1-3 本
「お代わり、要りますか?」
コップの水を飲み切った彼にそう訊ねると、彼は首を横に振った。視線は再び部屋の中をさまよっている。
でも警戒しているというよりは、興味津々といった様子だ。知らない家に突然連れて来られた子犬みたいでとても愛らしかったが、ようやく解き始めてくれた警戒心が復活しては困るので、口が裂けても本人には言えない。
「……珍しいですか?」
「見たことないものばっかりだ」
「そう、なんですか」
改めて、私は彼らのことをほとんど知らないに等しい、ということに気付いた。
彼らがどんな文化を持ち、どのような生活様式で暮らしているのか……。本にもほとんど記録のない獣人が目の前にいて、質問攻めにしたくてウズウズしたけれど、相手はけが人なので自重した。
その時、彼の耳がピクッと動いて、警戒態勢に入った。牙を出して、部屋の入口の方を睨んでいる。
ギギギと扉が開くと、入ってきたのはテオだった。とすとすと私の方にやってくると、口に咥えていた籠を床に置く。籠の中には、一冊の本が入っている。
「ああ、もうそんな時間だったの。ごめんね、テオ」
獣人の彼の視線を感じて、私は説明した。
「あっ、ごめんなさい。この子はテオです。もうおじいちゃん犬なんですが、お昼寝の前に私に本を読んでもらうのが習慣になってて」
説明していて、私が恥ずかしくなってしまった。犬に読み聞かせ?……と思われても仕方ない。寝る前のテオに本の読み聞かせをする習慣は、私がまだ四歳の頃、飼い始めたテオにお節介を焼きたくて、ついてしまったものだった。
笑われるかと思ったけれど、意外にも彼はまじめな顔で訊ねた。
「ほん、って何だ?」
「……え?」
──そうか。
私は一つの事実に行き着いた。彼の世界に、『本』というものは無いのだ。自分にとって当たり前のことでも、相手にとってもそうとは限らないものだ。
「ええと、紙をまとめて束にしたものに、こうやって文字や絵などでいろんなことを書いたものですよ。書物ともいいますね。これは子ども向けの本なので、絵がメインとなってますが」
テオの持ってきた本をぱらぱらとめくりながら説明すると、彼は食いついてきた。
「……どんなことが書いてあるんだ?」
「物語です。この本を書いた人が想像して作ったお話ですよ」
「……ふーん……」
口ぶりはそっけない風だったけれど、その顔には『もっと知りたい』と書いてあるようだった。私は遠慮がちに訊ねた。
「あの、今からこの子に読み聞かせしてもいいですか? ご迷惑じゃなければ、あの、ご一緒に……」
「いいのか!?」
パッと顔を明るくした彼が可愛すぎて、思わず頭を撫で回したくなったけれど、必死に抑えた。欲望に打ち勝った自分を、褒めてあげたい。
「では、読みますよ……」
そう言って、絵本の表紙を見て、思わずアッと叫びそうになる。
「あの、テオ……やっぱり他の本にしない?」
おずおずとそう提案したが、テオはすでに私の足元でスタンバイしていて、動く気配はない。提案は却下のようだ。
テオは駄目でも、次は獣人の彼に訴えることにした。
「あの……すみません。違う本に替えてもいいですか……?」
「? なんでだ?」
「その、内容的にちょっと……気分を害されるかもしれないので……」
そう。よりにもよってテオが持ってきたこの本は、魔獣を退治する英雄の物語だった。
魔族側に属する彼の前で読むには気が引ける内容だ。でも、彼は何でもないという顔で、この本を指して促した。
「別に何でもいい。それでいいから早くしろよ」
「そうですか……」
そう言われてしまっては致し方ない。なるようになれ、と半ば投げやりに、私は本の表紙を開いた。