19-1 もう一人の”お兄さま”
食堂に向かうため、ひんやりとした廊下を歩く。
その途中でふと窓の外を覗き、庭園の様子を確認した。昨日の雪はそれほど降り積もらなかったようなので、今日の予定は変えなくてよさそうだ。
「おはよう、ソフィア」
「ソフィア様、おはようございます」
食堂の扉を開けると、朝食中のレジナルド様がこちらを見て微笑んでいた。彼の隣には、給仕中のデボラさんもいた。
「お、おはようございます」
昔なじみではあるけれど、家族以外の男性とこんな朝早くから顔を合わせることに少し戸惑いながらも、私は二人に挨拶を返した。
レジナルド様は朝食を摂る傍ら、何かの書類を読んでいるようだった。真冬の控えめな朝陽を窓越しに浴びながら書類に目を通すその姿に──昨日は上げていた前髪が今は下ろされ、服装も騎士の鎧の代わりにカジュアルなシャツといった、普通は見ることのないくつろいだ格好だったのもあるかもしれない──、何となく緊張してしまい、私は目のやり場に困ってしまう。
私が挙動不審だったせいか、デボラさんがレジナルド様をたしなめるように口を開いた。
「旦那様? ソフィア様も来られましたし、書類の確認はもうおやめください。お行儀がお悪いですよ? よもやそのお年でこんなことを申し上げねばならぬとは、このデボラ──」
「分かった! 分かったから! ソフィアの前で昔のことを蒸し返さないでいい!」
慌てて書類を脇に置くレジナルド様の頬がわずかに赤くなるのを見て、レジナルド様には悪いけれど、何だかホッとしてしまった。そして、私の挙動不審のせいでデボラさんから注意を受けることになってしまって、心の中でこっそりレジナルド様に謝った。
レジナルド様はこほんと咳払いをすると、いつもの落ち着いた調子で口を開いた。私だったらもうしばらくは慌てふためいているだろうに、さすがはレジナルド様。大人だ。
「それにしてもソフィア、早起きなんだね? もっとゆっくり寝ていても良かったのに。昨日は俺たちが突然来たせいで疲れただろう?」
「いえ、十分休ませていただきましたし、元々早起きが習慣になっていまして……。それに、このお屋敷はそもそもレジナルド様の物なんですから、いつ戻られても当然のことですよ?」
「はは、そういえばそうだ。近頃は忙しすぎて、ここには随分帰ってこられなかったからなぁ。おかげで読まないといけない書類と手紙が溜まって溜まって……」
そう言いながらちらっとテーブルの端に目を遣ったレジナルド様の視線の先を追うと、そこには山積みとなった紙の束が置かれていた。先ほど読んでいた書類はあの中のほんの一部というわけだ。侯爵家次男というご身分と、この屋敷の主人という立場上、目を通さないといけない書類や手紙がたくさんあるのだろう。
私が驚いていると、デボラさんがパンの入った籠をテーブルに置きながら、つんとした顔で言った。
「あまりにもお戻りにならないものだから、もう旦那様はこの屋敷の存在をすっかりお忘れになったかと思っておりましたよ」
「はは……すまなかったよ、デボラ」
苦笑いをしたレジナルド様の後ろを通り過ぎ、私の前までやって来ると、デボラさんがひとつの椅子を引いてくれた。
「どうぞソフィア様もお座りください。すぐにご朝食を用意いたします」
「ありがとうございます」
お礼を言ってから椅子に座ると、デボラさんは厨房の方へ行ってしまった。食堂にレジナルド様と二人きりになり、わずかな間、沈黙が訪れる。
レジナルド様がマクネアス家に遊びに来てくれていた頃はこうやって一緒のテーブルについて団らんしていたこともあったのだけれど、「お兄さま」と無邪気に慕っていた子どもの時とはやはり違う。王都の令嬢が皆振り返るような、立派で素敵な男性が目の前にいては何となく落ち着かないのだ。
けれど、人見知りしている場合ではない。彼にはお礼を言いたいし、話したいこともたくさんあるのだ。
意を決すると、私は向かいの席に座るレジナルド様に話しかけた。
「レジナルド様のご活躍はお兄様から聞いております。聖女様の親衛隊長に就かれたのですよね」
「あぁ……まぁ成り行きで、ね。でも親衛隊長なんて名前が立派なだけで、大した活躍はしてないよ」
「ご謙遜を。聖女様をお守りする職務なんて誰でもいいわけではないじゃないですか」
私には本当にそう思えるのだけれど、レジナルド様は苦笑いを浮かべた。
「うーん……恥ずかしいから俺の話はいいよ。それより、君の話を聞きたいな。この十余年、どうしていたんだ?」
「私、ですか?」
正直に言うと、引きこもり生活がメインである私の昔話よりも、王都で華々しい活躍をされているレジナルド様のことを話題に上げる方が楽しい時間になると思う。
けれど、レジナルド様がそう言うなら仕方ない。私は両手の指を絡ませながら、口を開いた。
「一昨年の夏に社交デビューしたのですが……その、今は社交界から離れていまして──」
「うん、サーレットから聞いたよ。貴族社会になじめず辺境地で療養していることも、テオが先の火事で亡くなったことも」
「そう、でしたか」
伝えづらいことをすでに分かってもらっていると知り、私はホッと息を吐く。辺境地での引きこもり生活はもとより、テオの死さえも私にはもう受け入れつつあることなのだけれど、レジナルド様にとっては違うようだ。じっと私の顔を見つめるその顔は、とても険しい。
「辛いことばかりだったね……。……自分が情けなくなる。どうして君が辛い時に、俺は傍に居なかったんだろうって」
「レジナルド様……」
もう十何年も会っていない幼なじみのことをそこまで思ってくれていたなんて、レジナルド様には感謝の気持ちと、それと後ろめたさしかない。私なんて、お兄様からレジナルド様の近況を聞かされて久しぶりに彼のことを思い出した薄情者だというのに。
「……ありがとうございます。そのお気持ちだけで十分ですわ」
お礼の言葉を言ったちょうどその時、デボラさんが私の朝食を持ってきてくれた。私の前にお皿が並ぶのを見ながら、話を続ける。
「けれど今はこの通り、すっかり元気にしておりますからご安心くださいね」
「確かにそのようだ。サーレットから聞いた話でも、辺境地暮らしを楽しんでいる様子が伝わってきたしね。なんだろうな、昔のお転婆だった頃を思い出すよ」
レジナルド様がそう言って微笑んだので、スープを頂こうとしていた私の手がぴたっと止まる。
「……え?」
「覚えてない? 子どもの頃、よくマクネアス家に遊びに行かせてもらっていただろう? で、俺とサーレットがこっそり屋敷を抜け出して、近くの森に作った秘密基地に行こうとすると、必ずソフィアが現れてね。その度に一緒に連れてってと駄々をこねられたものだよ」
「あっ、あれは、私だけ仲間外れにされていると思って……!」
「覚えてるじゃないか」
そこでレジナルド様が意地悪そうに笑ったものだから、それ以上何も言えなくなってしまった。頬がかあっと熱くなるのを感じながら、私はおずおずと尋ねる。
「……でも、それがどうしてお転婆になるんですか?」
「『ふつうのご令嬢は小汚い秘密基地なんかに行きたがらない』。『ふつうのご令嬢は男兄弟に混じって冒険ごっこなんかしない』。『ふつうのご令嬢は一人で屋敷を抜け出さないし、そのために男児の服で変装しない』。……身に覚えは?」
一本ずつ指を立てながら説明されるにつれ、頭の中に忘れていた記憶が徐々によみがえる──お兄様たちの秘密基地に行きたがるどころか、一緒に戦いごっこをしていた記憶が。挙句の果てに、秘密基地に連れて行ってくれないことに我慢ならなくなった私が、お兄様の服を借りて屋敷を脱走しようとしたことも(結局は屋敷を出る前に捕まったのだけれど)。
──どう考えても、お転婆だと言われても仕方のないことばかりしている。
「…………あります、ね……」
引きつった顔でようやくそれだけ答えると、もうここから逃げ出して、どこかの穴に入り込みたくなった。貴族社会になじめない上にお転婆だなんて、私は本当にもう、どうしようもないのではないか?
自分のダメさ具合に泣きそうになっていると、レジナルド様がぽろっと言葉を漏らした。
「でもそんな子が、こんなに魅力的なレディになっているとはね」
「そうですよ、ソフィア様はどこにお出ししても恥ずかしくないほどのご立派な淑女でございます。どの口がそのようなことをおっしゃるかと思いましたよ……旦那様など、ソフィア様とは比べ物にならぬほどの悪童でしたのに」
「言うなぁ……。ま、自覚はあるけど」
ハハと苦笑いするレジナルド様を、デボラさんがじろりと睨みつける。次に私の方を見て、目を和らげて言った。
「ソフィア様。この通り、旦那様の悪童ぶりはいまだ抜けきりませんが、どうかお気になさらずに。悪趣味なことに、人を揶揄って楽しんでいるのでございます」
「ひどい言われようだな……。俺はただソフィアのことが可愛いくて仕方ないだけだよ」
そんな二人のやり取りをぽかんと口を開けて見ているうちに、先ほどまで落ち込んでいたことなど、どうでも良くなってきた。レジナルド様が私のことを昔のまま、妹のように扱ってくれていることに感謝しかない。
「……あ、」
その時、あることを思い出して、私は口を開いた。
「冒険ごっこで思い出したんですが……“勇者”という児童向けの冒険小説を覚えていませんか?」
私は数日前にこのお屋敷の本棚の奥で見つけた本のことを説明した。そして本の中のとある挿絵──この物語の二人の主人公、スピアとグレイヴの間に、小さな女の子の絵が描き足されていたことも。
「それを見て、昔のことを思い出したんです。魔法使いのスピアがお兄様で、戦士のグレイヴがレジナルド様に思えて、私も二人と一緒に冒険の旅に出たいなんて駄々をこねていたなぁって」
それで挿絵の中に自分の姿を足したのだ。戦士でも魔法使いでもない、その他冒険物語に出てくるジョブでもない、お姫様という型破りなキャラクターにしたのは、当時の私がお姫様に憧れていたからかもしれない。
「それで俺が『お姫様は冒険の旅になんか出ない』なんて言っちゃったから、君が拗ねちゃったんだよね」
「そっ、そうでしたか⁉」
レジナルド様の証言により恥ずかしい思い出をまた一つ思い出してしまい、私はまたもやドギマギしてしまう。
けれど、それさえも愛おしい幼少期だったように思う。友人と呼べる存在はいなかったけれど、それでも毎日が楽しかったのは、お兄様が居て、テオが居て、使用人の皆が居て、そして時折、レジナルド様がマクネアス家に新しい風を起こしに来てくれたからだ。
「あの本を見つけて、昔のことを思い出したおかげで、このお屋敷のご主人がレジナルド様だって気付けたんです」
私は持っていたスプーンを置くと、レジナルド様の方に向き直り、畏まった。
「レジナルド様、改めてお礼を言わせてください。このお屋敷に私とライジーを受け入れてくださって、本当にありがとうございました」
「そんなこと……幼なじみが困っているのなら当然のことだよ」
「いえ、当然のことだなんておっしゃらないでください。万が一ライジーのことが世間に知られてしまえば、非を浴びるのはここに匿ってくださったレジナルド様になってしまうのですから。それに、私の存在もご迷惑になってしまうかと思うと……。その、未婚の娘が婚約者のお屋敷に滞在していては、相手方に嫌な思いをさせてしまうでしょう?」
「……相手方って?」
「レジナルド様ほどのお方なら、素晴らしい婚約者がすでにいらっしゃるかと……」
「アッハッハッハ!」
突然、レジナルド様が笑い出したので、私はビックリしてしまった。
「わ、私、何か可笑しなことを言いましたか?」
「婚約者なんていないよ! 侯爵家の次男坊といっても、領地も爵位も無い根無し草なんだから」
「そ、そうなのですか……?」
聖女様の親衛隊長であるレジナルド様が「根無し草」だとは到底思えないけれど、世間の考え方から見ればそうなのかもしれない。
「そう。だからソフィアは何も心配することなく、いつまでもここに居たらいいんだよ」
真剣な顔でそう言われたものだから、一瞬本気なのかと思ったけれど。
──本音と建前。これを上手く使い分けるのが、私たち貴族なのだ(……とはいえ、私はうまく使いこなせなかったからここにいる訳なのだけれど)。
よく会う、気心の知れた仲ならまだしも、幼なじみとはいえ十何年ぶりに再会したばかりの相手の言葉を受け取る場合は少し注意が必要かもしれない。そう思って、私はニコリと言葉を返した。
「そう言っていただけるのは、ご冗談でも嬉しいです」
これなら相手を戸惑わせることはないし、気まずくなることもない。けれど私の予想は外れたみたいで、レジナルド様が少し寂しそうな表情で呟いた。
「……どうしたら本気だって伝わるんだろうな」
──失敗してしまった。レジナルド様は本当に私のことを心配して言ってくれていたのだ。
たとえ本心からの言葉だったとしても、厄介になっている身で「いつまでも」という訳にはいかない。けれど、まともに取り合おうともしないのはやはり違う。
私が慌てて口を開こうとした途端、レジナルド様がニヤッと笑った。
「なーんてね? どうせこんな所は早く出て、あの獣人君と二人きりになりたいとか思っているんだろう?」
「なっ……!?」
「はは、これが“冗談”ってやつだよ。君の混じりけの無いところ、全然変わってないなぁ」
「は、はあ……」
クスクスと笑うレジナルド様を見れば、誰もが私を揶揄って面白がっていると思うのは当然だろう。
けれど私はそうは思わなかった。嫌な気分になるどころか、逆にレジナルド様の対人能力の高さに感動してしまった。私を揶揄ったのはきっと、場がしらけるのを防ぐため。私が謝罪の言葉を口にしようとしたから、咄嗟に冗談を言って和ませてくれたのだ。
子ども時代のレジナルド様は確かにいたずら好きで、私も意地悪されてきた覚えがある。けれどそれ以上に、根が優しい人だった。だから幼い私は、レジナルド様をもう一人の兄のように慕っていたのだ。
──人を思いやる。それを誰もができる訳ではないということを社交界に出て知ったからこそ、レジナルド様がいかに尊敬に値する人かが分かる。
「すごいなぁ……」
「え?」
考えていたことがため息と共に漏れ出ていたらしく、レジナルド様がきょとんとした顔で聞き返した。
「あ、いえ」
私は笑ってごまかすと、もうひとつ言っておかなければならないことを思い出す。
「あの、もうひとつ、謝らなければならないことがあって……。その本なのですが、幼い頃のこととはいえ、レジナルド様の大事な本にラクガキしてしまって……。大変申し訳ございませんでした」
幼子がしたこととはいえ、自分の本を汚されてしまって、レジナルド様はきっと不快な思いをされただろう。
「アハハ、そんなに畏まって謝る必要なんてないよ。だって君の本じゃないか」
「え? そうなのですか?」
頭を下げる私に降ってきたのは思いもよらない返答だったので、思わず呆気に取られてしまう。
「でも、どうしてレジナルド様が持っていらしたのでしょう?」
「昔、ソフィアと一緒に読んでさ。その物語を気に入った俺に貸してくれたんだよ、君がね」
そう言われれば、そうだった気がしないでもない。とにかく、本に見覚えがなかったのは、幼い頃に貸したっきりになっていたからのようだ。
「見つけてくれて良かったよ。時折読み返していたんだけど、ある時から見つからなくなってしまってね。どこにいったんだろうってずっと探してたんだ」
そう言うと、レジナルド様はとても柔らかく微笑んだ。何度も読み返すとは、それほどまでにあの本を気に入ってくれていたらしい。貸した側としては嬉しいものだ。
「でも、こうして会えたんだから君に返さなきゃな。長い間、借りっぱなしになっていてすまなかった」
「いえ、いいんですよ。というか、それほどお気に召した物語なのでしたら、このままレジナルド様に差し上げます」
「でも、読書家の君の方が断然読むことが多いだろう? 新たに手に入れるのは難しいだろうし……すでに絶版になっているようだから」
「絶版!?」
思わず椅子から立ち上がって叫んでしまう。生活が落ち着いたら“勇者”を探して購入しようと考えていたところだった矢先に、衝撃的な事実が判明してしまった。
「あ……すみません」
けれど我に返り、顔を真っ赤にして再び座り込む私に、レジナルド様はクスリと笑った。
「じゃあこうしよう。これまで通り、本はこの屋敷に置いておく。だから、読みたくなったらまた来てくれるか? ソフィアならいつでも大歓迎だ」
なんて優しい方なのだろう。レジナルド様の提案に、私は快く頷いた。
「……はい! そうさせていただきます」
それから私たちは昔話に花を咲かせつつ、朝食の時間は楽しく過ぎていった。対人恐怖症な面がある私がこれほど心弾ませてお喋りをすることができたのは、かつて親しくしていたレジナルド様のおかげだ。兄妹のような関係性が懐かしくて、ただの知り合いや友人ではなく、むしろ家族に近い人だからだろう。




