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引きこもり令嬢の読み聞かせ  作者: 方丈 治
第二章

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8-5 獣人も


 その時、声が止まった。自分の顔を見て少々驚いている彼女に気付いて、ライジーもハッとした。


 ──自分の目から、涙がこぼれている。


(え……まさか。オレが?)


 泣いた記憶など、ライジーの覚えている限り、一度もない。泣くのは負けや弱さを認めることだからだ。


 弱い立場にいる獣人が涙を見せれば、それは死に直結するような気がして、これまでライジーが泣くことはなかった。


「ちっ、違っ……! これはなんだ、そう、目に何か入って──」


 慌てて目をごしごしと擦るが、じっと見つめてくる彼女を誤魔化すことは不可能だとライジーは悟った。悟った瞬間、みるみるうちに血が頭に上ってくるのが分かった。


 その時、彼女はふと口を開いた。


「これ……私も、初めて読んだ時は涙がこぼれました。一緒ですね」

「ふ、ふん。オレは別に泣いてたワケじゃ──」


 ライジーが見苦しく言い訳を口にすると、彼女はクスリと小さく笑った。


「私が泣いた時は涙がこぼれるどころか、それは大泣きで、驚いた家族たちが飛んできたくらいで……六歳の頃だったかな」

「ガキの頃の話じゃねーか!」


 思わず大声で突っ込んでしまったが、彼女はくすくすと笑っている。それを見て、ライジーはふんと鼻を鳴らすと、逃げるようにベッドの中に潜り込んだ。


 別にベッドの中でいじけていた訳ではない。笑う彼女を見たら、弱いところを見せてしまったことなど、もうどうでもよくなった。それに、不快や卑屈を少しも感じなかった。


 むしろこれまで押し込めていたものが解放されたような、清々しさがあった。


 感じたことのない心地に一人驚いていると、シーツの外側から彼女の声が聞こえてきた。


「……あの、本を嫌いにならないでくださいね。これはこういう結末でしたけど、幸せな結末を迎える物語はたくさんあるんですよ」


 おずおずとそう言う彼女に、ライジーは即答していた。


「……別に、嫌いになってねーよ」


 その反応が嬉しかったのか、彼女は熱っぽい声でまくし立てる。


「あの、うちにある本でよければお貸しするので、ぜひ読んでみてください! 実はですね、この英雄の物語にはまだまだ続きがあるんです。それをあなたに読んでもらいたくって──」

「読みたくっても、字が読めねーよ」

「あ……そうなのですか」


 思わず言ってしまった言葉で、彼女はピタリと黙る。


 自分の言葉に冷たさを含んでいたのが彼女に伝わってしまっただろうかと、ライジーは少し後悔をした。


(でも……仕方ねえよ。ほん、は気になるけど、文字が読めないと意味ねーし……)


 文字は異なっても、魔族の文字だけでも読めたなら、人間の文字も挑戦してみようと思ったかもしれない。だが、無学な獣人が一から人間の本を読むには道が険しすぎる。別に間違った返答はしていない。


 そもそも、とライジーは思う。


(コイツは人間だ。オレを助けたのだって気まぐれで、関わりはこれきりじゃねーか)


 もう少し体が回復したら、ライジーはここを出て行く。そうしたらもう、二度と彼女に会うことはないのだ。


 ライジーがひそかに寂しさを感じていると、シーツの外から聞こえたのは意を決したような声だった。


「──私が字の読み書きを教えて差し上げます!」


(……は?)


 ライジーは驚いた。


(イカれてるんじゃねえか、コイツ)


 だが同時に、嬉しかったのも確かな事実だった。


 思わずもぞもぞとシーツから顔を出して、ぼそりと呟く。


「……獣人だぞ、オレは」


「関係ありません! 本を読みたいと思う者すべてに、等しく本の道は開いているのですから!」


 彼女の声は、笑顔は、眩しかった。彼女を見ていたら、何でもできそうな気がしてくるから不思議だ。


(オレも……獣人も、本を読んでもいいのか……?)


 上位魔族に文字を取り上げられ続けてきた獣人は、もはや文字を学びたいという気持ちさえとうの昔に失っていた。


 そんなライジーに彼女が一筋の光を照らしたことによって、獣人の悲しい運命が変わりつつあった。


「──ライジー」


 ライジーがそう呟くと、彼女はキョトンとした。


(……ああ、もう)


 誰かに自分の名を名乗ることなどもう随分と無かったから、自己紹介の仕方が分からない。ライジーは恥ずかしさを誤魔化すために、鼻を鳴らしながら言った。


「オレの名前」


 しばしの間を置いて、彼女の顔がじわじわと笑顔になっていく。ライジーが名を名乗った意味を理解したようだ。


「私は、ソフィアです。よろしく、ライジー」


 今日一番の笑顔がライジーを照り付ける。ライジーには眩しすぎて、再びベッドの中に潜り込んだ。


 その際に、ライジーは見た。


 彼女の読み聞かせの後はずっと寝ていた白い老犬が、すっと目を開け、こちらを見てニヤッと笑ったのを。


 その笑みの意味を、ライジーが知るのは後のことだった。



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