2-2 貴族
「さ、着いた」
不安をかき消すように玄関の扉を開けると、ライジーを家の中に招いた。我が家はこじんまりとしているので、玄関をくぐるとすぐに居間がある。そして、そのまま奥にキッチンが続いている。
ライジーから受け取った籠をキッチンの作業台に置くと、エプロンを身に着けながら聞いた。
「私はジャム作りに入るけど、ライジーはこの前教えたところの復習でもしとく?」
「おう」
そう答えたライジーだったけれど、ふと居間の本棚が目に入り、言い直した。
「……いや、本でも見とく。触っていいか?」
「いいよ。最近整理してないから、ジャンルがごちゃごちゃになってるけど」
本を集めるだけ集めて片付けをサボっていたツケが今ここに。ライジーが帰ったら早速本棚の整理をしよう。
そう心に誓いながら、摘んできた木苺をボウルに移す。まずは材料をきれいに洗うことからジャム作りは始まる。
洗ったら、よく水を切って、大きな鍋に木苺を移す。そこに砂糖と絞ったレモン汁を投入して混ぜたら、しばらく置いておく。
この間に、スコーンを作ろうか? ライジーもさっきああ言ってくれていたことだし。
そう思ったけれど、いろいろ考えて、結局スコーンを作るのはやめた。スコーンもいいけれど、ライジーに知ってほしい、食べてほしいものは他にたくさんあるから。
スコーンの代わりのものを大体こしらえたところで、木苺から水分が出てきているのに気付いた。火をかけるのに良い頃合いだ。
ここまで来ればしばらく鍋は放っておいて良いので、居間で待つライジーの方に行った。ライジーは椅子に座って、一冊の本をじっと見ていた。
「待たせちゃっててごめんね。まだあまり読めないだろうし、退屈だったでしょ」
「別に。……絵、見てた」
そう言って、ライジーはパタパタと灰褐色の尻尾を振る。……機嫌は良いみたいで良かった。
ライジーはあまり感情を表情や言葉で表さないタイプなので、はじめは彼がどう思っているのかが分からない時もあった。でも最近は、こうやって仕草から少しずつ分かるようになってきた。
「何の本?」
私も向かいの椅子に座ると、机の上の本を覗き込む。そこには、貴族階級の人間たちが描かれていた。その隣には、子どもが描いたような拙いラクガキが残されている。
この本には、見覚えがある。本の内容というより、ラクガキの方に。何故なら、このラクガキは私が描いたものだから。
「あー……よく見つけたね、これ……」
恥ずかしさを上手く隠し切れずに、私はそう呟いた。ありがたいことに、ライジーは本の内容に夢中になっているようだった。
「本棚の奥に挟まってた。……これ、何してるんだ?」
ライジーは本のとある挿絵を指した。それはカーテシーを行う女性貴族の絵だった。
「これはカーテシーといって、人間の貴族の女性がする挨拶のお作法よ。こうやって片足を後ろに軽く曲げて、スカートの端を両手でつまんで軽く持ち上げるの」
「ふーん……へんてこなことするんだな、ニンゲンって」
「ふふ、そうね」
あっけらかんと言い放つライジーに、私は思わず微笑んだ。この本にラクガキをしていた子ども時代の自分も、まさに同じことを思っていたからだ。
「でもおまえも、この、かて、しー? っての、するんだろ?」
「えっ?」
「だって、ソフィアも貴族なんだろ」
「……私が貴族だってどうしてわかったの?」
不意に言われた言葉に驚いた。ライジーにまだ私の素性は打ち明けていないのに。たった犬一匹と辺境地に暮らす野暮ったい恰好の女を、どうして貴族だと思ったんだろう。
「この本、とりわけソフィアのにおいが強いからな。でも今のじゃない。ガキのにおいがする」
「えぇ……」
私は思わず本に顔を近づけて、確認してしまった。でも、少し懐かしさを覚えるような、古臭い本のにおいしかしない。これが私の(子どもの頃の)におい……なんかショックだ。
「ガキの頃からずっとこの本を持ってるってことは、それを習ってたってことなんだろ。なら貴族のガキか、ってなるだろ」
「な、なるほど……」
私はふうと息を吐き出して呼吸を整えると、本を閉じた。ぼろぼろで、少し色が変わっている表紙に優しく触れる。
「これね、マナー教本なの。貴族の子どもは家庭教師を招いて、こういった貴族社会のマナーや社交術なんかを幼い頃から学んでいくのよ。私もその一人だった」
その一瞬で、過去に戻ったようだった。いつからだろう。幼い頃から私は、なぜか貴族社会になじめなかった。
でも勉強は嫌いではなかったし、貴族文化には多少の憧れはあったから、差し障りなく社交界デビューを迎えた。一昨年の秋だった。
「ご明察ね、ライジー。いろんな舞踏会に行ってはカーテシーをしていたのよ、こう見えて」
「こう見えて……? よくわからんけど、そのかて何とかをしようがしまいが、ソフィアはソフィアだろ」
「……うん。ありがとう」
ライジーの優しさに、思わず目が潤む。人間よりもよっぽど、「辺境伯家令嬢」ではなく、「私」を見てくれる。
……今なら、もしかして。
「ライジー……あのね、」
「あン?」
ライジーのきれいな瞳が私に向けられる。ドキッとして身が竦んだけれど、思い切って口を開いた。
「あのね。本は無いんだけれど……聞いてくれる? 私の物語を」
他の誰でもない、ライジーに聞いてほしい。私がどのような人間なのかを。