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壱拾伍

 壱拾伍


『て』

『亭主の好きな赤烏帽子』

 烏帽子とは成人した男性のかぶり物のことで、無駄にとんがった鶏のトサカのようなやつ。時代劇で貴族がかぶっている。

 今では神社の神主くらいしか使わない代物で、イメージ出来ない人もいるだろう。

 烏帽子の色は黒が普通だが、亭主と表現した一家の主人が言ったらば、赤い烏帽子が当たり前の色だとしなければならない。

 どんなにおかしなことでも、一家の主人の好みに家族は従わなければならないということから、組長に「御前が殺ったんだよ。自首しなよ」とチャカを渡されたら「はい、自分が殺りました。自首します」と最寄りの警察署にやっても居ない殺人で出頭しなければならない。絶対的上下関係にあるフザケタ社会の悲哀を謳っている。

 現代では【黒い物でも白】との言い回しに変わっている言葉である。

 力任せの団体に限らず、総ての組織や人間関係の中にシバシバ現れて来る現象であり、主に強者が弱者を犠牲にして更に強くなったり長生きしたりと、理不尽としか言い様の無い上下関係を表現している。

 パワハラだな。

 江戸の時代と言葉は違っても、令和の時代に腐りきった精神はしっかり受け継がれている。

 偉いと言われている人達にとって、特に既得権を死守したい者にとっては超有難い御言葉である。

 何時の時代も、弱者は強者の食い物である事に変わりはない。

 釘になるよりは金槌に成った方がいいなどと言いうが、叩かれて打ち込まれる釘が無かったら、大きな箱ほど簡単に壊せますわなー。

 釘がなかったら金槌はいりませんわなー。


『天道人を殺さず』

 意味を簡単に書くと「正直者は馬鹿を見ない」となる。

 天地を形成する道理は、真面目で素直な人間を捨ててまで無慈悲な事はしないというのだが、江戸の時代にあっても明らかに世情を皮肉った言葉である。

 天の道が神であれ真理であれエネルギーであっても。何だろうがこの道と言う奴は、決して正直者の味方ではない。

「おてんとう様が何時でも見ている」などと言う。見ているだけである。

 救いの手を差し伸べるのは極希で、天の事情を知らない平民にはただの気まぐれとしか思えない。

 正直に世の中を生きて来た者が何等かの災難に遭遇した時、不思議な力で逆境から抜け出せたりすると人は奇跡が起きたと言う。

 神が・天が・何者かが奇跡を起して助けてくれたと喜んで言いふらすのだ。

 奇跡は奇跡だから奇跡なのである。正直に生きてきた総ての人を救うものではない。

 天道は生きる総ての者に順位をつけ差別し、食う者と食われる者に分けている。

 最期は総ての生が何者かに食われ、消滅してしまう事に限って言えば完璧な平等である。

 してみるに、きっと天道とは総ての生を喰らい尽くす者なのである。


『寺から里へ』

 一般的に馴染みのない表現である。

「寺から里へ」とは「檀家から寺に金品を進呈するのは当たり前だが、寺から檀家へ物を贈る事は間違っている」  

 わがままな一方通行である。

 寺にとっては都合が良過ぎる意味でしかない。

 江戸時代だから、宗教法人の教義・教えについて科学的にどうだのこうだのと言う者もいなかった。

 この言葉はそのままの意味であったにも関わらず、民衆に受け入れられていた。

 今時こんな事を寺の住職が口走った日には、檀家総出の大騒ぎに成る。

 人心を操るには信仰が最も容易い方法であるのは、賢明なる方々ならば御存知でありましょう。

 上下関係を構築した後にその組織構成を揺るぎないものにする為、仏教は実に都合が良かった。

 仏教を否定する気は無いが、江戸の時代には政治統治・思想コントロールに宗教が利用されていた事実は消せない。 

 過去に限らず、今も宗教の違いが原因としか思えない争いが絶えないのは、民衆支配の必須アイテムだからである。

 宗教に限らず、本来人を救うべき物やシステムを利用して、困った人々を救う為と理想をぶち上げてはいるものの、その実態は人心コントロールだったなどというアイテムが現代社会には溢れかえっている。

 操られているつもりは無くとも、いつの間にか全身を底なし沼に引き込まれ、気付いた時には身動き取れない状態に成っているものだ。

 ところが、この民衆を引き込み操っていると思っている者もまた誰かに操られ、堂々巡って皆して操りあって居る事を人形遣いは気付いているのだろうか。

 はてさて、世の中という空間。何が発端で始まっているかなんてえのは、誰にも解らないんじゃないでしょうかねえー。


『あ』

『頭隠して尻隠さず』

悪い事と知っての所業を隠そうとしているのだが、総て隠しきれていないといった御間抜な状態を言っている。

 悪事を働くならば完全犯罪を目指すべきである。ばれても良い、捕まっても良いでは志が低過ぎる。

 第一に、犯罪を犯すという緊張感や、立案し計画設計する段階で思い巡らす時に発生するエンドルフィンも得られないのでは、犯罪を犯すメリットが無い。

 疲れるだけで余計に悪いストレスを貯め込んで行きかねない行為は、マヌケを超越した愚か者である。

 隠しきれないとか、隠して実行したのでは御宝が得られないといった悪事しか立案出来ないのは、己の技量が未熟と認識すべきである。

 何処の誰だか解るようにしなければならない理由があるならば、悪事を働く前に自首した方がいい。

 同じマヌケでも、まだ後者ならば救い様があるってえもの。

 救える救えないはあるものの、どちらもマヌケな様である事に変わりはない。


『阿保につける薬がない』

 深く考えもしないで愚行に走る者は、どうやっても救いようがないと言っている。

「箸にも棒にもザルにも網にも引っ掛からない」「オタマでもシャクシでもスプーンでもすくえない」などとほゞ同じ意味と取ってよろしい。

 病気や怪我ならつければ治る薬もあろうのに、考えが引き潮時の九十九里浜の様だったり、物の道理や善悪がどうしても理解できないとか、他人様の気持ちを思いやれずに分別なくそこら中に溜まったストレスを撒き散らす人や、行間が読めない人には付けてやれる薬がない。どうにもしてあげられないといった意味である。

 本来、この様な人の事を助けてあげたいのだが、本人が気付かなければどうする事も出来ないといった意味もあると言われている。


『足もとから鳥が発つ』

 都会に住む人には分かり難い言葉かもしれない。

 私の住所辺り程の田舎まで来ると、大自然がこの様な状態を惜しみなく見せてくれる。

 田圃で虫や藻をすき取っている鴨や、稲刈り後の昆虫等を食っている鷺などが、いくら静かに近寄って行っても、ある程度の距離になると一斉に飛び去って行ってしまう。

 この場合は危険を察知して逃げたと思うのが普通である。

 しかし、この言葉の意味する所としては、田圃という人間が作った領域で恩恵を受けておきながら、何かの拍子にこちらを見捨てるように一斉に飛び去って行ってしまう鳥に、哀愁であったり怨みを感じてしまうといった感じ。

 たんまりと現ナマを持っていた頃は、良い人悪い人構わずそこら中からスリスリと寄って来たのに、いざすってんてんのオケラになると、誰一人見向きもしなくなるのは世の常・一般常識・当たり前。

「兇状に 派手に落ち目の 三度笠 旅に出るにも 共の者無し」 

 どんなに影響力のある親分さんでも、一旦落ち目になると一斉に誰も寄りつかなくなるものである。

 それを「兄弟分だと思っていたのに裏切られた」と言いたくなるのが人情。

 そこをグッと堪えてよーく考えてみよう。

 それが出来ないようなら、それまでの人間でしかない。

 本当ならば、相手の本性を見抜けなかった自分の不甲斐なさを恥じるべきところ。

 まずはそうしてからどうするか考えるべきなのだが……。

「頭隠して尻隠さずのアホにつける薬は無い」のだろうか。ならば、いっぺん地獄を見るしかないのかもしれない。

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