6-7 何でもない日々
最後の一文を読み上げると、本を閉じた。
そして顔を上げると、子どもたちが皆、寝ていることに気付いた。途中から静かだったから、その時からだろう。
「ふふ、やっぱり睡魔には勝てないよね」
本をライジーに託して立ち上がると、毛布を持ってきてぐっすりと眠る子どもたちに掛けてあげた。
それからテーブルに着き、しばらくの間、子どもたちが寝息を立てるのを微笑ましく見守る。
その間、ライジーは今読んだばかりの英雄の絵本を読み直しているようだった。最後まで読み終えたところを見計らって、声を掛けた。
「ライジーもお茶のお代わり、いる?」
「……ああ」
私の声で我に返った様子で、ライジーが本から顔を上げた。すっかり物語の世界に没頭していたようだ。
本を片手にライジーがテーブルに着くと、私は淹れたばかりのカップを彼の前に置きながら尋ねた。
「どうだった? “英雄”シリーズの二作目は」
「なんていうか……不思議な話だ。一作目のもそうだったけど、よくあるような幸せな結末じゃねーのに、惹きつけられるというか……何度も読みたくなる」
ライジーの呟くようにして言った感想に、私も大いに賛同した。ライジーも自分と同じ感想を持っていて、何だか嬉しくなる。
ここで、私はライジーに尋ねた。以前からこの物語を読んだら是非聞いてみたい、と思っていたことだ。
「ねえ、ライジー。この物語に出てきた魔獣が言っていた言葉って本当なのかな?」
「ん?」
「“我々を憎み、恨み、恐れる心……今のおまえにはそれが無いからだ”って。もし人間が魔獣に敵対心を抱くことがなくなれば、魔獣も人間を襲わなくなるのかしら?」
「……わかんね。けど……そんな気もする。俺はそうだったし」
そこで、ライジーはちらっと私の方を見た。私と出会った時のことを言ってくれているのだと分かって、私は何だかうれしくなる。
ライジーと出会った日のことを思い返してみる。私は生まれて初めて出会った獣人のライジーに対して、はじめは恐れを抱いていた。その時は確かに、ライジーの方も私のことを警戒する様子だった。
けれど、私が彼のことを知るうちに、そしてもっと知りたいと思ううちに、恐れはいつの間にか消え、そして、ライジーも私に対して警戒を顕わにすることもなくなっていた。
私たちのケースはたったひとつの例に過ぎないけれど、この本で言っていることは本当なのかもしれない。
この“英雄”シリーズの作者は、この事実を知っていて書いたのだろうか。いつかこの作者に会うことがあるとしたら、是非それを聞いてみたい。
そしてその瞬間、私はあることに気付いてハッとした。そんな私を見て、ライジーが尋ねた。
「どうしたんだ?」
「……この物語。ずっと前から知っていたのに、どうして気付かなかったんだろう」
「??」
眉をひそめるライジーの反応は当然で、私はうわつく気持ちを抑えて一生懸命説明した。
「実はね、私、ライジーと出会ってから考えていることがあって。魔族と人間が共存できるような方法はないのかな、って」
「魔族と人間が……?」
ライジーが目をぱちくりとさせている。呆れられても仕方ない。夢見がちな子どもみたいなことを言っているのだから。
「ごめん、変だよね。引きこもりの取るに足らない妄想だと思って聞き流してくれたらいいんだけれど……でもね、そのヒントが、この物語の中にあるんじゃないかって。人間が魔族を受け入れれば、魔族も人間を受け入れてくれるんじゃないのかな。ライジーと私がそうだったように」
熱を込めて言い切った後、少し後悔した。こんな夢物語に熱弁を振るうなんて、本当に妄想だと笑われてもおかしくない。
顔を真っ赤にさせながらしおしおと縮こまっていると、突然、ライジーが小さく笑った。
けれど、それは嘲笑の類いではなくて、からっと晴れ渡った空のように爽やかな笑い方だった。
「おまえらしいな」
「そう……かな」
私は本当に単純だ。自分で自分の発言を恥じていたばかりなのに、ライジーにそう言ってくれただけで、こんな大それた考えを抱いても良かったんだと、もしかするとその可能性がわずかでもあるのではないかと、思えてくる。
私のひそかな野望を叶えるためには、具体的に何をすればいいのか全く思いつかない。
けれど少しは前進した気がして、無性にライジーにお礼を言いたくなった。
「ライジー、ありがとう」
「……何がだ?」
「ライジーがいてくれるだけで、私は最強になれるの」
「なんだそれ」
半分呆れたような、半分照れくさそうな顔のライジーを見て、私はクスクスと笑う。ライジーの言う事も、もっともだ。
「さて──と、子どもたちはまだまだ起きなさそうね」
ふと、子どもたちの寝姿が目に入る。見慣れない場所に来て疲れたのだろう、すーすーと寝息を立てて気持ちよさそうに寝ている。
ライジーももう少し寝かせてあげようと思ったのか、立ち上がると私に尋ねた。
「……新しい本、あるか?」
「あるよ。一番上の段の左端の三冊ね」
そう言って、私は本棚を指さした。確か先日の定期便で届けてもらったその三冊は、まだライジーは読んでいなかったはずだ。
ライジーと一緒に本を読むのも楽しいけれど、ふと他にしないといけないことを思い出す。レターケースの中から筆記帳と万年筆をささっと取り出してくると、私はテーブルに着いた。
本当は一人の時がいいのだけれど、明後日に実家に戻らないといけないので、それまでに済ませておきたかったのだ。何しろ、早く書き留めておかないと忘れてしまうから。
幸いなことに、ライジーは本を読みだすとそれに没頭するタイプだ。私が何をしていても、きっと気にすることはないだろう。
……と思ったのだけれど、私の読みが甘かったみたいだ。筆記帳を開いてしばらくすると、ライジーが本棚の方から横目で尋ねてきた。
「……何してんだ?」
「……えっとね。物語を書いているのよ」
「──それって……」
ライジーがそう呟くと、急にハッとして、物凄いスピードで私の横にやって来た。
「前、書いてみるって言ってたヤツか!? もう完成したのか!?」
「う、うん。でも、まだ未完成よ」
あれはライジーと出会ったばかりの頃のことだ。その時に彼に勧められて以来、私はある物語を書いていた。
そういえばライジーにはこのことをまだ言っていなかったことに、今さらになって気付く。
さらに言うと、これを誰かに──特にライジーには絶対に見せられない、ということに。
「な、少し読んでもいいか!?」
ライジーがそわそわしながら、筆記帳を凝視している。
こうなることは簡単に想像できたはずなのに。あぁ、ライジーの前で書き始めるなんて、本当に軽率だった。
けれど、ここは譲れない。
「…………ごめんね?」
おずおずとそう謝ると、ライジーの耳がしゅんとなる。心が痛い。
ライジーが読むのを楽しみにしてくれていたことをすっかり失念して、誰にも見せられない物語を徒然と書き続けていた私は本当に愚かだ。
この物語を始めた当初はいつかライジーに読んでもらおうと思っていたのに。書き進めるうちにとても見せられる内容ではなくなってしまったというのに。
それならば、新しい物語を書こう。それこそ、ライジーに読んでもらうのだ。
そう心に決めたところで、万年筆を置いてライジーの方に向き直った。
「私の物語をずっと待ってくれていたんだよね? ありがとう。完成したら必ず見せるから。ライジーが読んでくれるから、私、頑張って書くね」
「……わかった」
頷いてくれたライジーを見たら、俄然やる気が出てきた。
所詮、今書いている物語は私自身のために書いているに過ぎない。サクッと書き終えて、新しい物語の構想を練ろう。明後日の実家に戻る日は領都までの長い移動時間があるから、物思いにふけるには良い機会だ。
それからはライジーが読書の方に集中してくれたので、私も物語の執筆に取り掛かることができた。
どれくらい集中していたのだろう。ずっと手を動かしていたから痛くなってきたので、一度万年筆を置いて、背伸びをした。
ライジーも同じタイミングで背伸びをしている。そんなライジーと目が合って、私たちは思わず吹き出してしまう。
そして傍には、スヤスヤと眠る可愛い子どもたちに、大きなあくびをしてまどろむテオ。
好きな人たちと過ごせる何でもない日々は、何物にも代えがたい。
こんな日々がずっと続けばいいのに。私はそれだけを願っている。




