8-3 ニンゲン
◇◇◇
──静かだった。だが、全くの無音というわけでもない。かすかな足音と、カチャカチャという音が聞こえる。
それに今まで嗅いだことのない、得も言われぬいい匂いがする。
そこまで感じて、ライジーはハッと目を開けた。
「──ひゃっっっ」
ライジーはその声に、その光景に驚いたが、相手も同様に驚いているようだった。
(……ニンゲンの……雌?)
ライジーの目の前には、一人の人間が立っていた。姿かたちからして、若い雌の人間だ。ライジー自身、魔族の領土に迷い込んできた人間を何度か見たことがあるので判別はつく。
その雌の人間は、青みがかったシルバーグレーの色のふんわりとした髪をしていて、青緑色の大きな瞳でこちらを見ていた。
彼女の背後は、まったくなじみのない場所に見えた。四方は壁で仕切られて逃げ場はなく、そこかしこに見慣れぬ物で囲まれ、ライジーは警戒レベルを最大にした。
(……何だコイツ……それに、なんだってこんな所に──)
ライジーはぎろりと睨みながら、起き上がろうとした。──が、思うように体に力が入らない。
「あ、あの、起き上がっても大丈夫?」
痛みに顔をしかめて再び倒れ込んだライジーに、彼女は心配そうに声をかけてきた。
「勝手とは思ったのですが、簡単に手当てをさせてもらいましたよ。あちこち傷だらけなうえに、特に胸の焼けたような傷は特にひどくて……。まだ横になっていた方がいいと思いますよ」
ライジーの寝ているベッドの傍の椅子に腰かけながら、彼女は説明する。そこで初めて、ライジーは自分の体が包帯だらけになっていることに気付いた。
彼女の言うことが本当なら、人間が魔族を助けたということになる。その事実が、余計にライジーに不信感を募らせた。
(なんでニンゲンが魔族を助けるんだ?)
魔族にとって、人間は玩具か餌のようなものだ。中には魔族に匹敵するほど強い魔力を持った人間もいるらしいが、一般的に弱いその生き物は魔族に嬲られる存在だった。
だから、魔族を前にした人間は恐ろしさで震えあがり、逃げ出すのが当然の行動だ。
それなのに、この人間はどうだろう。逃げ出すどころか、傷の手当てを施し、平然と話しかけてくる。
彼女は色々喋りかけてくるが、ライジーの頭に全く入ってこない。
(……もしかして、オレを嵌めようとしているのか?)
あのガーゴイルたちがそうしたように。
きっと、そうだ。相手を油断させたところで、喉元にがぶりと噛みついてくるのだ。
(そうはさせるかよ)
──もう騙されない。誰にも頼らない。
ライジーはまさに一匹狼だった。
「……なんで、オレを助けた?」
ライジーがそう訊ねると、彼女は驚いた様子だった。相手の本性を暴いてやろうという狙いで問うたのだが、やはりライジーの考えは正しかったようだ。この反応を見るに、魔族を助けたのには裏があるに違いなかった。
もっと強い魔力を持つ魔族相手なら、今のような状況にはならなかっただろう。助けるどころか、近付くことさえ躊躇っただろう。
それなのに自分がこうして手当てまでされているのは、並みの魔族ではないから。
(やっぱり、オレが半獣だからか……?)
半分人間の血が混じった存在だから、恐れるに足りないとなめられているのだ。
そんな考えに至ると、低能だと侮ってくる魔族どもも、獣人の悲しき運命に抗おうとしない父親も、善人ぶったこの人間も──この世の全てに対して、腹の底から怒りと憎しみが湧いてくる。
それにしても反応が遅い。人間とは皆こんなにのろまなのかと、ライジーはイライラして答えを急かした。
「答えろ。なんでニンゲンが、獣人を助けたのかって聞いてんだよ」
「あっ、ああ、ごめんなさいね。でもどうして、って言われましても……」
彼女が答えに困ったようにそう呟くと、ライジーは小さく息を吐いた。
(……答える気がないなら、もういい。それよりも、)
何かされる前に、この空間から脱出しなければいけない。体は思うように動かせないが、逃げるくらいならできるだろう。そう考えながら、ライジーは目をキョロキョロと動かして辺りを探った。
そんなライジーを見た彼女がキュッと眉をひそめると、言った。
「他人を助けるのに理由が要りますか?」
彼女の視線がまっすぐライジーの瞳を貫く。彼女の瞳は必死さと切なさを含んでいて、まるで魔力が込められているのかと思うほどの熱りようだった。
(なんで……なんでそんな目をしてるんだよ)
初めて見た瞳だった。
彼女を見ていると、なぜだか分からないが、冷酷無情な魔界を生き抜くために凝り固まったライジーの中の何かが解けていくようだった。
ライジーは何だか胸が苦しくなってきた。その苦しさから逃れたくて、しばしの沈黙の後、ライジーは無意識に口を開いていた。
「──水」
「……はい?」
思いもしない言葉に、彼女はポカンと口を開けている。その反応を見たライジーは、照れ隠しに怒鳴った。
「喉が渇いたってんだよ!」
「は、はいっ!」
彼女が慌てて椅子から飛び上がり、近くの台に置いてあった容れ物を手に取ると、ライジーの口元に差し出してきた。
(なんだこれ……この中の水を飲めばいいのか?)
獣人は水を飲む時はコップなんかの容器は使わない。だから一瞬戸惑ったものの、勧められるままにコップに口を付けると、彼女はコップをわずかに傾けてくれた。ライジーの喉に水が通っていく。
(……うまい)
ガーゴイルたちに散々いたぶられた後だからかもしれないが、ライジーはこの世で一番美味しい水だと思った。そして、この水がライジーの中に溜まった怒りや憎しみを全て洗い流してくれたような気にもなった。
(──不思議な水だ)
ライジーはそう思ったが、別に特別な水なわけではない。彼女が飲ませてくれたから、であることにライジーはこの時点ではまだ気付いていない。
こうしてコップの中の水をすべて飲み尽くす頃、ライジーはハッとした。
(そーいや……水にへんなもん、入れてねーだろうな!?)
魔界では敵から何か施しをある時は、必ずといっていいほど裏があった。もしかしたらこの水の中にも、毒物か何かを仕込んでいたかもしれない。
これまでの教訓があったにも関わらず、何故か素直に飲んでしまったことにライジーは愕然とした。が、すぐに思い直した。
(……いや。コイツはそんなことしない気がする……)
根拠はない。ただの直感だ。出会ったばかりだが、彼女の先ほどの瞳を見て、ライジーはそう思ったのだった。




