4-7 “海から来たポワラ”
その時、ライジーに貸した数冊の本が足元にあるのが目の端に映る。
「そういえば、さっき何の本持って行ったの?」
そう言って、私は本を手に取り、表紙を次々と見ていく。星相学の本、魔法の本、大人向け小説──どれも、難しい内容のものばかりだ。
「すごい。難しい本ばっかり!」
「たまに分からない言葉が出てくるけどな」
私が読んだ時もそれに苦労した覚えがある。専門書となると専門用語が出てくるのでそれも当然だ。
分からない言葉が出てきても前後の文脈から推測できることがあるけれど、それでもこんなに短時間で最後まで読み進めることのできるライジーはかなり聡明だ。
「どれくらい読み進めたの?」
「星と魔法の本は全部読んだ。あとはその物語が、あと半分くらい残ってる」
そう言って、ライジーは私が持っている本を指した。「海から来たポワラ」というタイトルの小説だ。葉っぱが一枚本に挟んであるのは、栞代わりとして使っているからのようだ。
「リリー、久しぶりに本、読んでくれよ。その途中からでいいからさ」
「うん、いいよ」
ライジーの申し入れを快諾した。私も誰かに本を読んであげるのは好きだ。その時間は時がゆったりと優しく流れて、誰かと本の世界を分かち合えるからだ。
さらに言うと、私がこの小説を読んだのはもう何年も前だったので、新鮮感がある。確か話の大筋は、魔法で人間の少女に姿を変えられた魚が様々な感情を手に入れ幸せになっていく、といった感じだったと思うのだけれど、詳しいところはもう忘れていた。
初めて読む本の時のようにワクワクしながら、葉っぱの栞を挟んである頁を開き、私は続きを読み始めた──。
──ポワラがヴィスタンに「近付きたい」と願ったのは、これで何度目だろう。
初めて願ったのは、まだ人間になる前。置き網にかかってしまったポワラを、ヴィスタンが「綺麗な鱗だな」と言って海に返してくれた時。
それから女神様に姿を変えてもらい、この気持ちはますます強くなった。
今は人間になったとはいえ、元は魚だったポワラだ。普通なら「人間から逃げなければ」と思うところであるのに、どうしてか、「近付きたい」気持ちはますます強くなっている。
──「どうした? ポワラ」
優しく問いかけるその声に、ポワラはドキッとする。
ヴィスタンが自分を見て、自分の名を呼んでいる。それだけでこんなにも心が躍る。
「ううん、何でもないよ」
本当は、何でもないなんて嘘だった。あの少年に意地悪なことを言われて辛くなったから、ヴィスタンがいるこの海辺に来たのだ。
不思議だなと思う。ヴィスタンのそばにいるだけで心の臓が張り裂けそうなほど跳ねて仕方ないのに、それと同時に、ここが自分の本来いるべき場所とでもいうかのように心が安まるのだ。これでは正反対の気持ちが同居している。
今こうして隣に座っていると、自分とは違う匂いが鼻をくすぐる。ヴィスタンの匂いが好きだ。ポワラにはとても落ち着く匂いなのだ。
何も喋らず、ただヴィスタンの心地良さを味わっていると、突然ヴィスタンが口を開いた。
「そういえば、明日はいないぞ。用事があるから」
一日でも会えない日があるのは嫌だ。ポワラは辛く苦しい思いになる。
それにしても、荒天でない限り毎日欠かさず海に出ているヴィスタンが珍しい。
「用事って?」
ポワラが訊ねると、ヴィスタンがポワラから目を逸らして答えた。
「……ああ、少しな」
口ごもるヴィスタンを見て、ポワラはピンときた。
──ヴィスタンはきっと、あの女性に会うのだ。
おばさんがこの前、新聞に載っていた姿絵を見ながらこんなことを呟いていた。ヴィスタンがようやく嫁をもらう気になったらしい、と。
あの姿絵の人は、とても綺麗な女性だった。
ポワラはその女性のことを何一つ知らない。だが、何故か彼女に対して、どろどろと黒く濁った感情が腹の底から湧きおこる。
ヴィスタンが彼女と楽し気に話したり、笑いかけたり、落ち込んでいる時は頭を撫でてあげたり。ポワラがヴィスタンにしてもらっていたことを、今度は彼女がしてもらうのを考えるだけで、頭におかしくなりそうだった。
──その時、頭の中で何かが弾けた。熟れすぎた実が突然パンと弾けるかのように。
啓示だ。これまでのように、ポワラが獲得した感情に名を与える女神のお告げ。
──次の瞬間、ポワラは理解していた。この感情の何たるかを。
私はそこでバンと勢いよく本を閉じた。
話の区切りではなく、いきなりのことだったので、私の語りに耳を傾けていたライジーが少々びっくりしているのが気配で分かる。
ライジーには申し訳ない。
けれど、もう少しだけ、待ってほしい。今、私の顔は真っ赤になっているはずだから。




