7 前触れなき厄災
飼い犬というのも悪くない。
テオは常々、そう思っていた。
誰かに狙われることもない安全な家の中でぐっすり眠れるし、待っていれば勝手に飯が出てくる。そして満腹になった後は、暖かな場所を見つけてまどろむのだ。
まあその代償として、少々ぼんやりとしていて危なっかしい主人の面倒を見てやらないといけないが。
でも、その主人が作る飯は中々に美味であるし、ブラッシングも中々気持ちがいいものだ。
何より、彼女が読んでくれる本を聞いていると、破壊と混乱の世界に生きてきたこれまでの人生が無くなったかのように、心が安らいでいく。
自らの人生の幕が閉じるまで、こんな気ままで平穏な暮らしをしていたい。
それがテオの唯一の望みであり、実際に現実のものとなっていた。
──獣人の小僧が、彼奴を連れて現れるまでは。
◇◇◇
「──おしまい」
テオの主人、ソフィアリリー・マクネアスは最後の一文を読み終わると、持っていた本をぱたんと閉じた。
そしてベッドの傍の床頭台に本を置くと、床に伏せていたテオの頭を優しく撫でる。
テオに本の読み聞かせをした後はこうやって頭を撫でるのが、ソフィアの就寝前の習慣だった。
「さ、寝ましょうか」
そう言うと、ソフィアはテオに微笑んだ。
暗闇を生きてきたテオにとって、彼女の微笑みはとても眩しく、聖女か、はたまた女神にさえ見える。
「今日はたくさんお客様が来てくれたから疲れたね? テオ、ありがとうね。子どもたちの相手をしてくれてたでしょ」
テオはフンスと鼻を鳴らした。別に自ら進んではなく、仕方なくやったまでだ──と言わんばかりに。
あんな赤ん坊の相手、疲れるに決まっていた。だから子守りは遠慮願いたかったが、ソフィア一人に任せるのも大変だろうと思ってのことだった。
その時、ソフィアがふと顔をしかめると、首を左右に動かしたり、腕をぐるぐると回しながら呟いた。
「いたたた。……うーん、今日はずっと書いていたから肩が凝っちゃったみたい……。おかげで切りのいいところまで物語を書き終えることはできたけど」
ソフィアは獣人の青年、ライジーに勧められて、ある物語を書いていた。
その物語がどんな内容なのか読んでいないから詳しくは知らないが、テオには何となく想像はついていた。ソフィアとライジーの物語だ。
明後日に実家に帰る予定なので、今日中に書き上げたかったのだろう。ソフィアは寝る時間になるまでずっと机に向かっていたのだった。
「けど、これで明日は思いっきりライジーと遊べるもの。ふふ、明日こそ見せてくれるかな?」
浮かれ調子のソフィアにそう問われたが、テオは知らんとばかりに寝そべった。
ソフィアが訊ねたのは、本当だったら今日のピクニックでライジーが見せてくれるはずだったもののことだ。
だが、ライジーが何を考えているなんてテオの知ったことではない。そんなことを考えている時間があったら早く寝ろと言っているかのように、テオはじとっとソフィアを見た。
「ふふふ、そうよね。ただでさえ寝不足だもの。……じゃあ灯りを消すわね」
ソフィアが立ち上がり、ランタンの灯を消そうと手を伸ばした瞬間だった。
「──ソフィア!!」
聞き覚えのない声と同時に、鼓膜をつんざくような爆音で家が大きく揺れる。
「きゃあっ!?」
ソフィアは反射的に手で頭を覆って、身を屈めた。
今の振動でソフィアの足元にランタンが落ち、ガラスの破片が床に散らばっていた。
「な、なに!?」
そろそろと頭を上げると、いまだ部屋中が小刻みに揺れているのが分かる。
その時、ソフィアは裾を引っ張られるのを感じて振り返った。
テオだ。穏やかな老犬には似つかわしくないほどの力で、ソフィアの寝巻きを咥え、ドアの方向に向かってグイグイと引っ張っている。
何が起こったのか分からないが、これだけは分かる。──逃げなければ。
ソフィアはテオと共に、がむしゃらに走った。
廊下に飛び出し、居間に出れば、玄関はすぐ先だ。
が、居間を横切ろうとした時、思わず足が止まってしまった。
ソフィアが居間で見たものは──屋根にぽっかりと空いた大きな大きな穴、そしてその向こうの夜空に浮かぶ満月だった。
崩れ落ちた屋根の大まかな部分は居間の床に落ち、細かいものはキッチンの方まで飛び散っていた。
そして、ご飯を食べる時やライジーに読み書きを教える時に使ったテーブルも、ライジーと横に並んで本を読んだソファも、部屋の調度品は炎に包まれ、あちこちに炎が上がっていた。中でも一段とよく燃え上がっていたのは本棚の本だった。
テオやライジーと過ごした穏やかな空間は全くの別物に変わり果てていて、ソフィアは怒りや悲しみというよりも、ただただ呆然となった。
「どう、して……?」
だが、考えるのは後だ。今は立ち尽くしている場合ではない。すぐに我に返ると、玄関目指して駆けだした。
あと数歩で玄関、というところだった。突然、上からガラガラと大きな音がしたと思いきや、ソフィアめがけて屋根が崩れ落ちてくる。
避けられない──。
ソフィアがそう悟った瞬間、体当たりしてきたテオに突き飛ばされ、玄関の前に倒れ込んだ。
顔を上げて、ソフィアの顔から血の気が引いた。
つい今しがたまで自分の立っていた場所に、崩れ落ちてきた屋根が転がっている。
その隙間に見えたのは──白い毛の犬の足。
ソフィアは狂ったようにテオの名を泣き叫んだ。
燃え上がる屋根をどかそうと駆け寄ったが、熱くて触れることさえかなわない。
ならば外から水を汲んでこよう、とソフィアは思い付いた。まずは火を消してからテオを助け出すのだ。
そうと決まれば、外に出なければ。そう思ってソフィアが玄関の扉を押したが、びくともしない。
扉を力いっぱい叩いても、体当たりしても、扉が開く気配はない。まるで外から閉じ込められているかのように。
舞い上がる炎で空気が薄くなっている中を必死に動いていたせいか、体に力が入らない。
ソフィアはとうとう立っていることもできなくなって、扉の前に倒れ込んでしまった。
背後に炎が迫る中、ソフィアの意識は段々と薄れていく。
その中で、瞼の裏側に浮かぶのは彼の姿だった。
「……ラィ、ジ…………」




