なデーターを元に、ほぼ正確にその事故発生件数は予測できる。
したがって、似たり寄ったりの保険内容で支払い保険料が少ない=利益率が高い=業績が良い=保険料を支払っていないとの式が成り立つ。
本来は資金の出し合いによって事故のリスクを減らし且つ利益を出すのが目的で、主にイギリス貴族達の出資で始まった保険システム。
ロイドに出資していた貴族達は、相次ぐ大規模災害に保険金を正直に支払ってしまい破産寸前とか。
実に良心的な保険会社であったが、このままいけばという予想は数十年も前から噂されていた。
企業の利益と個人の利益。何とか共存できないものか。
困った世の中である。
『惚れたが因果』
何を血迷ったか大阪では『ほ』がこんなのになっている。
御子ちゃま用に作られている【いろはかるた】にしては、色艶キラキラで反則とも思われる札だ。
もっともこの時代、武士階級のガキどもは早婚で、凄いのは5・6才なんてのもいた。
今なら犯罪の結婚も、当然のように行われていたのである。
からすれば子供用の玩具であっても、このくらいは当たり前だったと言える。
始めは『惚れたら印鑑』であった。
江戸時代の婚姻届けに印鑑が必要であったか無かったかの議論は他でやってくれ。
好き合ったら迷わず、慌てて結婚しちゃいなよといった意味である。
それが現代になってからは【惚れたら相手の言い成りに何でもかんでも訳の判らない書類に印鑑を押してしまうと、結婚詐欺に引っ掛けられるぞー】警告へと意味が変わってきている。
それがさらに変化して、愛は悲劇を招くといった意味にとって良いだろう。シェークスピアの世界である。
世界中何処へ行っても、作家の考える事なんてのはだいたい似たり寄ったりだ。たいして変わりはしない。
これ「いろはかるた」にして何か意味があったのだろうか。子供にどう説明していたのだろうか。ものすごーく疑問が残る札である。
『仏の顔も三度』
仏は無限の慈悲に満ち何度衆生が過ちを犯そうとも、あくまで見捨てず見守って下さるものなどといった、甘えた考えは捨てなさいという意味である。
回数については、大魔神の変身までの怒りのレベルを参考にしている。
しかしながら、借金取りに仏心は無い。
一回も待たずに初めから般若の顔で来る。
私は何度もこの般若に遭遇している。
もとから仏ではないのであるからこれは仕方ない。
近年においては仏の様に優しい顔にしておける整形は三度までが限界で、それ以上については熟練した美容整形の先生でも「ちょっとー、もう止めた方がいいですよ」という意味としても使われている。
四回五回と整形しているうちに、本人でさえ元の顔を忘れてしまう。
ついつい過激にいじくり回してはいけない顔のパーツを、あっちこっち動かしてしまう。
鼻の天辺がずれたり瞼が三重四重になってみたり。
福笑いと一緒である。
整形してもいいが、化粧の技術で何とかならない物か。
いちいち化粧するのが面倒だから美容整形するのだろう。横着者である。
そもそも何で美容整形などするのか。
美しくなりたいと言うが、美の基準は人それぞれだ。誰から見たら美しいと言われたいのか。
大規模な実験で、最も美しいと感じる女性を数万人に選んでもらった。
この結果として、極々普通の女性が選ばれた。どこにでもある顔がダントツの一位だったのである。
人間に限らず生物は、見慣れた者に信頼と安堵感を抱く。安心して一緒にいられる者を、本能で美しいと感じるのだ。
本能に勝る物は無い。多少の歪みは一緒にいるうちに慣れる。
それよりなにより相方は性格で選ぶべきだ。
不細工に見える者に対して、直接本人に平気で不細工と言う奴ならまだ正直でいい。
喧嘩になっても、馬鹿野郎! で済まされる。
ところが、世の中にはことさら性質の悪い者がいる。
その不細工を蔭で観察して、ニヤニヤしているような奴である。
この様な族は、基本的人格に問題が多々あるものだ。俗に言う腐った奴である。
相手はよーく考えて選ぶべし。
人形の様な顔立ちは、人形であるから美しい。それが人間として隣にいられたらどうだろう。
夜中に古びた温泉宿の床の間に飾られた日本人形を見るように、深夜になってぬーっと人形美人に顔を出されたら怖いだろうー。