10-2 獣人と老犬の風呂同盟
テオがため息を吐いたところで、ライジーが立ち上がり、浴槽へと向かった。
「なあ、これで入ってもいいだろ?」
「ま、よかろう。浴槽を割るなよ。獣人が馬鹿力なのは知っとるぞ」
「何でもかんでもバカスカ壊すほどマヌケじゃねーっての」
じとっとテオを睨むと、ライジーは片足ずつ、湯の溜まった浴槽に入れた。それから、先ほどソフィアが見本を見せてくれたように、浴槽の中にしゃがみこんでみる。
(……おぉ……なんだこれは)
これまで川の冷たい水しか知らなかったライジーは驚いた。温かい水に体を沈めるのが、こんなにも心地いいとは。まるで体が溶けていくようだった。
「…………ふ~~~~」
ライジーの口から知らぬ間に漏れていたのは、ため息だ。体の全ての力が抜けていくのが分かる。こんな感覚、魔界では決して体験したことがなかった。
つまり、ソフィアが風呂は気持ちいいと言っていたのは、真実だったわけだ。
「魔界じゃ、そんなだらしない顔はできんな」
テオがクッと笑った瞬間、ライジーはハッと顔を引き締めた。
(くっ……入った者の気を抜かせて油断させる。なんてキケンな物だ……!)
その手には乗るもんかとライジーは気を引き締めるが、出たいと思わせないところが風呂のまた恐ろしいところだ。
さて、魂を抜かれそうになるほど風呂は気持ちいいが、テオにまだ聞かないといけないことがある。ライジーは何とか頭を働かせると、口を開いた。
「そーいやさ、“境の森”に結界があるのは知ってるだろ。なんで俺には結界が効かないんだ? ま、あんたにもだけど……。結界の力が弱まってる訳じゃねーとは思うんだけど」
「うむ、儂も話したかったのはそのことだ」
テオはすっと目を細めると、話を始めた。
「おぬしの推察通り、結界は正常に機能しておる。儂とソフィアに助けられた時のことは意識を失っていた故に覚えておらぬだろうが……おぬしが倒れていたのは、結界のすぐ外側──つまり、魔界の領土内だった。それなのに結界を越えて人間界に運び込めたのは、恐らくおぬしが気を失い、しかも死にかけで邪気のひとつも発しておらぬ状態だったからではないかと思うておる」
「なるほど……邪気、ね」
邪気を跳ね返す結界は、邪気をもたない魔族を跳ね返すことはできないということだ。
とすれば、魔族が人間界に入り放題になってしまうのではと思うかもしれないが、それはほとんど心配ないだろう。ライジーやテオはあくまでも例外中の例外であり、邪気をもたない魔族など、普通はいないからだ。
テオが何気なく言った「邪気」というもの。これが一体何なのか、ライジーは何となく分かる気がした。
邪気とは、魔族であれば当たり前に自らの内に存在しているものだ。ごく自然に存在するもの故に、ライジーが体の内側に潜むそれに気付くことはなかっただろう──もしソフィアと出会うことがなかったら。
「だが、今は違う。意識のある、通常通りの状態で、結界を行き来できているな? それはだな──」
「あ、それ、俺わかるかも」
ちょうど同じことを考えていた時にテオがその話をしようとしたので、ライジーは言葉を引き継いだ。
「俺さ、リリーに本の読み聞かせしてもらったら、何というか、こう……腹の中に溜まってたドロドロした黒いもんが消えて、スカッとする感じがあるんだよな。でも魔界に戻ったら、また腹の中にドロドロが溜まってくんだ。で、ここに来てまた読み聞かせしてもらったら消えてって……」
腹の奥底でドロドロとうごめく、真っ黒な邪気。それが魔物に破壊と混沌を好ませていた。
そして、その邪気がソフィアの読み聞かせによって消滅することは、ライジーも気付いていた。
「何度か繰り返して、わかったんだよ。もしかしたらリリーの読み聞かせには、何か力があるんじゃねーかって。……あんたも同じなんだろ? 毎日リリーに読み聞かせしてもらってるみてえだし、そのおかげで、結界の力で滅せられることなく堂々と人間界で暮らせてるってわけだ」
ライジーがそこまで言い切ると、テオはニヤリと笑った。
「ほう……よく気づいたな、獣耳のくせに」
「……だから、あんたには言われたくねーって」
じろっと睨んできたライジーは無視して、テオはまじめな顔で口を開いた。
「現聖女の聖歌には邪気を退け、滅する能力があるように、ソフィアの読み聞かせにもある。“浄化”という能力がな」
「……浄化……」
「幸か不幸か、ソフィア自身は自分の能力に気付いておらぬ。だからおぬしもソフィアにはこのことを明かさないでくれ。ソフィアがあまりにも自分を卑下する時は儂も思わず明かしたくなるのだが……今はまだ、人間社会のしがらみから解放されたこの静かな場所で、傷を癒してほしいのだ。もしおのれにその力があると分かれば、あの子はきっと、世のため人のためと無理をするに決まっているからな」
テオはそこで口を閉じた。
テオの願いに対するライジーの答えは決まっていた──テオと一緒で、ソフィアには幸せでいてほしかった。誰かの為だからといって、彼女の慎ましくも穏やかな生活が奪われるなんて我慢ならないことだった。
「……分かってるよ」
ライジーがそう返答するのを見届けてから、テオはぺたりと床に伏せ、ため息を吐いた。
「少々喋り疲れたな。犬の口で喋るのは難儀するのだ」
それを見て、ライジーはふと思った。
(そーいやこいつ、魔齢ってどのくらいだ? 喋り方からしてけっこうオッサンくさいけど)
魔族がどれくらい生きているかは魔齢で表され、人間の年齢とほぼ同義だ。現在、ライジーの魔齢は19歳。人間の血も混じる獣人ゆえに、成長速度は人間のそれと同じだ。
だがテオの場合、犬の姿は本来の姿ではないために、実際の魔齢は判断できない。まあ本当の姿をしているからといって、見た目の老若と魔齢は魔族によって異なるのだが。
老犬の姿とその口調からは大分、魔齢を重ねているように見える。もし年寄りなら少しは労わってやった方がいいのかと思ったライジーは、ふと声を掛けた。
「なあ。あんたもフロに入ったら? 俺もう出るし」
「儂はいい」
「さっき、散々泥かけちまっただろ。洗った方がいいんじゃねーの?」
「……風呂は嫌いだ」
そうポツリと呟いてから、テオはライジーをじとっと睨んだ。
「……おい、今笑ったな?」
「別に? 上位魔族サマにも意外な弱点があったんだなーって思っただけだよ」
テオだって、魔物の姿の時は今みたいに風呂嫌いではなかった。だが犬に変化すると、身も心も犬になったようで困る。
「安心しなって。誰かに言いふらしたりしねーからよ……たぶん」
「…………」
テオは調子よく軽口をたたくライジーに向かってため息を吐くと、ボソッと呟いた。
「まあ、よい。おぬしがソフィアの味方である限り、儂もおぬしのすることに口出しはするまい」
(……味方である限り? 何言ってんだ、ただの味方なんかじゃねえ。俺がリリーの一番の味方だ)
テオの言い様は納得いかない。ソフィアの味方ではない自分など、ライジーは想像できなかった。
ソフィアは人間の敵を助けるという罪を犯してまで自分を助けてくれたのだ。あんなに華奢で、自分が触れたらすぐに裂けてしまいそうな柔肌の体で。
ソフィアがそうしてくれたように、ライジーも彼女を守りたかった。おのれの命を懸けてでも。
気付けば、ライジーはこんな提案をしていた。
「じゃ俺たち、同盟を結ぼうぜ。お互いリリーを守り、リリーのために行動する。それを守れば、お互いのやることに口出しはしない……ってのはどーだ?」
「……ふん、猪口才な奴め」
テオは目を眇めて獣人の若造をしばし観察してから、口を開く。
「そういうことなら、おぬしがソフィアと風呂に入るのだと恥ずかしい勘違いしていたことは、ソフィアには内緒にしといてやろう。……儂が耄碌してうっかり喋り出さぬうちはな」
そう言ってニヤリと笑ったテオを見て、ライジーは顔を真っ赤にして声を絞り出した。
「……こンの……老いぼれイヌ!」




