4-6 ライジーの甘やかし
そうしている間に、私たちは森の中に入っていた。鬱蒼とした森の中はひんやりとして涼しい。
こんなに森の奥に入り込んだのは、傷を負ったライジーを見つけた日以来だ。テオがいなかったら、その先にライジーがいなかったら、絶対に近付かない場所だ。
何故なら、森の奥の向こうに魔族の世界が広がっていると言われているから。
一応、私たち人間社会では入ってはいけないと決められている魔族の世界に近付いて、後ろめたさが生まれる。
けれど、ここにライジーがいるというのだから、少しだけ許してほしい。魔族の領土には決して、一歩だって足を踏み入れないから。
しばらくテオについていくと、もう方向感覚もわからなくなっていた。というのも、まっすぐ進むのではなく、時折方向転換するからだった。テオは私が歩きやすい道を選んでくれているからだろう。
ただ導かれるままについていくと、やがて小さな川が現れた。
「へえ……こんなところに川があるなんて知らなかった」
私が普段生活用水として使っている川とは違う。昔、この辺りの地図を確認させてもらった時、私がいつも使っている川は森の中を通っていなかったから。
この川の水はとても透き通っていて、水質が良さそうだ。飲めるかは分からないけれど。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか掘っ立て小屋に着いていた。いつからあるのだろう。ぼろぼろで、今にも崩れてしまいそうな、古ぼけた小屋だった。
「……小屋?」
どうして魔族と人間の領地の境目にこんな小屋が立っているのだろう──。
小屋を見上げてそう考えた時、屋根の上によく見知った顔がひょっこり現れる。
「リリー! 来てくれたのか」
ライジーのいつもの笑顔を見て、私はホッとした。慣れない所に来て張り詰めていた緊張がほぐれていくのが分かる。
「ライジー! ごめんね、待たせてしまって」
「別にいーよ。さっき借りてった本、読んでたし」
そう言って、ライジーは本をひらひらと持ち上げて見せた。
そういえば、先ほどライジーが家を出て行く際、「借りてくぞ」と本を何冊か持って行っていたのを思い出す。ライジーは本当に勤勉だ。
「でも、どうして屋根の上で? それよりも、こんなところに小屋なんてあったのね……」
「ひと月くらい前にたまたま見つけたんだ。長いこと使われてなさそうだったし、たまに使わせてもらってんだよ」
ライジーが身軽に屋根から飛び降りると、正面の扉をギシギシと音を立てながら開いた。扉から光が入り、中の様子があらわになる。
「わあ……」
まず目に入ったのが、小さなテーブルと椅子だ。余った材木で作りましたと言わんばかりにいびつな形をしている。
その隣には、ベッドと思しき台がある。その片隅に毛布らしきぼろ布が見えるので、やはり寝台のようだ。
テーブルと寝台があるだけで部屋がいっぱいになるほどの狭さだ。けれど、その狭さが逆に居心地の良さを感じさせなくはない。木で作られた壁や床は若干朽ちている箇所もあるけれど、使えないほどではない。
何だろう。この小屋を一目見た瞬間から感じていた、心が躍るこの感じ。
──そうだ。まさに、これは。
「秘密基地みたい……!」
ワクワクの原因は、まだ幼い時分に遡る。
昔、兄が悪友と実家近くの森に秘密基地なるものを作って、ひそかに通っていた。私も連れて行ってとせがんだけれど混ぜてもらえなかったのを、覚えている。もちろんいまだ、根に持っているのだ。
私がキラキラとした目で小屋のあちこちを見ていた為だろうか、ライジーが吹き出したのに気付いて、はっと我に返る。あまりに貴族の娘らしからぬ行動だったか。
けれど、ライジーはそんな私をからかうこともなく、耳をパタパタとさせながら言った。
「リリーなら気に入るだろうと思って、早く教えたかったんだ。だからここで待ってた」
そんなことを言われたら……そんなことを言われたら。
緩みそうになる顔を必死に抑え込んでいるものだから、たぶん変な顔になっている。
有難いことに、ライジーは私を気にすることなく、話を続けた。
「……で、ほら。中は暗いだろ? だから屋根の上で読んでたんだ」
なるほど。扉を開けていてもかろうじて中の様子が分かる程度だ。確かに、本を読むには暗すぎる。
「屋根の上にはどうやって上るの? 梯子とかあるのかな」
私が小屋の周りをきょろきょろと見ていると、ライジーが尋ねた。
「……もしかして屋根に上がりたいのか?」
「……うん」
今さら猫かぶりしても意味がないので、正直に答える。といっても、小屋の上から見る景色はどんなものかという、ただの興味本位からの好奇心だけなのだけれど。
すると突然、ライジーが近付いてきたかと思いきや、私の腰を抱えると抱き上げた。
「えっ、ライジー!?」
ギョッとしてライジーの顔を覗くと、ライジーは平然とした顔で言った。
「屋根に上がりたいんだろ? 俺が運んでやるよ」
「いや、でも、重いでしょ!?」
「重いもんか」
何故かむすっとした顔でライジーが言うと、次の瞬間、彼の脚にグッと力が入るのが分かった。
「掴まってろよ」
返事をする前に、私たちは宙に浮いていた。そして、すとんと屋根の着地する。
「な。別に何てことないだろ」
私を腕から降ろしながら、ライジーが言う。
何てことないわけがない。人間だったら、人ひとり抱えて、こんなにも軽々と屋根の上に飛び上がれるわけがない。本当に、獣人の身体能力には驚かされる。
……けれども。
ライジーに少しでも重いとか思われなかっただろうか。先ほど去り際にエレンに言われた言葉が頭をよぎる。
「……こんなことなら、もう少し食べ控えしとけばよかった……」
「リリー? 見てみろよ」
一人頭を抱えて唸っているとそう声が掛かったので、私は顔を上げて、ライジーの指さす方を見た。
木々の天辺を越えた向こうに、丘陵が見える。その中にぽつんと立つ小さな家を見つけて、私はあっと叫ぶ。
「私の家だ!」
我が家の傍にある畑も、毎年摘みに行く木苺の群生地も、ここからは一目瞭然だった。いつもそれらのどこかに私が居ると思うと、自分の行動範囲がとても狭いことに改めて気付く。
やはり私は引きこもりなんだなあ……としみじみ考えていると、横から宝物を目の前にしているかのように上ずった声で呟く声がした。
「だから、この屋根の上が気に入ってんだ。ここならいつでもリリーの姿が見えるから。もちろん本を読めるからってのもあるけど……ここに来たらおまえを見て、どんな時でも元気になれるから」
「……っそれはっ……」
言いかけたけれど、それ以上言葉が出て来ない。どうしてライジーは、そのようなことをストレートに言えるのだろう。言われた方がこんなに恥ずかしくなるなんて。
一気に火照りあがった顔を隠すために身をよじろうとした時、屋根にびっしりと生えている苔で足を滑らせた。
「わわ……っ」
咄嗟にライジーが私の体を支えてくれたから、屋根から転落せずに済んだ。
「あ、ありがとう……」
ライジーの発言と足を滑らせたことに一人動転している私をよそに、ライジーは至って冷静だ。
「座るか?」
「……その方がいいみたい」
ライジーみたいに堂々と立って景色を眺めていたいけれど、運動神経にさして自信のない私は無理をしない方がいいだろう。情けないけれど。
その場に私が腰を下ろすのを手伝ってくれると、ライジーもその横に座った。
座ると、ゆっくりと深呼吸をした。まずは落ち着かなければ。
そして、考える。ライジーの私に対する態度って、こんなに甘かっただろうか?
もちろん、出会った当初からライジーは素直で、親切で、思いやりの心で接してくれた。
けれどいつの頃からか、時折、友人にしては過度な甘さで私を扱うようになっていた。いや、私だけが勝手に友人と思っていて、向こうは別に友人とも何とも思っていないかもしれないけれど。
でも友人だとしてもそうでなくても、ライジーの私に対する甘やかしはその範疇を超えているように思う。どちらかというと両親やお兄様が私を甘やかす感じに似ているけれど、やっぱり違う。
ライジーの甘やかしはほのかに苦しくて、切なくて、下手に触れたらバラバラになってしまうのではと感じるほどの熱量がある。
一番おかしいのは、私がそれに嫌悪感や抵抗感などを全く感じていない、むしろうれしい、とまで感じていることだ。
これまでに経験したことのない問題に、どう対処したらいいか分からない。やはり引きこもってばかりいたから、皆がすんなりと解決していくことも、私には難しいのかもしれない。
お母様かエレン辺りに、今度機会があったら相談したい気に駆られたけれど、やっぱり思い直した。辺境地に引きこもっている私に友人などできるはずがないし、そもそも獣人の友人がいるだなんて言えるわけがない。
「はあ……」
「ん? 腹でも痛いのか? あ、それともさっき滑ったときに足を挫いたか?」
私が思わずため息を吐くと、隣からライジーが心配そうな顔で私の顔を覗き込んできた。
「あ、ううん。何でもないよ」
慌てて首を左右に振る。私の些細な悩み事でライジーを心配させるわけにはいかない。




