陽は昇る
目の前にいるのはどろどろの油を纏った太った男。見るも醜悪で、纏う油からは異臭がする。そんな奴から逃げ回るうちに追い詰められた路地裏で思わず蹲ってしまった。
こんな愚図より私の方が賢い。こんな愚鈍より私の方が速い。だから逃げるなんて余裕だったはずだ。
でも恐怖で頭が回らない。足が竦んで動かない。怯んで腕は体を抱えるばかり。そうして今まさに醜態をさらしている。
「誰か…助けてよ……」
だから屈辱だったのだ。ただ震えて助けを呼ぶことしか出来なかったのが。
「ハハハ!私を呼んだな!!!このヒーロー“ソルニティ”を!」
この街には呼べば来てくれるヒーローがいる。本当に助けを求める人の前に現れるヒーローが。
「ただのパンチ!!!!!」
文字通りなんの変哲もないパンチが目の前の怪人を吹き飛ばす。纏った油を貫き振り払い、怪人と化した男ですらも傷付けずに救ってみせた。普通怪人となった人間は殺して無力化するというのに。
ああなんで、なんで彼はあの怪人に立ち向かえるのだろう。私にはできないのに。
力があるから?違う。頭が切れるから?違う。勇気があるから?多分そう。なんでも出来た私は、勇気を持って立ち上がれなかった。
「大丈夫かい?お嬢さん」
「……大丈夫、一人で立てます」
手を差し伸べられたその時どうしようもない敗北感を覚えた。初めて出会った決して勝てない相手に対する、生まれて初めての感情を。
*
「あの、白咲さんこれ………」
教室に入ると同じクラスの男子が何かを差し出して来る。
握られたそれを見れば一昨日鳥の怪人に襲われた際に落としたハンカチだった。
「………どこでこれを?」
「あっ、路地裏で……猫を追いかけてたらたまたま……。一応洗濯はしたけど汚れてたらごめん」
「拾って洗濯までして頂いたのですからこちらが礼を言う立場です。謝る必要はありません」
目の前の男子…名前はええと…そう、葛原 直人さん…だったはず。
「ありがとうございました、葛原さん。生憎と今手元にはお礼できるものがないのでこの借りはいつか必ず……」
「あ、いい、大丈夫、です。迷い猫を探してた時にたまたま見つけただけなので、そんなお礼をされるようなことじゃ…そ、それじゃそろそろHR始まっちゃうから!!」
そういって慌ただしく席に戻って行く葛原さん。まだ十分なお礼も出来ていないというのに……
「おー由紀また怪人に襲われてたの?大変だねぇ」
「もう慣れましたから」
この世界には怪人と呼ばれる存在と、ヒーローと呼ばれる存在がいる。前者は人間の負の感情が、後者は正の感情が一定量を越えると体が変化し、生身の人間では太刀打ち出来ない程の力を得る。
そして私はあの屈辱の日以来なぜか怪人に襲われやすくなった。あの醜悪な恐怖が何度も何度も襲いくるのだ。
時には反撃したりしたけれど、即座に返り討ちにあいその度恐怖が強く刻まれる。そうして何度も何度も呼んでしまうのだ。あの忌々しい背中を。
「由紀、手」
「え?」
いつの間にか強く手を握っていた。最早慣れたつもりではあったけど、未だに克服出来ないらしい。
「うーん、血は出てないね。あーでも爪の跡がついちゃってる。せっかく綺麗な手なんだから大事にしないと」
「そんなことは────」
悪寒が走る。背筋を雷が貫いたかと思えば、冷たいものが流れ落ちて行く。この感覚は何度起きても慣れない。
『見づげだ』
繰り返し怪人に襲われるうちに身に付けた怪人の接近を察知する能力。けれどこんなものがあったところで襲われる恐怖は消えはしない。
「な、なんで───」
窓の外にいたのは一昨日あのヒーローに倒され警察に引き渡されたはずの怪人。一度怪人から人に戻ったら負の感情は溜まりにくく再び怪人化することは難しいというのに、それほど私に執着していたのだろうか。
「か、怪人!?皆逃げろ!!!!」
学級委員の樫本さんの言葉を皮切りに、蜘蛛の子を散らすように──同じクラスの方に使うのは少々失礼だ。訂正しよう。一斉に教室の扉から逃げ出して行く。
「私たちも逃げるよ由紀!!」
「………大槻さんだけで逃げてください。あの怪人は私を狙っています」
見つけた、と言っていたし一昨日も私だけを狙っているようだった。今回も狙いは私だろう。
「だからだよ!そんなに震えてる由紀を置いていけない!」
震えて……いる。自分で気付かないのが不思議なくらい大きくガタガタと。
「だ、だめです。私が逃げれば皆さんを危険に晒してしまいます」
「でもそれじゃ由紀が危ないじゃん!!」
「私は……慣れていますから」
「でもそんな顔してる友達置いてけないよ!!!」
「若葉!私はあなたを危険に曝したくないと言っているんです!!」
強化ガラスで出来ているとはいえ怪人の膂力。もうすぐ窓を突き破り押し入って来るだろう。
「そんなの私だって同じだよ。自分の意見だけ通して私の意見は聞かないなんて許さない!!」
ヒョイッと抱え上げられた。俗に言うお姫様抱っこ。確かに若葉とは身長差があるがいつの間にこんなに鍛えたのだろう。
「じ、自分で歩けます!!」
「だーめ。絶対おろしたら怪人の方に向かっていくでしょ。それに由紀は軽いから何時間でも持ってられるよ。バレー部のエースナメないでよね。……ほら、行くよ」
もう教室には誰もいない。粗方避難が終わっているのか飛び出した廊下にも既に人の気配はなくなっていた。
「降ろしてください。抱えて逃げるより一緒に走った方が速いです」
「由紀、それって」
「ええ。ですが逃げるのではなく付き合って貰いますよ」
「うん!!!!」
飛び出た教室から窓ガラスが割れる大きな音が響き渡り、そのままの勢いで扉を突き破って私たちのいる廊下転がり出る。
「屋上へ!できるだけ人の少ないところに!!!」
「わかった!!」
狭い廊下内で翼を広げ飛ぶことは出来ない。そしてあいつは地上を歩くのはそんなに速くない。それは一昨日襲われた時にわかっている。
「こっち!!」
階段を駆け上がる。決して広くはないが縦の移動であれば軍配はあちらに上がるためここが最も危険。距離を詰められるとしたらここだろう。
「…っ!」
駆け上がったすぐ後ろを翼が掠めていく。勢いをつけすぎて天井に激突しているが、あれがぶつかっていたら怪我ではすまなかっただろう。
「由紀、こっちじゃ追い付かれるから向こう側の階段を使うよ!走れる?」
「ええ」
実を言えば今の一撃で恐怖心は限界を迎えている。けれど最後に残った意地として若葉の前でへたり込むわけにはいかない。震える足を無理やり前へ。いつもは私の方が速いのに若葉の背中が遠く感じてしまう。
「……追って来ていない?」
背後から追ってくる気配がなくなった。あの怪人は廊下で追うのは不利だと判断したのだろう。しかしまだこの周辺に居るのは間違いない。
「……屋上へ行きます。若葉は体育館へ逃げてください」
「嫌だよ。屋上にある対飛行怪人用の銃を使うつもりでしょ?そんなに震えてたら当たるものも当たらないよ」
「ですが……」
「ええいこの聞かず屋さんが!だったら由紀が好きそうな提案をしてあげる!!あの怪人はもう学校に張り付いてる。備え付けの銃座じゃ狙うのは難しいから由紀が囮になって距離を取って。大丈夫、絶対由紀には当てないし絶対あいつは落とすよ」
「………信じますよ」
「任せて」
まあ最悪銃弾くらいであれば避けられる。当たっても致命傷でない限り手当は出来る。それに、友人があそこまで言ったのだ。信じない人間はいないだろう……若葉の射撃の腕は酷いものだが。
「じゃあ、後でね」
作戦上若葉とは距離があった方がいい。コの字型を描く校舎の反対側へ行くため駆けていく若葉を見送り予定通りに階段を駆け上がり────
『捕まえ゛た』
「あぐっ…ぅ!」
階上で待ち構えていた怪人に首を捕まれ地面に叩きつけられる。ああ、追って来なかったのは諦めたのではなく先回りするためだったのか。
『ああ゛、やっばり似合うね゛制服』
その長い舌が頬を舐める。
気持ち悪い。けれど抵抗しようにも腕は怯え力なく垂れ下がり、悪態の一つをつこうにも歯が鳴り合ってまともに声も出すことが出来ない。
『いい゛ね、ぞの目。自分が何も゛出来ない虫以下だど理解し慄え゛る目。むちゃぐちゃにしでしま゛いだい』
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!こんな気持ち悪い相手にただ為す術もなく怯えてされるままなんて絶対に!!!
動いて、動け腕!!!こんなやつの首くらい簡単に────
「あっ…がぁあああああ!!!!」
『あれ゛、人間の腕っで意外ど硬い゛……虫み゛たいに簡単に゛取れるど思っでたげど』
右の腕を万力の如き力で引っ張られる。ゆっくりと骨が軋み肉が千切れ皮が伸びる感覚。骨が折れた時とは違う痛みが時間をかけて脳を貫いていく。
(いや………誰か、誰か助けて!!!)
生まれてこの方体験したことのない激痛につい心が悲鳴を上げる。結局、いつもそうだ。自分で解決すると息巻いて、驕って、そして誰かを、自分を危険に晒して頼ってしまう。
「ヒーロー“ソルニティ”見参!!さあ、無限の陽光が貴様を焼くぞ!!」
鳥の怪人を殴り飛ばしながら現れたその背中を見て、思わず顔をそらしてしまう。
また頼るしかなかった悔しさと結局自分では何も出来なかった虚しさ、若葉を巻き込んでおいて関係なくヒーローを呼んでしまった申し訳無さが混ざりあった感情が頬を伝っていった。
決して痛みからでも安堵からでもない。
「一昨日の怪人か。再び立ち塞がるというのなら今一度砕こう」
この街を守るヒーローは、その身に宿した太陽で人々を救い、包み込む。先程までこの場を支配していた恐怖が、絶望がすべて希望に塗りつぶされていく。
“無限の陽光”。あのヒーローが纏うポジティブオーラ。人間の負の感情を抑制し、正の感情を刺激するポジティブオーラの中でとりわけ強力なもの。このオーラの中で負の感情を持ち続けることは難しく、ヒーローの近くでは怪人は激しく弱体化する。
同様に、正の感情を抑制し負の感情を刺激するネガティブオーラを怪人は纏っているが、あの怪人が纏うものはソルニティのそれより大分弱い。
それに当てられ竦み上がっていたのが私なのだが。
『かがってごい゛よ』
「ただのパンチ!!」
いつものように勝負は一瞬でついた。世界でも最強格のヒーローを相手にしているのだ。一度負けている怪人に勝てる要素はない。ない、のになぜ彼は立ち向かったのだろう。一昨日負けて勝てないとわかっていたはずなのに、なぜ再び彼と戦おうと思えたのだろう。
「大丈夫かい?珍しく泣いていたが」
「だいっ、丈夫です……」
情けない。怪人はおらず、善意がこの場を包み込んでいるというのに涙で声が震えてしまう。
「そうか。私はこの男を警察に引き渡そう。再び怪人化しても対応出来るところにな。腕が痛むようであれば君も病院に送っていこうか?」
「結構です。自分で向かえます」
「そうか、では」
開いた窓から気絶する男を抱えて飛び去る。先生方が呼んだのだろう。パトカーに、武装した人たちが校門前に並んでいた。
「由紀!!」
「若…葉……?」
あの光を見て屋上から駆けつけて来たのだろう。大きく息をし、それでも私の心配をしてくれる友人。正直に言えば、こんな姿見せたくなかった相手。
「大丈夫?」
「う、うん。大丈夫」
本気で心配していることが分かるその真っ直ぐな瞳が見れなくて、つい俯いてしまった。
*
side─大槻若葉
学校に怪人が襲撃してきたという年に一度もないような出来事だったというのに、普段の訓練のおかげか授業が一時間なくなっただけで残りは普通に行われ今は放課後。私と、同じクラスの葛原くんは避難せずに勝手な行動をしたとして説教を受けていた。由紀は病院に行ったので結果次第だがお説教は明日に回されたらしい。
「反省文、ちゃんと書いとけよ。俺だってこんなことはさせたくないし言いたくない。けれどけじめは大事だからな」
そう言って担任の先生が出ていく。二人だけの教室。私は、少し離れたところに座る葛原くんの方に向き直った。
「ねえ、葛原くん。私見ちゃった」
「え、な、何を───」
狼狽える葛原くんに屋上に向かう途中で自分が見た光景を伝える。すなわち、
「君がソルニティに変身するところ」
「あ、え、は────」
最強のヒーローソルニティ。ずっと謎とされていたその正体は変身後と違って弱々しく、頼りなく慌てふためいていた。
「ひみ、秘密にしていてください大槻さん!!なん、なんでもするので!!!」
「別にバレても問題ないと思うんだけどなぁ。うーん、なんでも……なんでもかぁ………それじゃあ、教えてよ。君がどうやってヒーローになったのかを」