14 返ってきた厄災
「……何これ。今までどうやってこの結界をぶち抜いてやろうかって悩んできた自分がバカみたいじゃない」
オリガベラが呆気に取られた様子で見ているのが、人間界と魔界を遮る結界だ。その結界の一角に、たった今オリガベラが魔法をぶつけて開けた大きな穴がある。
だがこれは、仲間のサジドがあらかじめ結界の脆い部分に手を加えていてくれた上に、近頃結界の力が弱くなっていたという偶然が重なっていたからこそ為せたことだ。
「ま、いいわ。これで聖女サマに会いにいけるんだし♪」
空いた穴をするりと抜けて人間界に入ると、オリガベラは空を飛んで家を探すことにした。家とはもちろん、聖女の暮らす家だ。
サジドの話では、この“境の森”からさして離れていない場所にあるらしい。
やがて森を抜けると、それは一目でわかった。夜空に満月の浮かぶ緩やかな丘の上に、たったひとつ。その家だけが、ポツンと立っていたからだ。
「……アレね」
ニヤリと笑うと、オリガベラはそれめがけてスピードを上げて飛んでいく。もちろん人間に侵入したことが気付かれぬよう、魔力隠蔽術は使っている。
「アハハ! これじゃ聖女サマへのご挨拶なんて、あっという間に終わっちゃいそう! 人間界は居心地悪いってサジド言ってたけど、夜だからか思ってたより平気だし……大したことないじゃない! ついでにこの国ぜーんぶ壊しにいっちゃおうかしら?」
聖女を倒すどころか、人間の国ひとつを滅ぼしてきたと魔王が知ったら、どんな最上級の褒め言葉がもらえるか。それを考えると、オリガベラは笑いが止まらなかった。
やがて聖女の家らしき民家の真上に着いた。月明かりに照らされて、屋根の上にオリガベラの影が落ちる。
「聖女サマは起きているかしらね」
上からあちこちの窓をさっと確認してみる。ひとつの窓だけ、ほのかな灯りがその向こうに見える。
「まあどちらにせよ、叩き起こしてあげれば慌てて飛び出してくるでしょ…………あら?」
軽く一発、魔法を家に叩きつけてやろう──。そう手を上げた瞬間、ほんの一瞬だけ、屋根がキラッと反射したのをオリガベラは見逃さなかった。
よく見ると、薄い薄い透明の膜が家を囲うように張り付いている。
「なにこれ、家全体に反射魔法と……それに防御魔法もかかってんの?」
たまたま気付いたからよかったものの、もし気付かずに魔法を撃っていれば、オリガベラに跳ね返ってきていただろう。長いこと魔族を阻んできたあの結界のように。
それにしても、パッと見た感じだけでも、家を覆う反射魔法と防御魔法は上手く融合していて質が良いことが分かる。その上で、家全体を覆える程の広い有効範囲。この魔法を張った者がいかに凄腕かがわかる。
「……生意気な聖女サマね。派手に潰してやりたくなってきちゃった」
そう呟くと、オリガベラは醜く口角を上げた。弱い生き物が死に物狂いで抵抗する姿を見ると恍惚となる彼女だが、小賢しい真似をする場合はその限りではない。
「──そうよ。あの獣人が手にしていた本の出どころは、ここなのよね。なら、聖女サマには早く消えてもらいましょ。半獣半人に余計な知恵を与える本と一緒にね」
オリガベラは手を掲げた。体の内から手の平に向かって、凝縮させた魔力──出しうる限りの、目一杯の魔力を集中させる。
たとえ反射魔法と防御魔法がかけられていても、それ以上の強さの魔力攻撃は防ぐことができない。だから、オリガベラは最大限の火力をその手に込めたのだ。
やがてメラメラと燃えたぎる巨大な火球がボッと手の平に現れると、掛け声と同時に、その手を家に向かって振り下ろした。
「──えい!」
火球が勢いよく屋根に当たる。その衝撃で、屋根の半分が爆音と共にごそっと下へ落下していく。
「……跡形もなく吹っ飛ばすつもりでやったのに……ホント目障り……ッ」
舞い上がる粉塵と煙の中、オリガベラが憎々しげにつぶやく。
魔族カーストで上位に立つ彼女にとって、これまで500年以上生きてきた中で思い通りにならないことなんてほとんど無かった。
だからこそ、今のこの状況を認めたくなかった。許せなかった。
落ち損なっていた一部の屋根がガラガラと崩れていく音を聞きながら、オリガベラはしばし息を整える。最大限の魔法を使った後は消耗が激しいが、このままでは帰れない。
「チッ、もう一回──」
まだ気怠く震える手を、もう一度振り上げた時だった。
「──……え?」
恐怖で全身が硬直する。まるで魔神の巨大な手で心臓をわしづかみされているかのような。
噴き出てくる汗を感じながら、オリガベラは恐る恐る見下ろした。
そこに──半分崩れた家の中に、あった。この恐怖の根源が。
「……くっ!」
オリガベラは何とか体を奮い立たせて、元来た方向へと踵を返す。
彼女の性格的に尻尾を巻いて逃げ帰るなど、絶対に嫌だった。
だが、そうも言っていられなくなってしまった。この強大な魔力にかかれば、自分など赤子に等しい。一捻りで殺されてしまうだろう。
(この魔力……本当に聖女のもの!? 一体、何者なのよ!?)
人間離れした魔力だとオリガベラが思ったのは正しかった。それもそのはず、聖女のものではなかったからだ。
何とかサジドを撒き、ようやくソフィアの家に駆け付けたライジーは、その悲惨な有様に愕然とした。
屋根にぽっかりと空いた大きな穴から、炎が轟々と舞い上がっている。あの穴の位置からすると、居間かキッチンの辺りだろうか。家の周りにも屋根が一部落ちてきたようで、玄関のドアの前も瓦礫で埋もれている。
そして、満月を背に一人の魔族が空に浮かんでいた。女の悪魔で、何故かとても怯えた様子をしている。
その理由が、ライジーにも分かった。ライジーでさえも逃げ出したくなるほどの強大な魔力が、彼女に向けられていたからだ。
(……もしかしてあいつがリリーの家を……⁉)
破壊された家に、突如として現れた魔族。そう考えて当たり前の状況だ。
ライジーはギリッと歯を食いしばると、脚に力を込める。普通に考えて獣人が敵う相手ではないが、こんなことをして、このまま逃がしてやる訳がなかった。
飛び上がろうとした寸前、その悪魔が踵を返した。よろめきながらも必死に魔界に逃げ帰ろうとするその姿を追いかけようとしたが、ライジーはハッとした。そんなことよりも優先すべきことがある。
「………リリー……リリー!」
ソフィアは中にいるのだろうか。無事だろうか。
空いた穴から中に飛び込もうと屋根の上に上がったものの、炎が強すぎて無理だった。
玄関のドアを塞いでいる瓦礫を退かす方が早いと思い直すと、屋根から飛び降り、瓦礫を次々と投げ飛ばしていった。
最後の瓦礫を投げ飛ばし、ライジーはドアを開けた。
そこにかつての穏やかな光景はない。玄関には崩れ落ちてきた屋根が一面に転がり、それ以上中に進めないようになっていた。
だが、それで困ることはなかった。ドアの前に、当のソフィアが倒れていたからだ。
「リリー‼」
考えるより先に、体が動いていた。ライジーはソフィアを抱き起こす。ソフィアは気を失っているものの、かすかに呼吸をしているようだ。
ひとまずライジーがホッとしたのもつかの間、突然、目の前の屋根の残骸がガラガラといいながら崩れていった。
そうして残骸の間から現れたのは、一人の老紳士──いや、悪魔だった。初めて見る姿だったが、聞き覚えのあるその声から、ライジーはそれが誰だかすぐに気付いた。
「──ちょうどよかった。おぬしに聞きたいことがあったのだ」
体に付いた土埃を手で払いながら、その老悪魔──テオはじろりとライジーを見下ろした。その瞳に責められている気がして、身に覚えのあるライジーは口をつぐむしかなかった。
「……が、その前に急ぎ始末せねばならん奴ができたのでな。話は後だ。ソフィアを頼むぞ」
そう言ってライジーの横をゆっくり通り過ぎたテオに、ライジーは慌てて声を掛けた。
「ちょ……あんた、屋根の下敷きになったんだろ!? 体は平気なのかよ?」
「……フ、まだ儂をただの老犬と思っているのか?」
テオはニヤリと口の端を曲げた。ソフィアをかばって屋根の下敷きになったのは、確かに犬の姿の時だ。だがその瞬間、隠蔽術で抑えていた魔力をほんのわずかだけ、身を守るだけの魔力を解放したのだ。
「ソフィアに見られていてはこの姿に戻ることもできぬからな、ソフィアが意識を失ってくれてかえって良かったわ。魔力を放ちあやつの追い撃ちを防いだはいいが、追いかけるには犬の姿ではさすがに不便だからな」
「やっぱりアイツが……」
玄関の外に立つテオが遠くを見るように目を細めたのを見て、ライジーは先ほど見かけた女の魔族を思い出した。彼女がソフィアを、ソフィアの家をこんな状態にしたのだと思うと、急激に頭に血が上ってくる。
そんなライジーに気付いたテオが、諭すように口を開いた。
「おぬしではあやつに敵うまい。おぬしのすべきことは、ソフィアを安全な場所に連れていき、守ること。……良いな?」
「……言われなくても」
「相変わらず生意気な小僧だ」
ソフィアを大事そうに胸に抱き、勝ち気な顔で睨み返すライジーを見て、テオはクッと笑った。
それからテオは手を前に出す。その手の平に小さな魔力の球体が浮かんだかと思いきや、球体が鳥のかたちになり、勢いよく空に向かって飛んで行った。
「今ソフィアの兄に伝書鳩を送ったゆえ、そのうち血相を変えて飛んでくるだろう。その後は兄の手を借りるがよい」
「ああ、わかった」
「それから……ソフィアが目を覚ましたら儂の安否を訊ねてくるだろうが、決して真実を告げるでないぞ。白犬のテオは、その中だ。……良いな?」
玄関の奥の瓦礫を指さしながら念を押したテオに、一瞬迷いながらも、ライジーは頷いた。
炎に飲まれた瓦礫に愛犬が取り残されたままだと知れば、ソフィアが悲しむのは容易に想像できる。
そんなソフィアを見るのは辛いが、これまでずっと本当の姿を明かすことのなかった彼のことだ。自分が勝手に真実を告げるのは筋違いだというものだ、とライジーは思った。
ライジーの反応に満足すると、テオはバサバサと翼をはためかした。
そして、一瞬でその場から消えた。老いた姿からは想像もできないくらい、圧倒的なスピードで例の悪魔を追いかけたのだ。
「はっえー……」
もうテオを老人扱いすることはやめよう。そう心に誓うと、ライジーは立ち上がった。
ソフィアをしっかり抱えなおすと、玄関を飛び出し、外へ駆け出した。
(──居った)
夜空を裂くようにして飛ぶテオは、“境の森”に入ったところで早くも見つけた──よろめきながら飛ぶ、例の悪魔を。
追われる彼女の方も、背後から急激に近付いてくるテオの存在に気付いたようだ。
「やっ……やだやだやだあああ!」
その叫び声がオリガベラの最期の言葉となった。
頭と胴体が切り離されたオリガベラのもとに、テオが降り立つ。
「ふ……犬の体にすっかり慣れ切っていたからの。久々のこの体の方が慣れんわい」
首や肩をコキコキと回すと、テオは冷たい目でその動かなくなったものを見下ろした。
「ソフィアにあのような仕打ちをしたにもかかわらず、苦しまずに逝かせてやったのは情けと思え」
そう吐き捨てるように言うと、顔を上げた。ここは結界のすぐ近くのようだ。
「ふむ、この先どうするか……」
ソフィアのもとに戻るにしても、 一度変化を解いてしまったからには再び“白い老犬のテオ”に戻ることはできない。よく似た犬を探して変化することもできなくはないが、違う犬だとソフィアなら簡単に気付いてしまうだろう。
(そもそも“テオ”は落ちてきた瓦礫に挟まれて死んだと思われているか……)
フ、とテオはため息を吐いた。
愛犬が死んだと知り、どんなにソフィアは嘆き悲しむだろうか。その姿を想像するだけで、胸が痛む。
ソフィアの家を焼いたこの女悪魔を逃がしては、また襲われる可能性があった。それにソフィアが特別な能力を持っていると知られてしまった可能性もある。だからこそ変化を解いてまで始末したのはやむを得ない状況だった。
とはいえ、テオはソフィアのもとに戻らねばならなかった。死んだと思われていても、白犬でなくなっても、テオはこの先もずっと、ソフィアの守護者だからだ。
しばし考え込むテオから少し離れた所に、ひとつの影があった。サジドだ。
(オリガベラが、たったの一撃で……)
サジドはライジーの足止めをしていたのだが、獣人の脚には敵わず、結局はライジーを逃してしまったのだった。その後、オリガベラをそのままに放ってはおけないため、加勢するため、聖女の家に向かっている途中だった。
何やら必死な様子で逃げるオリガベラを見つけたはいいものの、彼女はこうして一瞬にしてやられてしまった。
サジドは本能的に木の陰に隠れていた。魔力隠蔽術を使っているので、自分の存在には気付かれていないはずだ。
(何なんだ……あれは)
相棒を倒した者を木の陰から盗み見ながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
自分やオリガベラは、魔族の頂点に立つ魔王には届かないまでも、それなりの強さを自負していた。
だが、あそこに立つ魔族は何だ。オリガベラを倒す一瞬だけ放出した魔力を感じただけでも、ひしひしと肌に突き刺さり、いまだその感覚は消えない。
(あんなの……今まで見たことも、聞いたこともない。魔族の強さのレベルを超えてるだろ、あの魔王様でさえも……)
魔族の見た目をしているが、聖女の味方なのだろうか? 獣人の子として聖女の家に行った時は気付きもしなかったが、ずっと聖女の傍に居たのだろうか? 疑問は尽きない。
その時、サジドはハッとした。──盗み見ていた相手が、こちらを見ている。その瞬間、心臓が凍り付いたかのようにサジドの体が動かなくなった。
(──逃げ……いや、もう手遅れか)
そんな考えが頭をよぎった瞬間、サジドの身に思いもよらないことが起こった。




