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壱拾玖

 壱拾玖


『み』

『身から出た錆』

 夏場にピザ焼釜の様に暑くなった室内の空気をいくらかき回しても、熱風が体にまとわりつくだけで涼しくはならない。

 日陰のひんやりした空気を部屋に送り込むべく、室外に扇風機を設置している。

 海の近くは大気に塩分ミネラルが豊富に含まれているので、健康に宜しいように謳っている医学書も、世界中探せばきっと一冊くらいはある。

 しかしながら生粋の鉄製品や、ステンレスと言いながらタングステンの配合割合が少なかったり、本当は銀メッキの似非ステンレス製品にとっては、放射能ダダ漏れ空気と同じ位に危険な大気状態である。

 いくら綺麗に掃除してからしまっても、二シーズン目の夏には扇風機が首を振る度その身から赤サビをサワサワと零してくれる。

 毎年扇風機が置かれる定位置は、今や赤い縁側と呼ばれている。

 志半ばにして此の世を去らねばならなかった何台もの扇風機。彼らの念が浸み込んでいるのである。

 霊感の強い私がうっかり近付こうものなら、ビリビリと体中が痺れて身動き取れなくなってしまう。

 専門家はこのような現象を【漏電】と言っていた。

 足元に零れた己が死骸の一部であるサビの粉を見て、扇風機は何を思うのだろう。人間に当てはめれば【垢】の山である。

「私はなんと罪深き者だろうか、いくらこの身を削って人様に尽くしたとて、これまで犯してきた罪はモーターが焼け付くまで許されるものでは無い」と思うに違いない。

 あー、キーキーガッ! カッツン、ボキッ、バキッ、ガッガガガー。

「こんな振り首など、錆び折れて落ちてしまえばいい。どれほど楽になれるだろうか」

 ガビッ、ボキボキ、ガンガガ、ガーー、ベキバキゲギョ。といった状況を手短に綴ったのである。

 貴方も身近な物と語ってみてはどうだろうか。きっと新しい発見と、今まで知らなかった世界との繋がりが出来る筈である。

 新しい友達ができても、誰か人間が近くに居る時は決して声を出して会話してはいけない。貴方ならきっと心の会話ができる。

 会話の最中、無意識に表情が変わってしまう時がある。できるだけ無表情でいる事を御薦めする。

 自分と周りの友達との関係に正直でいたばかりに、とんでもない目にあっている友人を何人も知っている。

 そして、かの施設から帰って来た者は未だ一人としていない。


『身うちが古み』

 身内の方に、古い物をやっておきなさいよと言いたいらしい。

 この場合の古い物は、骨董的価値が有ってはいけない。

 ことわざが教えたがっている意味が台無しになってしまうからだ。

 人様に贈り物をする時は、親兄弟より親戚、親戚よりも隣近所の知人、知人よりも赤の他人と、縁の遠い人にこそ良い物をあげなさいと教えたがっている。

 ここで一つ疑問が出て来る。

 縁の遠い人に贈り物をするだろうか?

 無縁、真っ赤っ赤の他人に贈り物をする御人好しは、江戸の昔であってもそんなに大勢はいなかった。

 ならばこの場合の最も縁の遠い人とは、どの様な関係にある人だろうか。

 近所付き合いよりも希薄な御付き合い。

 学校の先生だったり医者だったり坊主だったり神主だったり政治家や長のつく人達。

 まったく関わりなく生きているのではないが、常日頃の縁は無いに等しい。

 いわば天上人の様な人達には、御供え物でもするような感覚で贈り物をするのがよろしかろう。さすれば当たり触りなく一年を無事に過ごせる。

 多くを差し出す必要はない。

 偉い御方は大勢の下々から貢物が集まってくる。

 少量でいいから良質な物を差し上げておけば、目立って喜ばれるものである。後々己の為に成ってくれる。

 きっと嬉しい見返りと明るい将来が待っている。と言った感じの、江戸時代から伝承されている貢物に関する言い伝えである。

 現代では献金やら寄付、盆暮れの付け届け、あからさまに厭らしい言い方をすれば賄賂とか袖の下の送り方の基本を、幼少の頃から教えていた。

 人生において贈り物は、都合よく心地よく生きて行く為の必須アイテムである。上手に使えるに超した事はない。

 友達に良い物を贈るより、縁は遠くても自分にとって大切な遠縁の方に良い物を贈りましょう。

 これ、基本ですから。


『身は身で通る裸ん坊』

 これ、とっても解りにくいね。現代では全くと言っていいほど使われていない。

 簡単に言えば【何とかなるさ】

 人は皆これ個性によって支配されている。

 総てにおいて異なってはいるが、体一つあればどうにか世の中渡って行けるものだよ。といったことわざである。

 この言葉の意図する所に真向から反対する気は無い。

 時には、こんな言葉に励まされて生き延びるのもいい。

 ただ、ひねた解釈をすれば、貴方は貴方で丁度いい具合に世間様とマッチしているのだから、下手にジタバタするんじゃない。といった意味にも取れる。

 飛び出るな、余計な事をして顰蹙を買うな。贅沢できなくたっていいじゃないかとか、誰が偉いも有るもんか、死んだら皆骸骨じゃ。なんて風にもとれる。

 人生において成長し繁栄していくことを、諦めていると取れなくも無い発言である。

 平凡に生きて行けば、きっと良い事が有るのだろうと思えてしまいそうだ。

 平凡でいる事は難しい。だからこそ平凡であれと言うのだろうが、無理な物は無理。

 貧しくとも、人様より能力が劣っていようとも、人生は何とかなるさ。と言いたいのか。

 それで少数弱者を慰めているつもりなのか。

 人生山あり谷ありではあるが確かに何とかなるものだ、何とかならなかった人達はとっくに死んでいる。

 生き残った人間が何とかなると言っても、信憑性に欠ける。

 優れた能力があっても、いくら努力しても必至に媚びうって良い子でいても、何とも成ら無い物は何ともならないのである。

 とりあえず、生きて行くだけなら何とかなるかも知れないが、生まれて生きて死んでいくだけの人生は実に味気ない。

 少々のむらっ気があってもいのではなかろうか。

 そのむらっ気が芸術を生み出し、科学を進歩させ、学問を発展させてきた。

「身は身で通る裸坊主」と、変に自分を可愛がってしまっては、かえって個人の歩みは止まってしまう。

 自分の置かれた境遇を素直に受け入れて、謙虚に生きて行く。

 不平不満を持たないで、慌てず急がず目立たぬように。

 出来ねえ相談だ。


『し』

『知らぬが仏』

 どんなに凄まじい事態であろうとも、実体を知らなければ仏のように平穏でいられる。というのが表向き。

 仏は穏やかであるとの確定因子によって成り立っている言葉である。

 仏の実体云々について、ここで語るのはひかえた方がよさそうだ。

 厭らしい意味としては、本人だけが知らずにのへーっとしているマヌケずらを笑ってやる時に使う。

 テレビでたまにやっているドッキリというやつ、だんだんとエスカレートしてきているような気がする。

 事態の真相を知らなくても、仏でいられない場合も多々あるのが現実社会である。

 ましてや仏でもない凡人が、騙されて笑い者にされた上に、テレビという赤の他人の集団に御披露目されるとあっては、どの様な取引があったとしても容赦できるものではない。

 ドッキリ系の番組を見る度に、芸能人というのは異常に堪忍袋がでかいのか、恥に見合うだけの報酬があったのか、事前にしっかり打ち合わせ済みなのかとしみじみ思う。

 ドッキリの内容があまりにも悪趣味になってきているので、数年前からこの手の番組は見ないでいる。

 他人の不幸は蜜の味であるのは否めない所であるが、過剰な他人の不幸は生活におけるマイナス因子に成る。かえって気分を概して暗く落ち込んで行くものだ。

 見なければ命に関わるといった事もなく、笑い飛ばす為に造られた物でイラつくのもつまらない話。

 とりあえず、スポンサーだけはチェックする。

 何も知らない善良な者に、洒落にならない悪戯を仕掛けて喜ぶ人を当てにして宣伝を打つ企業である。何も知らない善良な消費者に、得にならない商品を売りつけて暴利を得ていないとも限らない。

 公共性の高い電波を使って、企業イメージをアップする為の一手段としてのテレビ番組である。

 人様に対して嘘ハッタリをかまして、困った様子を見て喜ぶのが企業イメージのアップに繋がるのかどうか。

 何でも数字さえ稼げればいいってものではなかろうに。とか言っちゃってー。

 私、結構と数字、気にしてます。


『尻食への観音』

 江戸の時代には、何かにつけ困った時に【神様・仏様・観音様】と助けを乞うていた。

 キリスト教が禁止されていたから、今のように変形としての【神様仏様キリスト様】は御法度であった。

 困り続けているならば「どうか助けて下さい」と願い続けているものだ。

 宗教団体において、困った人がいなくなっては自身が困った団体になってしまう。食いっぱぐれの宗教団体ほど惨めな物はない。

 なにせ御本尊は難民を助けてくれないと、自分で証明しているのだから。

 しかしながら、困った人間をまったく助けないのは尚更信じてもらえない。

 そこで【奇跡】と称して一部の人間を助ける。それも飛び切り困っている人間を助けるのである。

 あの人が助かったのなら、何時か私も救われる。あの人の苦難に比べたら、私はまだ救ってもらう順番には早い。などと思いは人それぞれだが、とにかく運の良かった人は救われた。

 さて、この救われた人であるが、困っていた時は熱心に神様仏様観音様を信じていたが、いざ助かってしまうと自分の力で助かったと思い込んでしまう。人間の性である。

 どんな聖人にも、多少なりともこの様な傾向が見られるのは仕方ない。

 受けた恩を忘れてしまうまでは当然自然当たり前の成行であるから大目に見るとして、この恩を受けた観音さんにたいして【御尻ペンペン】をして馬鹿にするような行為を指して『尻食への観音』と言っている。

 簡単に言えば、恩人を罵る行為を指している。

 しかし、いかに恩人と言えども【ロクデナシ】はロクデナシである。

 ろくでなしのアホタレの馬鹿野郎が恩人であった場合。私はハッキリ「あんた本物の腐れですから」と言ってあげる。きっとそうする事がその人の為だ。

 雑な知識であるが、尻食らえ観音は尻暗い観音と書く場合がある。

 六観音の縁日が陰暦の十八日から二十三日までで、その後月が欠けてゆき闇夜になる事から、何処も彼処も暗い「尻暗い」とかけている。

 この場合は意味がかなり違ってくる。

 自分の尻も見えないマヌケな観音となる。

 神でも仏でも観音でも真っ暗闇では自分の姿もまともに見えないだろう、まして庶民の苦しみなど見える筈もない。と、かなり悲観的であるが、よくよく考えるにどれだけ明るくしても、自分の尻は鏡でも使わない限り見えないのだよ。


『しはん坊の柿の種』

 しはん坊ってどんな坊? 分かりませんわな。節約家の事であります。

 俗っぽい言い方をするならば【ドけち】

 柿の種はそのまま柿の種。

 直接的な解釈をすれば【ドけちの柿の種】

 してみるに、私はドけちである。

 十年ほど前に買って食べた柿が馬鹿美味で、思わず種を撒いてしまったら、なんと芽が出て育って木になって雄花は咲くが雌花が咲かずに実が生らない。

 桃栗三年柿八年は大嘘である。

 十年たっても【百二百花は咲けども甘柿の、実の一つだになきぞ悲しき】

 今は夏場の心地よい日陰作りくらいにしか使えない奴に成り下がっている。

 それでも叩き切って捨ててやろうと思えず、毎年面倒を見ている。

 不要な物はどんどんと捨てて行かなければ、物は増えるばかりである。

 ケチくさい事言ってないで、柿の種のようにつまらない物はさっさと捨てて、身の回りを整理しなさいといった意味。

 ア〇〇カの様に広大な土地を原住民から一方的に頂いた状態であるならば、置き場が広大だから何でも捨てずに保管しておいて、百年もすればコレクターが高く買ってくれる。

 何かの拍子におにぎりと交換した種ならば、芽が出て実がなるかもしれない。

 ところが、日本の土地事情は平地が極端に少ないのが実情である。住宅地の広さは極狭くに限られている。

 たとえ骨董的価値が出そうであっても、何時までも使わない物を置いたままでは寝る場所が無くなってしまう。【ケチくさい奴は柿の種でも後生大事に取って置く】と笑い飛ばしてやりたい所だが、はてさて何処まで大切で何処から不要な物なのか。

 いざ捨てるとなるとなかなか決められないというのが、何方さんも本音なんじゃござんせんかねー。

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