2-6 オレだけの名前だ
テーブルの上を片付けると、ライジーの隣に椅子を持ってきて、私も座った。
暖かい日差しの昼下がり、テオは後ろの床の上でまどろんでいる。もうおじいさんなので、眠る時間も多い。
「この前はライジーの名前を書く練習したよね。今日は、そうね……」
今日の課題は何にしようと考えていると、ライジーが口を開く。
「……オレ、おまえの名前も書けるようになりたい」
それを聞いて、目をぱちくりとした。何だか照れるけれど、素直に、嬉しい。
「……うん。覚えてね、私の名前」
万年筆を持つと、紙に『ソフィア』と書く。それをライジーに見せると、「あ」とつぶやいた。
「どうかした?」
「この文字、さっき見たぞ」
そう言うと、ライジーが立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出し、持ってきた。
「ほらな。形が一緒だろ」
ライジーは本の表紙の、とある文字を指さした。確かに著者名が『ソフィア・タラント』となっている。
「すごい、ライジー。よく見ているのね」
私が感心していると、ライジーが本をまじまじと見ながら呟いた。
「おまえがこの本書いたのか……」
「……ふふっ」
「何だよ」
「違うのよ。確かにこれは『ソフィア』という人が書いた本だけれど、私じゃないわ。別の『ソフィア』さんが書いたものよ。それに私の本当の名は『ソフィアリリー・マクネアス』だから」
「ソフィアリリー……」
「ごめんね、別に隠すつもりじゃなかったの。ただ、家族とか実家の使用人とか、身近な人達からは『ソフィア』と呼ばれていたから……」
ソフィアリリーと呼ばれると、社交界に居た頃を思い出すようで、逆に緊張してしまう。
ちらっとライジーを見ると、私が本当の名を明かさなかったことに怒るどころか、興味がなさそうだった。
「別に何だっていい。呼び名が何だろうが、おまえはおまえだ」
「……うん」
そう言ってくれる予感はあったので、その言葉にホッとした。ライジーと出会ってから、私はいつも彼から貰ってばかりだ。その温かい心に、私も何か返してあげたい。
「……そっか。だったら別にソフィアじゃなくてもいいのか」
突然、ライジーがぼそっと呟いたので聞き返す。
「え?」
「ソフィアって呼ばれてるんだったら、別にリリーって呼んでもいいよな?」
その問いに、思わずきょとんとなる。その発想はなかった。
「別に構わないけれど……どうして?」
「他のヤツが呼んだことがない、オレだけの名前だ」
ライジーはそう言うと、まるで子どもが宝物を見つけたような笑みを浮かべた。それが私の心臓にサクッと命中する。
その笑みは……ちょっと、ずるい。
「なんだよ?」
「う、ううん……何でもない……」
胸を押さえて何とか生還すると、ライジーが早速その名を口にする。
「リリー」
「…………なあに?」
何故だかその名で呼ばれるとドキドキする。初めて呼ばれたからだろうか。それとも、私たち二人だけで共有する名だからだろうか。
「リリーは本を書かないのか?」
「本を? うん、私は読む専門だから……文章を綴る才がある訳でもないし──」
「書いてみたら」
「私が? でも、書くと言っても何を……」
「……物語とか? ま、何でもいいからさ。オレ、リリーが書いた本を、いつか読んでみたいんだ」
そう言う顔は、冗談めかして言っているのではなく、真剣そのものだ。
本といえば読むばかりの私が、書く側に──? いつも本から素晴らしい世界を享受していたばかりの私が、まさか世界を創る日が来ようとは思いもしなかった。
少し前の私だったら、できるはずがないと思い込んで、動くことはなかっただろう。でも、今は違う。
自分と愛犬だけの世界を壊して入ってきたライジーが、世界を押し広げてくれたから。
「読んでくれる人がいるなら……書いてみようかな」
いつの間にか、そう呟いていた。それに対し、ライジーの耳がピンッと立つ。
「! なら、オレは早く文字を読めるようにする!」
「えぇ、お願いだからそんなに期待しないで……。いつ完成するかも分からないし。というか、ライジーの読み書き習得の方がよっぽど早いから……ねえ、聞いてる?」
ライジーは文字の勉強の方にすっかり夢中になって、少しも聞いていない。機嫌はすこぶる良さそうだけれど。




