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引きこもり令嬢の読み聞かせ  作者: 方丈 治
第二章

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9-3 彼女がそうしてくれたように



 ソフィアの家に来るのは三度目だった。


 今日は文字を書いてみようということなり、テーブルに広げた紙の前で、手に羽ペンを持ったライジーは固まっていた。


 というのも、ライジーの持つペンの先が、ぐにゃりと曲がっていたからだ。


「…………すまねぇ」


 ペン先を駄目にしたのは、これで五本目だ。繊細な力加減を要する書く動作はライジーにとって慣れないことだったので、書く度にペン先を潰してしまったのだ。


 今ライジーが書こうとしているのは自分の名前だ。こんなに短い単語なのに、一文字目でペン先が曲がってしまうので、一向に書き切れる気配がない。文字の書き方は頭の中では理解しているのに。


 さすがのソフィアも呆れるか怒っているだろうと、ライジーは若干泣きそうな顔で、ソフィアの顔を覗き込んだ。


 だが、ソフィアはいつもと変わらない様子で微笑みながら、優しく言った。


「大丈夫ですよ。ほら、羽ペンはまだまだたくさんありますから」


 ソフィアが差し出した小さな箱には、数十本はあろうかという羽ペンが並んでいる。


 その一本を取り出すと、ソフィアは羽ペンをライジーに持たせ、その手の上に自分の手をふわりと重ねて呟いた。


「落ち着いて、ね? ペン先に集中してみてください。羽ペンがライジーの手の一部だと思って」


 ソフィアがそっと手を離すと、ライジーの手は魔法にかかったように動き出す。今度はペン先を潰すことなく、滑らかに。


「か、書けた!」


 ライジーは驚いた。文字なんて一生書けそうにないと思っていたところなのに、ソフィアの言葉でこんなにもすんなり書けてしまった。


「ライジー、すごいすごい!」


 ソフィアもわっと喜んでくれる。まるで自分のことのように。


(まただ……なんでソフィアはオレのことでこんなにうれしそうにするんだ?)


 それが人間というものなのか。ライジーには分からなかったが、これだけは確かだ。


 ──彼女がそうしてくれたように、自分も彼女のために何かしてやりたい。


 ライジーの心の中に芽生えた、初めての感情だった。


「……あっ、いけない!」


 その時、突然ソフィアが声を上げた。立ち上がり、ライジーの横を通ってキッチンに向かう際、不意にかぐわしい香りがライジーの鼻をくすぐる。


 ライジーには、それが慎ましやかに咲く路傍の花、はたまた静かな湖を満たす透き通った水のような匂いに感じたが、うまく言い表すのは難しかった。


 ともかく、狂気にまみれた魔界には絶対に存在しない、心がぐような……そんな匂いだった。


「テオ、遅くなってごめんね。はい、召し上がれ」


 ソフィアがキッチンから戻ってくると、テオのもとにしゃがみこみ、床の上に器を置いた。犬用のごはんのようだ。テオの食事時間が過ぎていることに気付き、急ぎこしらえてきたのだろう。それに対し、テオは尻尾をパタパタと振って喜んでいる。


 ライジーは、むしゃむしゃと美味しそうに食べ始めたテオをじっと見ながら考える。


(どこからどう見てもイヌだよな、やっぱ……)


 初めてこの家に来た時に感じた、あの強大な魔力。


 あの時からずっとこの老犬に注意を払ってきたが、やはり犬以外のなにものでもない。


 魔界には、魔物の他に普通の動物も存在していたからわかるが、それと同様、この老犬からわずかな魔力さえ感じられない。ただの動物だ。


 魔界に生息する動物とひとつ違うのは、人に懐いている点だけだ。ソフィアに出された飯を嬉しそうに食らい、ソフィアに毛を撫でてもらえば満足げに尻尾を振る。後は、のんきに寝ているだけ。


 しかし、あの時に感じた魔力は勘違いで済ませていいレベルのものではなかった。


 今はただの犬のフリをしているようだが、絶対に何かある──ライジーはそう思っていた。


「ライジーもすこし休憩しましょうか」


 難しい顔をしているライジーに、ソフィアが声を掛けた。ライジーが考え事をしている間に、キッチンで用意してきたらしい。


「私が作ったものなので、お口に合うか分からないですが……よかったら召し上がってくださいね」


 ライジーが呆然と見ている間にも、ソフィアは慣れた手つきで紅茶を淹れ、ライジーの目の前に皿を並べる。


「な、なんだ?」


 皿の上には、ライジーの見たことのない塊が置かれていた。それに別の小さな器には、鮮やかな赤色をした、光沢のあるどろりとしたものが入っていた。


(石とスライムみてーだな……)


 ライジーは皿と器に次々と鼻を近付け、フンフンと嗅いだ。そのにおいに、見慣れない物への警戒心が少しだけ解けていく。


「……なんか、いいにおいがする……」

「ふふ、それならよかったです。スコーンと木苺のジャムですよ」


 ソフィアは微笑むと、スコーンを一つ手に取った。スコーンを一口サイズにちぎり、その上にスプーンですくったジャムをのせた。


「ライジーは人間の食べ物は初めてですよね。スコーンはこうやってジャムを付けて食べると、もっと美味しくなるんですよ」


 ソフィアの手がライジーの口の前に差し出される。


 ソフィアがつまむソレは得体の知れない人間の食べ物だ。だが、やけに人の腹を空かせにかかるような良いにおいを発している。


 ライジーはしばし躊躇ったが、やがて覚悟して、恐る恐るソフィアの手からスコーンを食べ受けた。


「……ンん!?」


 ライジーは驚いた。これほど甘くて、芳醇なものを食べたことは無かったからだ。


 ただ、ジャムとやらから感じられる酸味には覚えがあった。


(もしかしてこれ、あのクソ酸っぱかった、赤い実か……?)


 以前狩りがうまくいかなかった時、ライジーは飢えをしのぐため、試しに木苺を食べてみたことがあった。が、その時に食べた木苺は異常に酸っぱくて、二度と食べるかと誓ったのだった。


 食べられたものではなかったあの赤い実が、むしろ美味しい物へと変貌を遂げたのをライジーは信じられない思いで見つめた。


(なんか……ソフィアが魔法をかけたみたいだ)


 その後、ライジーが間を空けずにパクパクと食べるものだから、心配になったソフィアが口を開く。


「あの、喉に詰まらせないでくださいね?」

「それも食べていいのか?」


 ライジーがもう一つの、スコーンが山盛り積まれた皿を指さした。


「はい、お好きなだけ────あ、少し待って?」


 ライジーが喉を詰まらせるといけないので、一口サイズにちぎろうとソフィアがスコーンを手に取った時だった。


 それを、ライジーがヒョイと奪い取る。


「めんどくせーからこのままでいい」


 そう言うと、ライジーは自分でジャムをたっぷり塗りたくり、大きな口でスコーンを丸かじりした。そんな彼を見て、ソフィアはキョトンとする。


 もし彼女が幼い頃にそんな食べ方をしていたら、きっと周りの大人たちに叱られていただろう。お行儀が悪いからやめなさい、と。


 だが、ソフィアにはライジーの気ままな食べ方がとても美味しそうに見えた。それは、「お行儀よく食べる」ことより、よっぽど魅力的だった。


「私も」


 ソフィアもスコーンをひとつ手に取ると、一口サイズにちぎらずに、そのままぱくりと頬張った。


「……うん。こっちの方がおいしい」

「? おまえが食ってるのは、コレと違うのか?」


 ライジーが食べていたスコーンを指して尋ねると、ソフィアは首を横に振った。


「ううん、一緒ですよ」

「???」


 ライジーが首を傾げる一方で、ソフィアは満足げに笑った。



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