9-6 生まれて初めて
今日も他の獣人たちが洞窟内に籠り始めた早朝、ライジーはひっそりと里を後にした。
いつものように結界を通り抜け、“境の森”の端で辺りを窺っていると、ソフィアを見つけた。何やら赤い実のついた植物の群生地に座り込み、手を忙しく動かしているのが見える。
そんな彼女の姿を見ていると、ライジーはホッとした。この人間の世界に居る限り、気は許せないが、彼女の傍だけは安心できる。
そうこうしているうちに、いつの間にかソフィアがこちらに向かって走って来るのが見えた。いつものように、ライジーが来ていることに気付いて迎えに来たのだろう。
彼女の嬉しそうな顔を見ていると、ライジーまで同じ気持ちになってくるから不思議だった。
魔界では決して無かったこの感情が、一体何なのかは分からない。
だが、この時のライジーはまだ、深く考えることはしなかった。
それからソフィアと合流し、一緒に木苺を山ほど摘むと、ソフィアの家に移った。
この前食べさせてもらった木苺のジャムをまた作ってくれると言うので、ソフィアがキッチンで作業している間、ライジーは居間で本を見て待つことにした。
居間には、大きな本棚が一つある。本好きのソフィアがいつでも本を読めるようにと置いたもので、そこにはソフィアの集めた選りすぐりの本ばかりが並んでいる。
その本棚の前に立つと、ライジーはそこに並ぶ本を眺め始めた。
(全然すらすら読めるレベルじゃねーけど……ま、雰囲気だけでも知れたらいいか)
文字ばかりの本はお手上げだが、絵も一緒に使われている本であれば、ライジーでも少しは楽しめそうだった。
とりあえず手あたり次第に中身を確認しようと、真ん中の段の本をごそっと取り出す。
その時、ライジーは気付いた──その奥に、壁との隙間に挟まっている一冊の本の存在に。
(……なんだこれ。ぼろぼろだ)
その本を破らないように、ゆっくりと本棚の奥から取り出してみる。
他の本とは違い、何度も読み込まれてきたのか全体的に傷み、表紙は黄色く変色しつつある。
そして何より特徴的なのが、ソフィアの匂いが色濃く染みついていることだ。現在のソフィアの匂いとは少し違い、あどけなさが残る匂いだった。
それで分かった。ただの古い本ではなく、ソフィアが子どもの頃から持っている本であることが。
それでライジーは俄然、興味がわいた。
(ガキん頃のソフィアは、何読んでたんだ?)
他の本は全て本棚に戻し、この古びた本を一冊だけを持ってテーブルに着くと、まずは表紙をじっと眺めた。
黄ばんだ表紙にはいくつかの単語、それにごてごてと派手に着飾った人間の絵が描いてあった。文字の方には、一つだけ読める言葉があった。
「…… “貴族” ……」
ソフィアから読み方を習った言葉の中に、それはあった。それと同時に“王”と“平民”という言葉も教えてもらっていたのだが、それぞれの言葉の意味も一緒に教えてもらっていた。
ライジーはそれを聞き、人間の世界にも魔界のような階級制度があるのだと感心したのだった。
つまり、人間の“王”は魔界の“魔王”のように他の者の上に君臨する存在で、“平民”は“中低級の魔物”に相当する存在だということ。そして“貴族”は、“魔王のそばに控える上位の魔族”といったところだろうか。
(タイトルに“貴族”が入ってるし、人間の貴族のことを書いてんのかな)
ライジーはそう予想しながら、本を開いた。
子どもが読む本らしくこの本には挿絵が多く取り入れられていて、まだまともに読めないライジーでも何となく意味は分かった。
例えば、貴族らしき姿の雌の人間が食事をしているシーン。ゴブリンが使うような小さなナイフと、鳥の足のように先端の別れた棒をそれぞれの手に持ち、皿の上に乗った何かをそれらで切ったり、刺したりして食べる様子が描かれている。
それを見て、ライジーは呆れたように笑った。
(ハッ、キゾクってのはヘンな食べ方すんだな。嚙みちぎって食べりゃいーのに)
次の頁をめくると、この前ソフィアが出してくれたスコーンのような塊を食べているシーンだった。
その絵では、ライジーのように丸かじりはしておらず、塊を一口サイズにちぎっていた。それはまるで、この前のソフィアみたいに。
(あ? でも、この前はあいつ……)
それで分かった。あの時はソフィアのさりげない優しさだったことに。
自分の食べ方にそぐわないライジーを嘲笑ったり注意したりすることはせず、むしろソフィアはライジーのやり方に合わせてくれたのだ。
(……あーくそ……)
ライジーはじっと本を見つめながら、頭を掻きむしった。
文字を教えてくれる代わりに、いやそうではなくても、ソフィアには気楽でいてほしい。
それなのに、気を遣わせてばかりいる自分が情けなかった。
とにかく次からは気を付けることにして、ライジーはひとつ気付いたことがあった。
ソフィアが貴族だということだ。
彼女が幼い頃からボロボロになるまでこの本を読み込み、貴族としての所作を身に着けてきたのだろうことは容易に想像できた。
だが気になるのは、「貴族」という言葉を出した時や何気なく喋っている時にふと、ソフィアの心が軋むことだ。
獣人は、相手の心理状態をにおいをはじめとした感覚で察知するという能力を持っている。
ソフィアの顔色には特段表れてはいないが、ほんのわずかに、ギシギシと不協和音のような音を立てるのがライジーには感じられるのだった。
それが何故なのか、ライジーは知りたかったが、踏み込めなかった。
その後は本の方に集中していると、キッチンでの作業が一段落したソフィアが居間に来た。
ライジーが読んでいた本を見つけてソフィアは恥ずかしそうにしていたが、同時に彼女から感じたのは、あの不協和音だった。
(……まただ)
ソフィアが貴族だろうが何だろうが、ソフィアはソフィアだ。
それなのに、何が彼女をそれほど苦しめるのか。ライジーには分からなかった。
そのうち、ソフィアがぽつりぽつりと話し始めた。それは、彼女の物語──彼女が「貴族」として暮らしていた頃の話だった。
ソフィアの話す貴族社会のあれこれは、人間の世界のことさえもまだほとんど知らないライジーにはよく分からない。
だが、それがいかにソフィアを息苦しくさせているのか、そこに彼女の居場所はなかったことが伝わってきた。
ソフィアは平然と、淡々とした様子で話しているが、その心の中では泣いていた。ギシギシという不協和音であふれていた。
(……苦しい)
ソフィアの心の内を感じ取っていると、ライジーも胸が苦しくなってきた。
(こいつには泣いてほしくない。どうすれば泣き止んでくれる?)
そう思っているうちに、ライジーは無意識にソフィアを抱き締めていた。
彼女は、ライジーとは比べ物にならないほど華奢な体だった。優しく触れなければ、たやすく折れてしまいそうなほどに。
(ソフィアは、オレが守る──)
誰かを守りたいとこれほど強く願ったのは、生まれて初めての事だった。




