9-2 初めての手習い
◇◇◇
文字には、力がある。
決して肉体的な力ではないが、それに匹敵する──いや、時にはそれを凌駕するほどに。
ライジーがそう感じ始めたのは、人間の娘・ソフィアの暮らす家に遊びに来て二度目の時だった。
やられっぱなしではこの先獣人は生き残れないと感じたライジーは、ガーゴイルたちに仕返ししてやろうと策を練った。だが、逆に嵌められてしまい、死にかけたところをソフィアに助けられた──それが始まりだった。
ソフィアに文字の読み書きを習うため、時折獣人の里を抜け出しては、ソフィアの家に向かうようになったのだった。
だが、獣人の里のある魔界と、ソフィアの家のある人間界の境目には、結界の壁が張り巡らされている。ソフィアの暮らす国の聖女が、魔界に棲む邪悪な魔族たちを人間界に入れないために張ったものだ。
結界は無色透明なので目で見ることはできないが、確かにそこに存在するのは魔族ならばその近付きがたい気配で判った。ライジーもそれがわかっていたので、今までは結界のある“境の森”付近に近付くことはほとんどなかった。
──しかし、今はソフィアに会いに行くために結界を越える必要がある。
ソフィアに助けられたあの日、獣人の里に帰る時は、何の問題もなく結界を通過できたが。問題は、一度魔界に戻ってから、再び人間界に入る時だった。
ライジーがソフィアの家に向かうため、初めて結界に向かい合った時は、戦々恐々だった。結界に触れた瞬間に体ごと跳ね返されるのを、いや最悪消滅覚悟で、恐々触れてみたのだった。
だが、心配は無用だった。難なく通り抜けることができたからだ。あれほど恐れてきた結界が、何も存在しないかのようだった。
ライジーが通れるなら、他の魔物も通れるのかと思いきや、それは無いようだった。ライジーがまさに結界を通ろうとした時、正気を失ったバーサーカーがちょうど結界に体当たりし、その瞬間その体が聖なる炎で焼かれるのを目撃したからだ。
自分だけが結界を通れる理由はわからなかったが、とにかくライジーにとっては都合が良かった。これで気兼ねなくソフィアの家に向かうことができるからだ。
バーサーカーの死体を尻目に結界を抜け、森を出ると、人間の暮らす世界が広がっている。
人間の世界は、ライジーの暮らす魔界と似ているところがあるが、やはり違うところだった。そこに住む生き物は当然のこと、空気も、においも、空の色も、魔界のものとは異なっていた。
ライジーは用心して動いた。人間界をうろついている魔物が見つかれば大騒ぎになり、ソフィアに会いに行くどころの話ではなくなってしまうからだ。
一番用心すべきところは、森を出た後だ。ソフィアの家は丘陵地帯の真ん中に立っていて、隠れる場所がないからだ。
だからライジーは森が途切れる場所で一度立ち止まり、いつも人の気配を探るようにしている。
だが、あまり心配する必要はなかった。タイミングよくソフィアが出迎えに来てくれることが多かったからだ。
そして、彼女はいつも快く家に招いてくれた。
「ライジー」
その優しい声に、ライジーはドキッとした。そんな風に自分の名前を呼ばれたことなど、生まれて初めてかもしれない。
「……なんだよ」
家の中に通されたライジーは居間のソファーに座らされていた。人間界、しかも人間の住む家の中に入るのはまだ二回目だったため、緊張していないと言えば、それは嘘だった。
「ここに来るのは、まだ緊張しますか?」
キョロキョロと辺りを窺うライジーを見ていたソフィアが、引き続き優し気な口調で問いかけた。
(……違う。おまえやこの家がイヤなんじゃなくて)
ライジーは瞬時に胸の中で否定した。この家でソフィアと一緒に居ることは、不思議と居心地が良かった。緊張しているのは、ここが人間界という異質な場所ゆえに獣の本能が過敏に反応しているだけだ。
「もしここにいるのが辛くなってきたら、遠慮せずに帰ってもいいですからね?」
ソフィアはそう言って、柔らかく微笑んだ。
(気ィ、遣われてんな……)
その心配りが何だかくすぐったくて、ライジーはそっけなく答えた。
「……だいじょうぶだって」
「そうですか? ……でも良かった。ライジーが本当にまた来てくれて、私うれしくって。できれば今日は長くここに居てくれたら嬉しいなあ、なんて……あっ、でももちろん、ライジーの時間が許せばなんですけど……」
もじもじと照れた様子で呟くソフィアを見て、ライジーは思った。
(……なんだ、この可愛い生き物は)
その後、とりとめのない話を少ししてから、二人はテーブルに移動して紙を広げた。
ソフィアは約束した通り、ライジーに文字の読み書きを教えた。何もかもが初めてだったライジーに対して、ゆっくり、丁寧に、くじけることなく、ソフィアは説明した。
「……次、『本棚』はこう書きます」
ソフィアはまず、部屋の中にある身近な物の名前を教えることにしたようだ。彼女が羽ペンで紙に文字を書く様子を、ライジーは隣でじっと見る。
その時、紙に書き連ねた数十個もの単語のうちの一つを、ソフィアが指した。
「さて、ここで問題です。これは何と書いたでしょうか?」
「『まど』」
「えっ、正解!」
「じゃあ、これは?」
「『みずさし』」
「これも正解! すごいね!?」
「別にこんなのすごくもなんともないと思うけど。おまえが教えてくれたものを覚えてるだけだし」
「ふつう、こんなにたくさんの言葉を一度見聞きしただけじゃ覚えきれないですからね? ライジーは記憶力がいいんですね! すごい! すごいです!」
「…………」
手放しで褒められ、ライジーは恥ずかしかった。これまで自分が頭がいいとは思ったことなど無かったし、言われたことも無かった。獣人にとって重要なのは頭の良さではなく、体の丈夫さや腕っぷしの強さだったからだ。
だがソフィアに満面の笑みで褒められるのは、悪い気はしなかった。
こんな感じで“読み”の方の習得は順調に進んだのだが、問題は“書き”の方だった。




