私の居場所はそこにありますか
七月の空は午後六時になってもまだ明るく、眠ろうとしない。それでも道々には学校帰りの学生、仕事終わりのサラリーマン、そしてこれから出勤する夜間従事者に買い物帰りの主婦と多種多様な人達が歩いている。ふっと風が通り過ぎるが、まだ涼しさを感じない。けれど確かに、夜が近付いているのを感じずにはいられなかった。
うつむいて歩いていた私はそんな風にも心を揺さぶられ、涙がこぼれそうになった。感傷的になったわけではない、ただ何故だか悲しくなったのだ。人々の流れに乗って歩くのも辛くなった頃、路地を曲がってある場所を目指す。そこは自宅からは割と離れているのだが、こんな私でもきっと受け入れてくれているだろう場所。大きな通りから徐々に離れていき、次第に人通りも減っていく。閑静な住宅街をも抜け、建物よりも木々が多くなってきた頃、そこは姿を現す。
小鳩神社。中心部近くにある玉響神社と違って規模は小さく、良く言えば歴史を感じさせ、有体に言えば古ぼけていた。夜の七時にもなれば参拝客も滅多におらず、また社務所も人が居るのかいないのかわからなかった。寂し気な朱色の鳥居をくぐり、短い玉砂利を静かに進めばすぐに本殿が見える。正面にある角にひびが入り文字もかすれた賽銭箱には目もくれず、私は境内の裏手に回り込む。まだ日も長いのでそこまで暗くもないが、明るくもない。ましてや場所が場所だけに普通の人からすれば気味が悪いだろう。そういう場所ならばいかがわしい事に使われたり、不良のたまり場になったりしやすいのだろうが、ここは本当に幽霊が出るとの評判があり、近付くものは私以外いなかった。
境内の裏手は整備されていない草むらが広がっており、その先はゆるやかに山へと続いている。トゲのついた古木や妙に茎の太い大きな雑草、小さな白い花をつける草花に視界を悪くする桑の木などが雑然と生えており、正にあるがままの自然だ。なるほど、確かにこんな時間にこの風景を見れば出ると思われても仕方ない。だからこそ、私にお似合いなのだ。笑う気力も無く私は境内の真裏に来ると腰かけ、そして膝に顔をうずめた。
一体いつまで耐えればいいのだろうか。
幾度となく繰り返された自問が今日もまた頭を駆け巡る。二十三歳、新卒の二年目として地元の食品加工メーカーの経理に配属されている私は毎日が地獄だった。それは仕事が忙しいからでも、上司が厳しいわけでもない。簡単に言えば、いじめられていた。
いじめと一口に言っても色んな種類がある。さすがに社会人だけあって暴力などは無かったが、無理難題を圧力をかけて迫る上司からのパワハラだったり、その他の人達による無視だった。どちらもきついけれど、まだパワハラの方が私を相手にしてくれるだけ若干マシと思える。しかし、無視はやはりきつい。挨拶をしても返らず、質問をしても無言で過ぎ去られる。そうなると次第に私も少ない口数が更に減り、口を開くのが怖くなって誰にも何も話さずに貝のように閉じ籠るしかなくなった。
まぁ、確かに私も悪い所はある。思い返せば新入社員歓迎会でも挨拶はボソボソと喋り、先輩や同僚が話しかけてきても恥ずかしくて顔をそむけ、ほとんど会話にならなかった。それ以降も何度か話しかけられたがどうすれば上手く返せるのか、相手の望む答えを言えるのか考えてばかりで結局まとまらず、答えに窮しているといつの間にか見切られ、次第に居場所がなくなっていった。やばいかなと思った頃には既に遅く、取り返しのつかない状況になっており、そうなるともう絶望しか見えない。状況を立て直そうとこちらから話しかけた頃にはもう遅く、誰からも相手にされなくなっていた。
でも、それも仕方が無いんだ。今になって失敗したわけではなく、小中高と私はいじめられてきた。暗いだの幽霊だのと囃され、陰湿ないじめを受けてきた。筆記用具を捨てられ、通り過ぎるたびに死ねと言われ、私とペアを組むとなればざわついた。さすがに制服や体操着までは被害が及ばなかったけど、それでもクラスからの無視はきつかった。そしてそれまでの積み重ねで同学年に友達がいなかったため、どこにも居場所を作れないまま学生生活をひたすら耐えてきた。
あと半年すれば小学校が終わる、あと一年すれば中学校が終わる、あと二年すれば高校が終わるなんてひたすら心の中でカウントダウンをして死なないように耐えてきた。死んだら負けだ、なんて泣きながら一人布団の中で過ごしてきた。社会人になればお金を稼いで自由になれる、それだけが私の生きる希望だったのは間違いない。けれど、社会人になったからと言って今までの私が綺麗さっぱり変われるわけでもなく、コミュニケーションも取れず空気も読めず場の流れもわからない、社会的に邪魔な人間がただあるだけだった。最近はそれに気付き、逃げ場のない絶望感に打ちひしがれている。
この境内の裏は子供の頃からの唯一の居場所だ。幽霊が出ると言われているこの場所に、幽霊と呼ばれている私がいるのは別に不思議でもないだろう。人気の無いこの場所で膝に顔を埋め、静かに泣いたり暗闇の中にひたすら身をゆだねる。気味が悪いのは重々承知だ。こうしていると時折視線を感じたりする事は昔からあるし、不気味な気配だってあるような気もするけど、私にとってここしかないのだ。虫が体を這う気持ち悪さもあるが、それもあまり気にしない。気にしていられないほど、心が衰弱していると言った方がいいかもしれない。
ただ、今日はその気配がより一層強かった。まるですぐ隣にでもいるような強い気配。本当に誰か傍にいるのだろうか。でも近付く足音は無かった気がするし、ここの関係者ならば私は明らかに不審者なのだから何かしら声をかけてきてもいいはずだ。怖い、とても怖い。でもこうしていつまでも黙っているわけにもいかない。神社の人なら謝ればいいし、変質者なら殺されたってもいいかな。もし幽霊なら逃げればいいし、それができなければ取り殺されてもいい。どうせ生きていても苦痛ばかりだ、自分で死ぬ度胸なんかないから、いっそ誰かが私を殺してくれればいいのにな。
二十分ほど葛藤の後、私は思い切って顔を上げた。ずっと膝の中の暗闇にいたので視界がぼんやりしているけど、正面には誰もいない。電灯もない薄暮の境内裏手は時間よりも暗く思えるが、誰かいるかいないかくらいはわかる。次に左右を確認するが、誰もいない。そして思い切って振り向いてみたが……やはり誰もいなかった。思わず漏れた溜息に僅かばかりの安堵を乗せ、そろそろ帰ろうかと立ち上がりかけた途端、違和感に気付いた。
何かおかしい、そう思った時には反射的に眼を右手奥の木々の方へ向けていた。そして気付いてしまった、違和感の正体を。桑の木の合間からこちらを見ているような紺色の着物の女性。いつからいたのかわからないけど、じっとこちらを見ているようだ。あんな藪の中にいるなんて普通じゃないし、他からあそこへ行く道なんて無い。
やがて眼が合うと向こうも驚いている様子がうかがえたが、もちろん私も冷や汗が止まらずにじっとそちらを見たまま動けずにいた。しかしすぐにそれは桑の木を超え、ゆっくりと近付いてくる。藪がこすれる音がするのは風か、それとも紺色の着物の女性が近付く音かわからない。幽霊ならばあの世に連れて行って欲しいなんて先程願っていたような気もするが、いざ目にすれば怖くて声も出せない。喉が張り付き、震えているばかり。逃げることも忘れた私は黙ってそれが近付くのを耐えるしかなかった。
そしてついに私のすぐ目の前に立った。白い帯に小さな水玉模様の紺色の着物の二十代半ばか後半くらいの女性。ボブカットの髪の毛やその肌には幽霊と思えない艶があり、すっと通った鼻筋に大きな目。一見して美人だとわかるからこそ、逆に恐怖だった。
「もしかして、私が見えるの?」
静かに語り掛ける声は透き通り、はっきりと聞こえた。けれど、その質問は生きている人間がするものだとは到底思えないものだったから、怯えたまま頷くしかなかった。
「えっ、もしかして声も聞こえるの、貴女」
「えっと……はい、そう、ですね」
彼女は一瞬複雑そうな顔を見せたが、すぐに優しげに微笑んできた。
「無理かもしれないけど、そんなに怖がらないで。私は貴女に悪さをしたり、不幸にしたりなんて力は全然無いから」
「あ、はい……」
すっと彼女は少しだけ膝を折り、私と同じ目線に合わせてくれた。けれど私はもう涙目で、心臓が狂ったように暴れている。呼吸も浅くなり、頭がぼんやりとしていた。
「とりあえず落ち着いて、深呼吸をして」
言われるがままに深呼吸を二度三度繰り返し、ようやくほんの少し落ち着いてきた。次第に頭の中のもやが取れてハッキリしてきたけれど、やはりまだ目の前の現実をとらえきれないでいた。
「貴女、名前は?」
「え、えっと、清水、清水舞花です」
「私は最上夏樹。ねぇ、若く見えるけど幾つなの? 学生?」
「いや、その、一応社会人……です。歳は二十三歳、です」
「そうなんだ。二十三かぁ、だからこんな肌に艶あるんだろうね。いいなぁ」
そう名乗ったその女性は私の顔を微笑みながら覗き込む。けれどそれも、最初に比べて恐怖感が若干薄らいできていた。それは自己紹介をしたからだろうか、それとも終始柔和な顔をしてくれているからだろうか。わからないけれど、私も向こうに訊いておきたい事があったので、目元を拭ってから彼女を見据えた。
「あの、貴女って幽霊、なんですか?」
「そうだね、簡単に言えば幽霊かな」
はっきりと事実を突きつけられると、やはり怖くなった。この際、もう検証なんてどうでもよい。いきなり消えるとか木や壁を透けるように通り抜けるだとか浮くだとか、そんなもの見ずともそれで十分だった。ただ、不思議と先程まで感じていた殺されるという感覚は無くなってきていた。そしてほんの僅かな余裕ができると、疑問が浮かんでくる。
「えっと、あ、貴女が幽霊って言われても、その、私って霊感とかあんまり無い方で」
「見えるはずがないって思ってる?」
私が静かにうなずくと、彼女は悲しそうな表情になった。
「ここはね、霊道と言って死者の通り道なの。まぁ、神社の傍って事もあってたくさんいるのよ。私の他にも結構いるんだけど、どうやらあなたが見えるのは私だけみたいね」
たくさんいると言われても、他には影も形も見えなかった。不気味な雰囲気があるかと言われればかなり暗くなってきているし、場所が場所だけに当然だとも思う。
「それにね、霊感が無いって言ってたけど、今の貴女ならそんなの無くても見えるのよ」
「それって、どういう事です?」
「貴女ね、死にたいって強く思っていたでしょ。そういう人って魂があの世に半分引っ張られている証拠なんだよね。だから私みたいな幽霊が見えるの。霊感が強い人も同じで、強いストレスを抱えている人がほとんどね。そうしてあの世に触れようとするから、見えたり聞こえたり、もっといけば交信できたりするの」
事実を突きつけられ、私は言葉を失った。死にたい、なんて言葉には出していなかったはずだ。なのに初対面の相手がそう言うなんて……と、ここまで考えて我に返った。こんなところで膝に顔を埋めてじっとしていれば、誰だって死にたいのかもしれないと思うだろう。人生が上手くいって、明るい人はこんなところに来ない。
「私も死んじゃったからわかるけど、そっちもこっちも表裏一体なのよね。ポジティブな人ってのは生きる活力に溢れているからこっちは見えないけど、ネガティブで死にたいって人はこっち側に近い場所に引き寄せられるの。暗くて、静かで、陰気な場所。そしてそんな場所で死を強く願っていれば、自然と魂が染められるのよね」
「そう、なんですか」
「それにね、今まで見えたりしなかっただけで、ここにいれば貴女のような人は何かしら感じたりしていたはずよ」
「……まぁ、気配っぽいのは、今まで何度も」
「私もね、半年前くらいから見てたんだよ。何があるのか知らないけど、可哀想だなって」
死者に心配されるなんて、どれだけ情けないんだろうか。でも、生きていてもこれ以上は輝けないだろう。結局私は何者にもなれないまま、死んでいく運命なのかもしれない。
「何があったの? 話せばすっきりするよ。私に話したところで、何の影響もないから安心して」
その言葉に少しためらったが、やがてゆっくりと口を開き始めた。死にたいと思ったら幽霊が目の前に現れ、哀れに思われている。もうやけくそだったのかもしれない。
「私ね、その、いじめられてて……。小学校の時からずっとそうで、でも学生の時は卒業すれば終わり、大人になれば終わりって思ってたの。でも、社会人になっても結局同じで……もうどうしたらいいかわからない」
話し出せば後から後から自分の中にだけ溜め込んでいたものが噴き出してくる。
「何をやっても上手くいかない、多少勉強で良い点を取ってもどうにもならない。輪の中に入れなければ存在価値なんて無いんだって気付いたの。こんな私なんて結局、どこに逃げても同じ結果にしかならない。何度やり直しても、一緒。こんな私、生きていても仕方ないんだ。死んだ方がマシだよ。ねぇ、いっそ連れて行ってよ」
涙目になりながらいつの間にかうつむいていた顔を上げると、目の前の女性は眉間にしわを寄せており、明らかに怒っていた。
「何言ってるの。さっきも言ったけど、私にはそんな力なんて無いんだから。それに死んだ私を目の前にして死にたいだなんて、馬鹿もいい加減にして」
さっと風が吹きすさび、藪が激しくこすれていたが、それを切り裂くくらい彼女の怒声は大きかった。私は体を震わせ、怖くなってぐっとうつむく。ぽろぽろと涙がこぼれ、世界が滲む。
「あぁもう、今日はもう帰りなさいよ。いつまでいる気? こんなとこにいるより、家に帰って温かい物でも食べて寝なさい。ここにいても、何もならないよ」
少し落ち着いたトーンになったが、それでも私は動けずにいた。確かにここにいても、何もならない。死にたいとは思っても、そんな事を実行できる度胸が無い。最後の決断も下せず、運命に漂うクラゲみたいなものだ。いや、クラゲほどの意志も無いだろう。ただのゴミかもしれない。
「ほら早く行きなよ」
うつむいて卑下の沼に沈みかかっていると、突如彼女が顔を覗き込んで怒鳴ってきた。それに驚いた私はカバンを手にすると、逃げるようにそこを離れた。神社を飛び出し、息の切れるまで走り続ける。振り向きはしなかった、怖くてできなかった。電灯の明かりがハッキリわかるくらい夜は暗かったんだと今更ながらに認識し、涙を拭うのも忘れて喘ぐ。そうしてもう肺が焼けるんじゃないかと思って歩き出し、スーツ姿なのにみっともなく荒い呼吸を繰り返す。周囲に人影はあまりいないが、恥ずかしい。一体私は何をしているんだろうか。
家に帰ると汗でべとついた体を綺麗にしたかったので、すぐシャワーを浴びた。一人暮らしのため、こんな目に遭っても自分で全部しないとならないが、食事は手を抜こうと思ってカップラーメンだけにした。普段ならこの後、動画を観たりダラダラとテレビを見たりするのだが、そんな気持ちになれずすぐ布団に入った。
夢、じゃないだろうな。
あの神社での一件はともすれば夢や幻覚のように思いたかったが、そうではない。紛れもない現実なのだ。紺色の着物を着た女性の幽霊に出会い、愚痴をこぼしたら怒られた。あんなに怒られるなんて思っていなかったし、幽霊があんなに感情丸出しになるなんてそれこそ予想外だった。もしかしたらまだ怒っているかもしれない、だからこそ心配することが一つだけある。
「あそこ、気に入ってたんだけどなぁ」
消え入りそうな独り言。でも、声量とは裏腹に思いは強かった。あの境内裏手は学生の時から私の居場所。こうして一人暮らしをして自分だけの部屋というか家を持てた今でも、あそこに行けば心が落ち着く。辛い事があればずっとずっとあそこに座り、ただ自然と一つになれる気がした。もしかしたら霊道が傍にあったせいで、彼女の言うように魂があの世に染まっていたからなおさら居心地良く思えたのかもしれない。でもとにかく、あの場所は紛れもない私の癒しの場所であり、思い出だ。だけど今は彼女に怒られた。明日も行っていいのかどうか、わからない。
ただ、もちろん怖かったけれど今になって思えばどこか嬉しかったのも事実だ。誰もが私を無視してきたし、疎ましく思ってきた。親だっても、だ。中学生くらいまでは私を心配したりもしていたが、やがてあんたがしっかりしないと何も変わらないの一点張りで話もしなくなり、距離ばかりがどんどんと離れて行った。本当に世界中の誰もが私から目を背けていく中で、あんな風に怒られたのは久し振りだった。怖かったけど、本当に怖くてたまらなかったけど、向き合ってくれた気がしたし、それに目を見てくれた。
翌日、仕事の間中いつものように私は死んだ貝のように閉じ籠り、世の中の全てを遮断していた。何度か憂さ晴らしのための八つ当たりが来たが、その時はすみませんとひたすらに頭を下げる。十分もすれば大抵相手が飽きてもういいというのを知っている。稀に三十分以上続くこともあるけれど、やることは変わらない。けれど、自分の仕事はこなす。それは会社に籍を置いている以上、当然なのだから。
それでも心も体も摩耗する。普通の人でさえ一日働けば疲れた顔して帰宅しているのだ、誰からも相手にされずにサンドバック状態の私ならなおさらだ。まぁ、そうして人より摩耗するって事はまだ私はどこかに居場所を求めてすがり、それが叶えられないから絶望しているのだろう。とっくに諦めていると思っているのに、どうしてこんなにこの状況に疲れてしまうのだろう。
気付けば私はいつものように小鳩神社の前に立っていた。鳥居を見上げ、その先にある本殿へ目を向ける。あの裏手に今日もまたいるのだろうか。いたら怖いけど、でもあそこは私の場所だし、まだ簡単に譲る気はない。引き返して帰ろうかと逡巡したが、結局私は前に歩き出した。
境内裏手のいつもの場所は昨日以前と変わらず、静かだった。薄暮の日差しが生い茂った草木に悲し気なコントラストを演出し、風吹けば藪がこすれる不気味な音楽を流す。私はいつものように腰かけ、膝に顔を埋める。この雰囲気の中、こうする事が唯一の安寧。外に出て唯一、私が仮面をかぶらないで素直になれる場所だ。
「何で毎日こんなとこに来るのかな」
ため息交じりの声が聞こえると、怖かったけど私は顔を上げる。昨日と同じく紺色の着物を着た女性。私はしっかりと両のこぶしを握り締め、でも泣き出しそうなのを堪えて彼女の顔を見れば、何だか悲し気な顔をしていた。
「だって、ここはその……私の場所、だから」
「もう少しいい場所もあるでしょう」
「あの……いたら、駄目なんですか?」
誰かに意見するなんて、一体いつ以来だろうか。それでも私は言わずにはいられなかった、何とかここを守りたかった。それはもしかしたら生身の人間ではなく、幽霊相手だからこそできたのかもしれない。
「そんなことは無いよ。他の誰かの場所ってわけでもないだろうし」
静かにそう言うと彼女はそっと私の隣に腰を下ろした。
「まぁ、今は貴女の場所でいいんじゃないかな」
「ありがとうございます」
よかった、怒って追い出されたりされるような事は無さそうだ。私は自分の居場所を守れたことを心の底から安堵し、また泣きそうになる。けれど、不思議なものだ。多分隣にいる人は幽霊なのに、こうして並んで座っているだなんて。でも怖くて逃げだしたいなんてあまり思わないどころか、むしろほんの少しだけほっとしている。
「その、私……怒らせちゃったので、ここにもう来れないかと」
「昨日の事? あれはまぁ、私もちょっと感情的になっちゃったかな」
「いえ、私が悪いんです。その、心無い事言っちゃったんで」
「そうだね、死にたいなんて口にしちゃ駄目だよ。まぁ、そうなる気持ちもよくわかるけどね」
自嘲気味に笑う彼女につられ、私も僅かに口元が緩んだ。
「えっとごめん、名前なんだっけ。歳は二十三ってのは覚えてるんだけど」
「清水舞花、です」
「そうそう、ごめんね。じゃあ年下だから舞花ちゃんって呼んでいいかな」
「それはかまわないんですけど」
私はじっと彼女を見ると、何かを察したのか目を細めた。
「私は最上夏樹。昨日のあれじゃ怖くて覚えて無かったよね、ごめんごめん」
「あ、いえ」
「好きな風に呼んでくれてかまわないけど、まぁ私も下の名前で呼ぶって決めたから下の名前で呼んで欲しいかな」
「えっと、じゃあ……夏樹さん、で」
私は親しい人がそれまでいなかった事もあり、はっきりとした意志で他人を下の名前で呼ぶなんて事は人生においてこれがきっと初かもしれなかった。だから物凄く無礼な事をしているかもしれない、果たしてこんな昨日会ったばかりなのにいいのだろうかと強烈な不安に襲われていると、夏樹さんは嬉しそうに笑ってくれた。
「うんうん、ありがと。あぁ、なんか名前ってのも死んだら忘れそうになるから、人様に呼ばれるってのは新鮮な気分。夏樹さんなんて、ほんとに生きてた時以来だなぁ」
「あの、ごめんなさい。一ついいですか」
おずおずと口を開くと、夏樹さんは優しく微笑んだまま私の二の句を待ってくれる。
「失礼な質問だったら、本当に申し訳ないんですけど、その、夏樹さんってお幾つなんですか?」
「私? 私は二十六歳かな……死んだ時は。まぁそれも三十何年か前の話だから。あ、でもだからって六十歳とか言われたら、それはちょっとショックかな」
「あ、いえ、そんな風には。すごく綺麗で、美人で肌も綺麗だから」
「ありがと。でも生きている舞花ちゃんの方がずっと綺麗だよ」
私もこんなに美人なら、いじめられる事も無かったんだろうな。笑顔がとにかく素敵で、話している最中も愛嬌があり、鼻筋も綺麗。何もかもが美しく、これで死んでいるだなんてちょっと信じ難かった。
「そんな事はないです。私もその、夏樹さんくらい美人なら人生変わっていたかもしれないって思って……こんな、暗くて、あの、死にたいなんて考えることも無かったかもって」
「別に舞花ちゃんって自分が思ってるほど悪くないと思うんだけどね。それにね、私の事すっごい褒めてくれるけど、結局死んじゃったんだしさ。しかも自殺」
「えっ」
こんなに恵まれている人が、どうして。私はてっきり病死か事故死だと思っていただけに、軽い衝撃を受けて口元に手を当てたまま絶句してしまった。
「私ね、自殺なのよ。ガス自殺。だからね、死にたいって言う舞花ちゃんに対して説得力無いかもしれないけど、だからこそ同じようになって欲しくないんだよね」
「あ、いえ、説得力があるとか無いとかは思わないですけど」
なおも優しく微笑んでいる夏樹さんを見ていると、私はなんだか涙ぐんできた。
「え、ちょっと、どうしたの。けど、何?」
「ごめんなさい。ほんとに、ごめんなさい。でも、なんでそんなに美人なのに死のうなんて思ったのかわからなくて」
すっと目を閉じると、夏樹さんは私から目を逸らす。緩やかな風が彼女の髪の毛を僅かに揺らしたような気がした。
「私ね、生前は教師をしてたんだ、中学校の音楽教師。まぁ、仕事は割と好きだったんだよね。元々音楽好きで吹奏楽部とかに学生の頃から入っていたし、そういう仕事に何か就きたいなと思っていたのが叶ったから、教員になれた時は嬉しかったのは今でも覚えている。まぁでも、夢だった仕事でもやっぱり仕事は仕事、生徒の管理とか評価なんて苦手だったから楽しい事ばかりじゃなかったけどね」
仕事は仕事、か。私ももっと自分に合った仕事がもしあれば、もっと幸せだったかもしれないなんて思うことがよくあるけど、そういうものでもないのかもしれない。
「仕事もそうだったけど、先生方の集まりってのも苦手だったんだ。なんかさ、派閥とまではいかないけど、それぞれの教育方針を持っていたりするものだから、結構合わない人が多かったんだよね。だから休みの日とかに彼氏とデートするのが楽しみだったんだ」
彼氏、か。私には縁のない話だ。
「二つ上の彼でね、いろんな事を教えてくれたんだよね。ここの店が美味しいとか、ここに行けば景色が綺麗だとか、美術館は気楽に見た方がいいとか……すごく私の世界を広げてくれたんだ。憧れでもあったし、一緒にいるのがすごく楽しくて嬉しくて。だから、依存していたのかなぁ」
声のトーンは変わらないけれど、すごく寂し気に聞こえた。私は夏樹さんの横顔をじっと見るが、表情は一切変化ない。
「うん、そうだね、彼にもうべったり依存してたんだと思う。そんな彼に捨てられないようにって私なりに色々やったつもりだったんだけど、重かったんだろうね。結局フラれちゃってさ、捨てられたんだ。今にして思えば男の一人にフラれただけってわかるんだけど、でも当時は私の人生の全てだって思っていたからもうどうしていいかわからなくって、泣いても何しても気分が晴れなくて……たくさん睡眠薬飲んで、ガス自殺したの。その時はもう朦朧としてたから苦しいとかそういうのは思わなかったけど、でも死んでからふと意識が戻って倒れている自分を見たら妙に冷静になってね」
そこで一旦言葉を区切ると、自嘲気味に笑いだした。そして私の方をゆっくりと見る。
「ほんと、死んだらいきなり我に返ったの。何してるんだろうって。何てことをしちゃったんだろうって。でもね、そう思ってももうどうにもできないの。死んだらおしまい。取り返しも何もない。生きている時はどんなに辛くても何とか出来るけど、もう本当にどうにもできなくなっちゃうんだよね」
「そういうもの、ですか」
「まぁね、こればっかりは経験しないと納得できないかもしれないけど、でも経験したら最後だからね。そういうわけで、私の事を反面教師として見てくれればいいよ。あっ、元教師だからってシャレのつもりじゃないよ」
「あ、はい、わかってます」
いつしか陽気に笑う夏樹さんに対し、私は一体どんな顔をして聞いていればいいのかわからなくなってきた。元々誰かと会話のキャッチボールをした経験がほとんどないため、どうすれば上手い事を返せるのかとか楽しい話題をできるのかがわからない。わからないけど、死んだことについてあれこれ口を挟むのはまずいと流石に思った。
「……嫌な事、あるんだよね?」
うつむいていた私の顔を覗き込むように、夏樹さんは優しい微笑みを浮かべながらゆっくりと口を開く。私はそれに対して目も合わせず、一つうなずくだけで精一杯だった。
「その嫌な事もね、きっと今は適わないくらい大きな敵だって思っているかもしれない。色んなものに縛られていて、逃げるって選択肢も無いんだと思う。でも立ち向かうのも逃げるのも、結局自分の勇気なんだよね。それでね舞花ちゃん、勇気ってどうすれば手に入ると思う?」
そう言われて一秒も考えることができなかった。それがわからないから、ひたすら私は閉じ籠り、耐えてきた。言われたことをやってきた、言われない事をやろうとも思わなかったし、そもそも周りに誰もいなかったからできなかった。だから夏樹さんからそう言われても、ただ黙って時間が過ぎるのを耐えるという選択肢しか浮かばない。
その沈黙に夏樹さんもひたすら付き合ってくれた。二人で夏の夕闇の中、肌にまとわりつくような暖かい風を感じながら黙って座り続ける。虫の音がやけに響く。それでも私は夏樹さんから口を開くのを耐えて待っていた。どうせ言いたがりなんだ、あれこれ言って私を表面上納得させ、満足したいだけなんだ。だからそれを聞いてから帰ればいい、なんて思っていたのだが、なかなか話さない。何故だろう。
「ねぇ、もうすっかり暗くなったし、おなかも空いたでしょ。帰った方がいいんじゃない」
ようやく口を開いたかと思えば、思いがけない一言だった。あまりの一言に私は驚いて夏樹さんの方へ顔を向ける。
「え、あの、勇気とかって話は?」
「あー、それはまた今度でいいかな。ほら、暗くなってきたから危ないよ」
「えっと、どうしてですか?」
困惑する私に夏樹さんは変わらない微笑みを向ける。けれど月明りに照らされたそれは同性の私でも胸の奥を鷲掴みにされるくらい美しく、妖艶だった。
「だって今の舞花ちゃんだと、言っても響かないと思ったから。だから日を改めて、その時が来たら話すからね。今はほら、お月様も出てきたことだし、帰った方がいいよ」
「……わかりました。あの、では、帰ります」
すっと立ち上がると、お辞儀をしてから私は歩き出した。だが二歩前に進むと、堪え切れない思いが足を止め、私を振り向かせる。
「あの、明日も会ってくれますか?」
「もちろんいいよ」
同じように微笑んでいたはずなのに、今度はまるで太陽のような明るさを感じた。私もきっと笑っていたのだろう、頬が強張ったような不格好な笑顔を浮かべていたのかもしれないけど、晴れ晴れした気分で再び頭を下げると家路についた。足取りは軽く、胸の中いっぱいに嬉しいが広がっているのを感じ、また笑う。中学の時だったかに笑顔がキモいなんて言われて以来、怖くてあまり笑うことができなくなっていた。でも今はそんな事を忘れ、心が向くままの顔をしている。そして同時に、背中に羽が生えたかのようだ。
帰宅して一頻り用事を済ませてからベッドに入り、眠りに落ちる直前でも心は気持ちよかった。夏樹さんとはまだ二日目だけど、誰かとあんな風に普通に話すなんていつ以来だろうか。もう思い出せない。そしてどうしてこうなったのか、そのきっかけも思い出せない。多分ささいな事だったのだろう。本当に今から思えば、ほんのささいなズレや失敗。けれどそれがどんどん大きくなり、気付いた時にはどうにもできなくなり、どうにかしようとも思わなくなっていた。どうして私が、なんて問いかけも最近忘れていた。
ただ、今は胸に灯る温かいこの気持ちが私の中にこびりついている全てのネガティブを塗り潰してくれている。でも、もし、何でなどという言葉は忘れ、何でもいいからこのぬくもりに人知れず泣いていたかった。無理矢理閉じ込めた歪な心を優しく撫でてくれるような微笑みを思い出せば、鼻頭が次第に熱くなっていくのを感じ、私は顔を枕に押し付ける。そして、全てが闇の中に消えるまでそのままでいた。
それから私は毎日そこへ通い、夏樹さんと話すのが日課になっていた。もちろん日常はひどく辛く、苦しい。幸せを知ってしまったから、なおさら現状が地獄のように思える。けれども一日の終わりに夏樹さんと話せると思えば、今までと違った耐え方になった。それまでは自分の人生をひたすら削るような終わりなき耐久戦、けれど今はその日の私を削るだけの短期耐久戦。いつ果てるともわからない苦痛ではなく、あと数時間すれば夏樹さんに会えるという希望や目標があるから耐えられる、と言った方へシフトしていった。どちらも耐えることには変わりないのだが、現状の方が以前に比べてずっとずっと心が楽だった。
夏樹さんと話すと言っても、多分普通の女の子に比べてかなり会話の量が少ないとは自覚していた。色んな事を夏樹さんは喋ってくれるけど、私は相槌も上手く打てずに黙っている事も多い。他愛ない話でも少なからず劣等感を抱くことはあるけれど、でもそれ以上に話を聞いているだけでも楽しかった。そしてあれから特段、お説教めいた話も無く、今の時代には何が流行っているのか、自分が生きていた時にはあれが流行っていたなどと言った他愛もない話に花を咲かせていた。
「なるほどね、今はそんなに便利になってるんだ」
「夏樹さんが生きていた頃はまだネットとか無かったんでしたよね」
「ないない。三十年前だよ、私の家は物持ち良かったから学生の頃はまだ黒電話使ってたんだよ。使い方わかる?」
「えーっと、なんかこう、回すんですよね。具体的にはどうやるのか、ちゃんとわからないんです、すみません」
思わず頭を下げる私に、夏樹さんは小さく息を吐きながらも優しい微笑みをたたえていた。
「まぁ、私も今がどんな時代なのか大雑把にしかわからないんだけどね。だからなんだっけ、そのスマホだったかも存在は耳にした事あるくらいで、どんなものでどうなっているのかってのは全然わからないんだよね」
「あ、それは私もよくわかってないんです。色んな機能があるみたいなんですけど、ほんとに何個かしか知らなくて……ごめんなさい」
手元にあるスマホに目を落とす。電話とメール、そしてインターネットでニュースや動画を観たりするくらいで、あとの機能はほとんどわからない。数日前までは何とも思わなかったのだが、夏樹さんと話しているうちに今を生きているのに何て情けないんだろうとすら思うようになってきていた。
「仕方ないよ。それに限らず、なんか今の機械って操作複雑だからさ。私の時なんかボタン一つか二つ押したりすればそれで良かったけど、今はそうじゃないんでしょ。それより」
夏樹さんが微笑みを向ける。けれどその目は先程までのおっとりした感じとは違い、しっかりとした意志が灯っていた。
「舞花ちゃん、何でもない事に謝りすぎだよ。別に怒ってもいないのにそんなに謝られたら、私はそんなに気にしないけど、ちょーっと話しにくいって思われちゃうかも」
「それは、その……すみません」
「ほらまた。悪い癖だよ。いや、今のも別に怒ってるわけじゃないからね」
私はうつむいたまま、何も言えなくなってしまった。わかっている、こんな話し方をしては良くないなんて事は。けれど今なお続く私を取り巻く環境がこうさせている。夏樹さんはすごくいい人だ、優しくて気遣いがあって可愛らしい。私に対しても偏見の眼を一切持たない。だからこそ、怖い。嫌われたらどうしよう、そっぽ向かれたらどうしようと不安でたまらなく、それがつい言葉に出てしまうし態度に表れる。
「ねぇ舞花ちゃん、前に私が話しかけた事なんだけどさ」
すっと夏樹さんが私にではなく、前の方を向いたような気がした。
「舞花ちゃんは自分に自信が無いんだろうね。まぁ、そうなったのも少なからずわかるよ。辛い事たくさんあったんだからさ、しょうがないよ。ましてや私、幽霊だからさ」
違う、そんなことは無い。そう言おうとしたが、怖くて言葉が出てこなかった。言ったところで、私の言葉なんて信用されるわけがないんだろうから。
「自信が無ければ勇気も生まれない。これは私が生きていた時に座右の銘にしていた言葉なんだよね。漫画の一節だったか何かの歌詞だったか忘れたけど、すごい感動したんだよね、この言葉に。でもさ、今にして思えばちょっと足りないよね、これ。わかる?」
「いえ」
「ま、急に言われてもわからないよね。私はね、自信が生まれるには成功体験が絶対必要だと思うんだ。何もない所から自信なんてつくわけないもんね」
「成功体験……」
圧倒的に私に不足しているものだ。でも私だって人並み程度には体験はしている。テストでいい点を取ったり、高校や大学に合格したり、就職も出来た。最低限の事はこなせているはずなのだが、それを祝福された量がきっと他の人に比べて圧倒的に少ないんだ。親以外に祝福された事がほとんどなかったため、学校内の行事や仕事なんかで褒められた事が無い。だから私がしたことは大したことが無い、言ってしまえば誰でもできるどころか無価値なのかとすら錯覚してしまう。だから私の中にある芽が育たない。
「それでね、舞花ちゃんにその成功体験を実感してもらえればきっと今より生きやすくなるんじゃないかって思ったの。折角生きているんだもの、楽しい事や嬉しい事をたくさん知らないと嫌でしょ」
「それはまぁ、そうなんですけど。でも何をすればいいのか」
おずおずと顔を上げれば、嬉しそうに夏樹さんが振り向いてきた。
「こういうのってね、自分が苦手だとか無理そうだってのを克服できたら大きく成長できるものなんだよ。ねぇ、舞花ちゃんはどんな分野が苦手?」
「え、苦手なもの、ですか」
と言われても得意なものを上げる方が難しいくらいだ。それでもあれこれと考えてみる。学校の授業はあらかた苦手だった。人と話すのも苦手だし、何かを創造するなんてもっての外だ。ほんと、私には何があるのか考えるたびに陰鬱になってしまう。
「……舞花ちゃん、マラソンとかどう?」
そのあまりに突飛な提案に私は驚き過ぎて、声すら出なかった。そして何を思ってそんな事を言い出したのか思い図る事も出来ず、小刻みに首を横に振る事しかできない。
「うん、いいんじゃないかな、マラソン。あれこそ努力の結晶って感じじゃない」
「え、いやいや、無理です、無理ですってば。何でマラソンなんですか、何が努力の結晶ですか」
「違ってたら申し訳ないんだけど、舞花ちゃんって運動苦手そうだからさ」
「それはまぁ、そうですけど」
勉強は苦手ながらも進学のため、多少の努力は出来た。それに授業中も一人で黙々と進められたが、体育の時間などは誰も私に寄り付こうとしなかったため頑張ろうなんて気持ちも起きなかった。たまに先生が無理にペアを作ったりもしたが、相手の嫌そうな態度に私も申し訳なくなり、そしてそれがどれほど私の心を傷付けたかわからないが、ひたすらに苦痛な時間だった。小学生の時からそうだったため、中学高校なんて基礎もできていないから何をするにしても駄目。具合が悪いとずる休みをする事が多くなっていったが、誰も何も言わなかった。むしろ邪魔だったのだろう。
そんな私が今更体を動かす、しかもマラソンだなんて無理に決まっている。
「私ね、生前教師だったって言ったでしょ。それで授業中とかでもグラウンドで一生懸命走る生徒たちが見えていたんだよね。得意な子からそうでない子まで、がんばって取り組む姿勢ってすごく素敵だったなぁって思い出したんだ。だから」
「いや、だからとかではなく、その……無理です、ほんとに」
「えっと、舞花ちゃんって何か持病あったりするの?」
「それは……無いです」
基礎体力は低いし、年に何度か風邪もひいたりするけれど、大病を患ったりだとか持病があって生活が困難だとかいう事は無い。いっそ心臓病を患えば死ねるのに、なんて思った事もあった。けれどどうもこの体はそういうのは丈夫にできているらしい。
「じゃあさ、何で無理だって思うの」
「それは……運動とかほとんどした事ないですし、それに、そういうの私みたいな人間ができるわけないですから」
夏樹さんは呆れたようにため息を大きく吐くと、ゆっくりと二度三度とかぶりを振った。
「あのね、何もトップランナーになろうなんて言ってないよ。完走しようって話だよ」
「それでも、無理です。その、そういうのって元々運動してた人がやるものでしょうし」
「そうなの? ほんとにそうなの」
わざとらしく驚きながら、夏樹さんは私に顔を寄せてきた。怖くもあるが、同時にその綺麗な顔がこんなにも近付き、不意にどきりと胸が鳴った。
「あ、いや、その」
「舞花ちゃん、マラソンってのは努力の競技なんだよ。才能のあるなしに関わらず、やった分だけできるようになるの。若い子だけじゃなく、お年寄りでもよく走ってるの見ない? 健康な身体さえあればできるんだよ。うん、これに挑戦しよう」
「いや、あの」
「最初は歩く練習からだね。それからちょっとずつ、ちょっとずつ距離を伸ばしていくの。何も最初から十キロとか二十キロとか走る必要なんてないんだからね」
「夏樹さん、だから私には」
「走る、なんて生きている人の特権だよね。私はもう死んじゃったから、そういうのってできないんだ。激しく体を動かすってのが、そもそもできないの。別に体が重いとか苦しいってわけじゃなく、そういう風になっちゃうの。みんな同じ速度に。でもね、マラソンみたいに周囲の人達と走る速度がバラバラだけど、同じゴール目指して走るなんて素敵じゃない」
死んだからもうできない、なんて言われたら断りにくい。確かにボールを操ったり泳いだり絵を描けとか提案されるよりはまぁ、私だって走ることくらいは一応できるわけだから決して不可能ではない。けれど、やはり私は……。
「だからね、私の分まで走って欲しいな」
風が通り抜けた。生ぬるく、決して気持ちよくはない一陣の風。私は乱れた髪を軽く直すが、夏樹さんはその微笑みを崩さない。そして彼女の髪型もまた、崩れてはいなかった。彼女が動けば揺れることもあるが、風が吹いても動かない。触れたことは無いけれど、きっと私が触ってもそうなのだろう。
「夏樹さんの分まで、ですか」
「あぁ、でもそんなに重く考えないで欲しいの。一番は舞花ちゃんの中で成功体験を重ねたいの。だからほら、ちょっとずつ達成できる喜びを味わえるかなって」
「……それって、やらなかったら呪われますか?」
「いや、だから私にはそんな」
そこまで言うと夏樹さんは言葉を切り、代わりに口角を上げ不敵に笑った。
「そうね、呪っちゃうかもしれないわね」
「この場所にも、来られなくなっちゃいますか?」
「そうね、場合によっては」
一つ息を吐くと、私は頷いた。それが諦めなのか決意なのか、自分自身でも判然としないけれど、とにかく妙に落ち着いた気分になっていく。私は立ち上がってスカートの砂を払うと、改めて夏樹さんの方を向いた。
「わかりました。そこまで言うのなら走らないとならないですよね」
「分からない事があれば教えるから、とにかくやってみて。それと……もう帰った方がいいかもね。遅くなったから」
「じゃあ夏樹さん、また」
「うん、またね」
幾度目かの笑顔で交わすまたね、という言葉に私の胸は温かくなっていた。幾ら自分が他人から相手にされず、また近寄ろうともしていないからとはいえ、幽霊である夏樹さんとこうしていられるなんて、笑い話にしても冗談がきつい。それでもこんな穏やかな気持ちになり、頬も緩むなんて事は他の誰と相対しても無かった事だ。だからこそ、ほんの少しでも夏樹さんのために動いてみたくもなった。
すっかり陽の落ちた帰り道をいつものようにうつむき、歩く。そういえばマラソンをやろうにも靴が無いし、走るような服も無い。何をどれだけ揃えればいいのかサッパリわからない。ふっと諦めようかなんていつもの弱い自分が首をもたげたが、すぐに振り払う。そんなもの、少し調べればわかるだろう。それにやらないと、あの場所にもう行けなくなってしまう。そんなのは嫌だ。あそこは私が昔からいた場所だし、それに今は大切な人と話せる場所になったんだから。
私はすっと視線を上げて、前を見る。街灯に照らされた道路はそれなりに明るかったが、少し遠くになるとおぼろげな闇が覆っていた。
仕事が終わったその足で、私は駅前にあるスポーツ用品店に向かった。二階建てのそこに今まで入ったことは無いが名の知れた場所で、外観からもそれなりの種類の道具が置いてあると容易に想像できる。しかし、一度も入った事が無いのでどんなに場違いな女だと思われるのかと躊躇したが、店の前でまごまごしているところを知り合いにでも見られた方が耐えがたいと思い、意を決して中へと踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
複数の店員がどこからともなく、声をかけてくる。ドアが開いたらそう言うように指導されているのだろう、私の方へ近寄って来る人はまだいなかった。野球、サッカー、ゴルフなど様々な道具が所狭しと置かれており、目当ての物がどこにあるのかわからない。靴と運動着さえ買えばいいかと思っていたのだが、こういうものに触れたことのない私にとって置いてある靴は全て走るためのものに見える。
天井からぶらさがっている案内板を頼りにランニングコーナーに辿り着くと、色とりどりの靴がずらっと並べられていた。一体これはデザイン以外に何の違いがあるのだろうか。何を基準に選べばいいのかわからず、とりあえずどんなものかと手にしてみると、驚くほど軽かった。自分が今まで履いていた靴の半分か、それ以下の重量。一体どうやればこんなに軽いのかとまじまじと見ていたら、不意に声をかけられた。
「それ、ミズノの新作なんですよ。軽量なのにソールが強く、スピードレース向きなんですよね」
「あ、す、すみません」
私は急いで靴を元の場所に戻すと、店員さんが意に介さず笑顔で傍にあった別の靴を手にした。
「こちらはアディダスのロングセラーなんですけど、これもバランスがいいんですよ。少し幅広に作られているんで、愛用される方が多いんです」
「あ、あの、その……初めてマラソンというか、走ろうかと思って」
スラスラと話す店員さんに申し訳なく、どもりながら言葉を紡ぐ。顔から火が出るほど恥ずかしかったけれど、私の意を汲んでくれたのかにこりと笑うと、こちらですと少し離れた場所に案内してくれた。
「初心者の方でしたら、この辺のがオススメですよ。これとかいかがでしょう」
渡された靴は先ほどのものよりも重く、普段履いているスニーカーとさほど変わらないくらいだった。
「えっと、さっきのに比べたら、その、結構重いんですね」
「はい。先程の商品はフルマラソンを三時間台で走られるような、スピード重視のシューズなんですけど、こちらは初心者の方が無理せず足を壊さないように作られているシューズなんですよ。カカトの部分や底が厚くなっていて、足への衝撃をほとんど感じさせない作りになっています。ですから、ゆっくりと長い距離を走ってもそれほどはダメージを受けないんで、人気なんですよ」
明るい笑顔で勧める店員さんに対して疑問や質問を挟むほどの知識なんて無かった。私はうつむきそうになる顔をギリギリで踏みとどまらせ、ぎこちなく頭を下げる。
「えっと、じゃあ、それでお願いします。それと、その、ジャージと言うか、着るものも探していて……ごめんなさい、何がいいのか全然わからなくて、その」
「大丈夫ですよ。お好きなお色とかメーカーとかあります?」
心底申し訳ないと思いつつ、私は店員さんの好意に甘えることにした。
一時間半と四万円くらいかけて、一通り道具を揃えることが出来た。結構な荷物になってしまったため、このままいつもの場所に行くのは気が引けたので一旦帰宅する。荷物を置いたらすぐ向かおうと思ったのだが、買ったものをとりあえず身につけたいという欲求に抗えず、封を開けた。タグを取り外し、靴ひもを調整。初めて履くランニング用のタイツは結構な締め付け具合だったが、なんだか心までも引き締まったような気がした。もう陽が落ちかけているので帽子は要らないかもと考えたのだが、誰かにこんな姿を見られたくないとの思いから変装の意味合いもあってかぶる事にする。鏡の前でそんな自分の姿を確認してみれば、まるっきり運動なんてしてこなかったくせに、不思議とできるような気がしてきた。
「うん、初ランニングがてら行ってみるかな」
家の中で軽くストレッチをしてから、外へと出た。アパート周辺には既に夕食時のためか、さほど人はいない。小腹は空いていて、今から食べてもいいのだけれど、やはり夏樹さんにこの姿を見てもらいたいという欲求が勝り、走り始めた。
ゆっくりと、ゆっくりとシューズの感覚を確かめながら走り出したが、思いのほか気持ちよかった。運動不足の私でも前に前にと進めそうだ。またきついと思っていたタイツも足を引き締めてくれているからか、全てが軽やかに思える。なんだ、こんなの楽勝じゃないか。やらなかっただけで、やってしまえば案外簡単なのかもしれない。
なんて思っていたのだが現実はそう甘くなく、二百メートルも走らないうちに呼吸が荒くなってきた。脇腹も痛くなり、湧き上がる悔しさと恥ずかしさの中で歩き出す。けれど折角こんな格好をしているのにこれでは格好悪いと思って再び走り出すが、やはりまた百メートルもいかないうちに歩かざるを得なくなる。そんなことを三回ほど繰り返していると、次第に視界が滲んできた。
やっとの思いで神社の前まで着いた時にはとっぷりと日も暮れており、いつもならもうここから帰る時間になっていた。けれども折角来たのにすぐ帰るのもどうかと思ったし、夏樹さんに会いたい思いが強い。ただ同時にこんな惨めな私を見て欲しくない、合わせる顔も無いという羞恥も同じくらいあった。
前日の夜、そして昼休憩の時にネットで初心者向けのランニングの仕方やコツなどを一応調べてみていた。運動不足ではあるが、太ってはいない。むしろ少食なので痩せ気味な体型のため、膝にかかる負担の心配が無かったからすぐに走れるものだと思っていた。新調した一式を身に着けて意気揚々と走り出したら、これだ。自分がやる気になったところで、結局こんな惨めな思いをするだけなんだ。私は私を助けることもできない、生きている価値すらない。
しばらく鳥居の前でうなだれ立ち尽くしていたが、折角来たんだからせめて会おうと決意した。そしてやはり無理だった、やってみたけれど無理だったと言って辞退しよう。どんなにやっても駄目な人間、無価値な人間というのはいるものだと訴えてみれば、諦めてくれるだろう。すごく寂しいけれど、納得してくれるはずだ。
「何言ってるのよ、そんなにすぐたくさん走れたら今頃みんなオリンピックに出れるわよ」
境内裏で待っていた夏樹さんに胸の内をさらけ出すと、呆れたように笑われた。一生懸命この気持ちを伝えたのに、どうしてそんな事を言うのだろうか。私はちょっと悔しくなり、うつむきながら鼻頭が熱くなるのを感じた。
「でもね、昨日言ってすぐに実行したのはすごいじゃない。本当に偉いよ。普通の人だってきっと、なんだかんだ言い訳を探してやらないと思うから。それにそのウェア、すごく格好良いね。へぇ、今ってそんな感じなんだ」
まじまじと見られているのを感じ、悔しいやら恥ずかしいやらもうわけがわからない。
「私達の時代なんて走ってる人は大抵短パンにTシャツとかだったからさ。今のって凄いお洒落で格好良いんだね。私もそんなのだったら、走ってたかもしれないな」
「あの、もう、いいです。もう、やめるんで」
必死に振り絞る声も途切れ途切れだったが、それでも意志は伝えられた。これでもう辞められるんだと思っていたら、いつの間にか私の前に夏樹さんがしゃがんでおり、うつむいていた私と目が合う。
「舞花ちゃん、私は今すっごい感動しているの。死んでからそんな事は思ってなかったはずだから、もう三十年以上ぶりかな。だってね、ここで初めて会った子が私の言葉がきっかけでマラソンをやろうと走り出したんだよ。舞花ちゃんはね、誇っていいんだよ。何がキッカケでもいいの、とにかく走り出せたんだから」
「でも、でも私、全然駄目で」
「今までやっていなかったものを初めてやったんだもの、上手くなんていかないよ。誰だって初めてやる事は上手くなんかできないの、それが世の中なの。もしも最初から上手くできる人をみかけたら、それは飛びぬけた才能があるか、もしくは他の分野で物凄い努力を重ねた人なんだよ」
「……そうなんですか?」
「うん、間違いない。才能はともかく、努力と言うのは自分のベースになる経験値みたいなもので、例えば数学が得意な子がピアノをやろうとすると、数学で培った努力をそこにぶつけるの。するとね、上達が何もしていない子より早かったりするんだよ。何故だかわかる?」
私は今にも泣きそうな顔を横に振るしかなかった。
「それはね、数学で養った着眼点、ポイントの見つけ方、どうやれば上達できるか、どう勉強すれば伸びるか、そして自分はどこまで耐えられるのかってのを知っているの。深く勉強していればいるほど、それができるようになるの。どこかの努力は別の分野でも生きてくるものなんだよ」
「でも私は、そういうの何もないですから」
「だから今からそれを養うんだよ。その第一歩を踏み出そうとするのはとっても怖くて、不安いっぱいで、でもすっごく輝いてるんだよ。それを見られたのが私、もう感動しちゃってさ。涙なんか今更出ないんだけど、もし泣けたら泣いてるよ。こういうのは遅いとか早いとかないの、いつでもいいから踏み出すのが大事なんだよ」
「でも、でも私は」
堪え切れずぽろぽろと涙がこぼれる。そしてそれは私を見上げている夏樹さんへと落ちていく。だが夏樹さんはよけようとも、目を閉じようともせずただ黙って笑顔で私を見詰めていた。
「重要なのは今日走り出したって事なんだからね。走り出す前まで、どんな感じだったのか思い出して。きっと凄く不安だけど、どこかでワクワクしてたんじゃないかな。やった事の無いものに興奮できるなんて、凄い事なんだよ。他人がどうこうじゃないの、舞花ちゃんがやろうと思ってやった事が大事なんだからね」
「う、あ……ありがとう、ございます。でも、もう足が痛いし、それに、ネットで調べてみても、なんかよくわからないし、それで……」
「足が痛いのは生きている証拠。努力による痛いとか苦しいとか、そういうのはしている最中は不幸で苦痛かもしれないけど、それを乗り越えたら成功体験の笑い話になるんだよ」
そう言いながら夏樹さんは慈しむような眼を私の足に向ける。
「がんばった足だよ。すごいよ、本当に。もう私ではどうにもならない事をやっているだけで、本当に心の底からすごいって思えるんだよ。それにね、もし走るための知識が欲しかったら、少しくらいなら手助けできるから。だから遠慮なく聞いてよね」
「夏樹さん、ありがとう、本当にありがとうございます」
またこぼれ落ちそうになる涙を拭い、無理矢理笑った。そしてきっとぎこちなく不細工な笑顔をしているにもかかわらず、とびきり美しく可愛らしい笑顔を見せてくれる夏樹さんに対し、不意にある疑問が浮かび上がった。
「あの、ところで……ごめんなさい、失礼な質問だったら本当に申し訳ないんですけど」
「ん、なぁに?」
「夏樹さんって確か、音楽の先生でしたよね。昨日も思ったんですけど、なんでそんなに走る事に詳しいんですか?」
ほんの少しだけ夏樹さんの笑顔が固まったが、すぐにまたいつもの柔和な顔に戻った。そうして立ち上がると一旦空を見上げてから、私の方へ向き直る。
「んー、実はね、その死ぬ原因になった元カレって言うのがね、同じ学校の体育教師だったんだよね。そういうわけで、ちょっとだけそういうの聞きかじったんだけど、それでも全然知らないよりかは何かしら知っているわけだから、もし必要だったらアドバイスしてあげるからね」
思いもしなかった発言に、私は何という失言をしてしまったのだろうと後悔した。知らなかったとはいえ、不躾にも程がある。どうしようかと右に左に目を泳がせながらも、何とか言葉を絞り出す。
「その、知らなくて……あ、ごめんなさい」
「ううん、気にしないで」
「いやでも、そういうの抵抗とかあるでしょうし」
「あ、本当に大丈夫だから。もう死んだから今更そんな事を引きずったりなんかしてないよ。まぁ教えると言っても三十年前の知識だからさ、どれだけ役に立つかなんてわからないけど、私が得た知識で舞花ちゃんが成長してくれるなら嬉しい限りだよ」
きっと夏樹さんは本心からそう言ってくれているのだろう。しかし彼女の言うように死ねば何でもかんでもそうして納得できるようになるものなのだろうか。たまに聞く怨霊とか地縛霊なんかは現世に恨みつらみがあると聞いているけれど、そういう方が特殊なのだろうか。好奇心で訊いてみたくもあったけど、やめた。訊いたところできっと、そういう霊ではないのだからわからないだろう。私だって凶悪犯罪者とか理外の人の心理がわかるかと言われてもわからない、きっとそういう事だろうから。
「いえ、あの、本当に嬉しいです。その、自分で調べてもわからないとこもあって……。だからこう、直接教えてもらえると、何と言うか、ありがたいです」
「だったら嬉しそうに前見て、笑ってよ。マラソンって下を向いたり上を向いたりすると辛くなるから、しっかり前を見るんだって。まずはここからがんばろ。ね、舞花ちゃん」
呼びかけられるといつもの癖でうつむきそうになるが、言われた端からそんなのではいけないと自分を鼓舞し、まっすぐ夏樹さんと向き合った。すると彼女はとても嬉しそうに笑いかけてくれる。
「いい笑顔じゃない、それを忘れないで。ほら、今日はもう遅いから帰った方がいいよ。明日から色々教えてあげるから」
「よろしくお願いします」
笑顔で別れると、私は鳥居をくぐるのと同時にゆっくり走り始めた。ひどく足が重く、太ももやふくらはぎは既に筋肉痛のような痛みがあったが、それでも言われたとおりに前を向いてゆっくりと走る。来た時とは違い、無理なく自分のペースで。本当にできるのだろうかという不安は未だ全て拭いきれていない。けれどこんなに応援されたり肯定される事が無かったから、じんわりと熱い炎のような情熱が湧き上がっているのを感じてもいた。
それから夏樹さんと私の二人三脚でのマラソンが始まった。夏樹さんから基礎的な事を教わり、そうして次の日にトレーニングの成果を報告するというのが日課となっていた。初めは三十分の練習のうち十分歩いてから十分ゆっくり走り、残り十分をまた歩くというものだった。それでも私にはとても辛く、幾度となく愚痴を吐いたりもう辞めたいと泣き言を連ねた。夏樹さんはそんな私に時に優しく、時に厳しく、真正面から受け止めてくれた。ぶつかったりする時もあったけど、それだってもきちんと私を見てくれているのはわかっていたから、単なる甘えでそうしていた。
何だか日常的に走っている人からすれば恥ずかしいような練習内容だけれども、次の日も、その次の日もと連日走り続けているうちに変化が表れてきた。一週間もすればその練習が次第に苦ではなくなり、歩く時間を短くして、走る時間を長くする事が出来た。一ヶ月もすれば止まらずに三キロは走れるようになってきていた。すれ違うランナーから見れば酷く遅いのだろうけど、それでも私からすれば驚くべき進歩だった。
日常生活での変化は他にもあった。まず食生活を気にかけるようにした。それまでは朝は前日コンビニで買ったパンを少し食べ、昼には外食、夜は疲れていて面倒だからとカップ麺かお店でのテイクアウトが主な食生活だった。しかし走るからには食事も大切だと夏樹さんからの言葉でも、ネットの情報でも強く言われたため、見直しをかけた。朝は少し早く起きてご飯を炊き、目玉焼きにお味噌汁、そして野菜を必ず取るようにした。本当はお昼もお弁当でバランスを整えればいいのだろうが、あいにく会社の中ではお弁当を食べる場所がない。と言うかなるべく職場から離れていたかったため、外食に逃げざるを得なかった。それでもファストフードは敬遠し、ラーメンの頻度も月に一度くらいに減らして魚を中心とした定食を食べるように心掛けた。肉に比べて魚は調理が苦手だったので、どうしても外で摂る必要があったからだ。夕食は野菜とタンパク質を重視したメニュー。
料理はさして得意ではないので最初のうちは慣れないランニングと相まって苦痛でしかなかったが、それでも続けていれば作れるものが増えていくし、わざわざ外食をしなくても食べられるようになったのは大きい。それに、何より安上がりだった。仕方なくや何となくで行う作業でも自分自身の成長を感じられ、一ヶ月もすればそれまでの自分と大分違っているように思えた。
残念ながら職場やその他の人間関係に変化はなかった。相変わらず肩身は狭く、無視は続く。元々いない友人から連絡が来ることも無く、話す相手は夏樹さんだけ。まぁそこに何かしらの期待や欲求は既に捨て去っているので、今更悔しいも悲しいも無い。むしろ夏樹さんからかけられる言葉が嬉しく、楽しく、私の全てだった。
「ねぇ、大分走れるようになってきたね。昨日は何キロ走ったのかな?」
「昨日は休みだったから、二十キロ走してきたよ。まだまだペースはゆっくりだけど、でも半年前の私に比べたら別人だよね。今日は昨日のクールダウンも兼ねて軽く五キロ。ちょっと足が重たいけど、まだ走れそうなんだよね」
二月の風は足を止めると冷たく、寂しい。この辺はあまり雪の降らない地域だけれども、それでも境内裏の草木は枯れ果てており、昼下がりだと言うのに物悲しい冬の景色を前面に出している。かすれた茶色だけが広がる世界の中、緑色を基調としたウィンドブレーカーに身を包んだ私は異彩を放ちながらストレッチをしていた。夏樹さんは例の紺色の着物のまま境内の縁に腰かけており、そんな私をいつもの笑顔で見てくれている。
「でも長い距離を走った後は休養しないとね。舞花ちゃんが見ているやつにもそう書いてあるんでしょ」
「そうなんだけど、でも」
「駄目よ、そういう情報ってのは先人が失敗の果てに残した物なんだから。その場限りできるのと、継続してできるというのは大きな隔たりがあるんだから」
「……そうだね。ありがとう夏樹さん。いつも止めてくれて」
私は真正面から笑顔を向けると、屈託のない笑顔をもらった。
今年に入ってからくらいだろうか、気付けば夏樹さんに対しては以前のように過度に怯え、口ごもる事が無くなっていた。それはこれだけの期間、心を許して話し合えていたからなのか、それとも同じ方向を向いてくれているからなのか、そのどちらもなのかはわからない。ただ、私自身も出来ない辞めたいなどと言うネガティブな話題よりも、どこまで行けるのかどこまでできるのか試したいといったポジティブな話題が増えたように思う。
「ところで舞花ちゃん、もうそれだけ走れるようになったのなら、新しい目標を設定してみたらどうかな」
「新しい目標?」
とりあえず今の目標は三十キロ走破だ。これもきっと春になるまで、あと二ヶ月もあれば達成できるはずだが……。
「そう、大会出場。正式にフルマラソンの大会で走ってみたらどうかな」
「えっ、本気ですか?」
この話を受けた時から心のどこかで覚悟していた事だったが、こうして言葉に出されるとかなり大きな壁をまだ感じざるを得なかった。フルマラソン、それは半年前まで自分とは別世界の超人達が行うものだと思い、無縁だと思っていた。けれど夏樹さんからマラソンの挑戦を勧められ、こうして走り込んでいくうちにそれが現実的なものとして見えてきていたのは間違いない。ただ、こうして一人で走っていても達成感や成功体験は得られているので夏樹さんの思惑は成功していると思う。
「うん、本気だよ。やっぱり大会に出て完走したら本当のゴールって感じがしないかな」
夏樹さんの言う通り、やはり非公式で走っていても大きな形にはならないかもしれない。特に確固たる自分と言うものが無い私にとって、一人で何かを達成したところでまた負の感情に支配されたらそれを無かった事にしてしまうかもしれないからだ。だったら大会に出て、完走した証を残しておけば振り返った時に確かな財産になっているだろう。
「はぁ……この私がフルマラソンの大会、かぁ」
それでも怖かった。しかしその怖さは以前のような得体の知れない怖さというよりも、手が届きそうだからこそ失敗したらどうしようというものになっていた。
「ほんと、舞花ちゃんは走り始めてから変わったよね。今だってそう言いながら、真っ直ぐ前を見ている。うん、綺麗になったよ。本当に、綺麗」
「えっ、綺麗って」
思いがけない言葉に慌てて夏樹さんの方を向けば、目を細めながら微笑んだ姿が妙に艶っぽく見えた。そうして何かを言おうとしてちらりと見えた舌先が淡い桃色をしており、少しだけ動いたように見えたのだがすぐに隠れる。その仕草だけで私は金縛りにあったかのように動けなかった。同性ながら、強烈に魅了するものを感じたからだ。
「言葉通りだよ。自分に自信が付いたからか、生き生きとして見えてすごく綺麗になった。ねぇ、誰かに言い寄られたりとかした?」
いたずらっぽい笑顔になった夏樹さんに私は動揺を誤魔化すよう、鼻で笑う。
「いや、そんな事は無いです、絶対に無いですから」
「そうなの? じゃあ、みんな見る目が無いんだね。私が生きてたら、すぐに声かけるのにな」
冗談や社交辞令だとわかっている、けれどそれすら本気で受け取ってしまいたくなっていた。何かを勘違いしてしまいたくもなる、だって貴女のおかげでこんなに自分が前向きになれたのだから。勘違いをしたままいけない感情に走りたくもなる、決して届かないけれど。迷いたくもなる、今まで通ったことのない道だから。ただ、そこにすがってしまうのは絶対に間違っている。永遠に叶わないままだから。
「やめてよ、ほんと夏樹さんそんな事ばっかり言って。そんな綺麗な人がそういう事を言ったら誤解されますよ」
「いいもん、私どうせ死んでるからさ」
「またそうやって逃げるんだから」
溢れ出そうな心を押し込めて、いつものように私は笑った。そうすると夏樹さんも嬉しそうに笑ってくれる。あぁ、この笑顔が好きだ。こうして笑い合うのが大好きだ。私を救ってくれたこの笑顔が見られるのならば、たった一つだけ心を殺して前を向こう。そして夏樹さんの提案を聞き、必死に叶えてまた褒められよう。
「ところで舞花ちゃん、大会って言っても私の時とは大幅に行われる数とかルールとか変わっていると思うんだけど、それでも出てくれる? 私ね、その方がきっと舞花ちゃんにとって良いと思うんだよね。だって大人になってから褒められるって、なかなかないじゃない。大会に出ればそういう感覚を味わえると思うの。だからね」
「うん、じゃあ出ようかな。そしてこっちで色々調べてみるね。夏樹さんがそこまで言うのなら、出てみようかな」
「あ、でも私はそういうの出た事無いから、私が言ったからって軽々しく出るってのは」
「何を言ってるんですか、今更。そもそもマラソンだって夏樹さんからでしょう。大会だってその時から心のどこかでいつかはなんて思っていたんで、まぁいいキッカケだと思ってやってみようかな」
ほんの少しだけうろたえた夏樹さんが可愛かったけれど、それよりも安心させたくて私は力強く宣言して見せた。夏樹さんも私につられて微笑みを取り戻すと、ふっと一つ息を吐いたように思えた。
「舞花ちゃん、ほんと強くなってきたよね。だから綺麗になったって思うんだ。……ほら、そろそろこれ以上いたら体も冷えるだろうから、帰った方がいいよ。また話そうね」
「そうだね。また明日、大会について調べたら来るからね」
私はストレッチを切り上げると、軽く手を挙げてから去った。来た時には重くだるかった足も色んな話をしながらストレッチをしていたせいか、乳酸が抜けて幾分か軽くなっている。私は遅くなってしまった昼食のメニューを何にするか考えながら、自宅へとペースを上げて走った。
それから二日間、私はフルマラソンが開催される大会について可能な限り調べた。と言っても遠くの他県までは仕事の休みも旅費の都合もつかないため、近場で開催されているものに絞って探してみたのだが、これが思ってた以上にあって驚いた。そうしたものに今まで興味が無かったので、フルマラソンなんてせいぜい年に数回くらいしかないんじゃないかと思っていたのだが、大小含めてかなりの数が様々な地域で行われている事にびっくりしながらも、面白くなって探した。東京マラソンのような物凄い人数で行われる国際大会から、ちょっと片田舎で行われる地元の名産を食べながら完走を目指すような楽しそうなものまで様々なものがある。
あまり本気の大会だと初参加には気が引ける。しかし逆にあまりのんびりとした感じの大会だと、自分一人必死に走っている感じがして恥ずかしい。そして真夏や真冬も嫌だ。となると春か秋、今は二月だから五月か六月、もしくは九月か十月その辺りだろうか。しかし秋だとこのモチベーションを保てるのだろうか。どうせならもうやると決めているから、春にした方が目標への情熱も失われずに済むかもしれない。
色々考えた結果、六月の第二日曜日に開催される藤倉マラソンというものに参加しようと決めた。参加申し込みは来週までだったので、慌てて申し込みを済ませる。メールにて参加の旨を送信した時、私の心の奥底で一段と強く燃え上がるものを感じた。同時に、もう後には引けないとも。
私の後ろは振り返って見てはいないが、奈落へ続く崖があるだろう。そうしてそれは日に日に崩れていき、立ち止まっていてはそのまま崩れ落ちてしまう。落ちればもう二度とは這い上がれないだろう。そんなありもしない幻想が浮かんだが、やる事は変わらない。走るしかないのだ。走って走って、休んではまた走る。本番まで四ヶ月を切った私にはあまりのんびりとした時間は無い。多少無茶でも、やってみよう。
それから私は貪欲に練習に取り組んだ。生活はもうマラソン一本に絞っており、全てがそこへ向けてのトレーニングだとすら思っていた。移動も基本的には徒歩を主とし、エレベーターなどがあってもなるべく階段を使った。仕事は相変わらずだったが、マラソンとは孤独に耐えて一人で苦難を乗り越えるものだろうからと、精神修行だと言い聞かせた。そして就業後の練習にしても、ただ長い距離を走るだけというよりも様々な工夫を取り入れるようにした。ゆっくりと長い距離を走ったり、十キロなら徐々にペースを上げて最後には全力で走るようにしたり、走っている最中にダッシュを取り入れたりなど、ネットで調べたトレーニング方法で良いと思ったものはどんどんと取り入れた。
その頃になると夏樹さんの知識よりも私の知識が勝るようになってきていた。言っても彼女の知識は三十年前の聞きかじりであるけれど、私のはネットで最新のを幅広く瞬時に取り入れることが出来る。それに対して夏樹さんは何も言わなかったし、何の落胆も無さそうだった。ただ、だからと言って夏樹さんと話す時間が減ったわけではない。練習を終えてから叱咤激励されたり、他愛もない話に花を咲かせるのが何よりの楽しみだった。
順調に、そして着実に私の走力は上がっていった。練習の量も質も私の体力と気力に比例して上がっていき、今では四十キロどころかかなりゆっくり走れば五十キロだっていけるようになっている。走り初めに比べたら信じられないくらいの体力が付いたし、出来る事だって増えた。気持ちも前向きになれたし、目標に向かって生きる自分にも生まれ変われた。成長はしている、間違いなく。
だけど、怖い。途轍もなく怖くてたまらなかった。
レースを明日に控えた今、私は不安と恐怖に押し潰されそうになっていた。今まで積み上げてきたものはまるで無かったかのように心の中は空虚で、失敗の絵しか浮かばない。砂上の楼閣、とはこの事だろうか。とにかく急に腹痛になったらどうしよう、足を踏まれて倒れたらどうしよう、前も見えないくらいの雨が降ったらどうしようなどばかり考えてしまう。確かにそれは徐々に徐々に明日が近付くにつれ思っていた事なのだが、今朝起きてから爆発してしまった。
普段からそんなに仕事が出来る方ではないのだが、そのせいかやけにミスの多い一日だった。簡単な計算を間違えていたり、誤字脱字があったりなどと集中力を欠いていたため結構叱られてしまい、心は段々と暗闇の中に落ち込んでいく。いつもに比べて終業まで長く感じたけれど、これが終われば明日が来てしまうと思えばまた怖かった。明日は日曜日で、念のため月曜日も休みをもらっているので体力的にはきっと大丈夫なのだろうが、それ以前に今はスタートラインに立てるかどうかすら怪しい。
だから仕事を終えると一目散に帰り、着替えるとすぐに夏樹さんが待つ境内裏へと走り出した。ストレッチもそこそこにし、足の具合を確かめるように数十メートル歩いてから駆けていく。いつからだろうか、こうして走っていれば心が落ち着くようになったのは。嫌な事があれば前なら布団をかぶって泣いていた。けれど今ではこうして走っていれば少しずつ消えていくような感覚がある。目の前の景色にだけ集中し、体の息遣いを感じ、ただひたすら前を向いて走っていれば雑念が消えていく。苦しいけれど、あの電柱までがんばろう。そんな思考だけが頭を占めるのだ。
神社に着く頃には若干落ち着きを取り戻し、体も温まっていた。あれほど遠いと思っていた神社も、今ではウォーミングアップの距離となった。私は流れる汗を手の甲で拭うと、新緑もゆっくりと黄昏に染まる参道を歩き、境内裏手へと回る。するといつものように夏樹さんが腰を掛けて待っていてくれていた。
「夏樹さん、こんにちは」
「こんにちは、舞花ちゃん。って、どうかしたの、そんな顔して」
夏樹さんは立ち上がるなり、心配そうに私を見てきた。
「えっ、そんな顔って?」
「すごく怖がっているような、怯えているような顔をしていたから」
そうか、私は精一杯笑ったつもりだったのだが、それを隠し切れないくらい顔に出てしまっていたんだ。
「それはまぁ、明日が本番だから……やっぱり怖いなぁって」
「あ、そっか、明日だもんね。そっかそっか、それは不安になるかも。まぁ座ろうよ」
私は夏樹さんに促され、境内に揃って腰を下ろす。夏樹さんに会ったら色んな悩みを話してはすっきり気持ちよくなって、そうして明日のレースを楽しく走ろうなんて思っていたのだが、いざ並んで座ると何から話せばいいのかわからなくなってきた。だからそのまま夏樹さんへは目を向けず、前を見ながら頬杖をついていたのだが、次第にずるずると崩れ落ちていく。
「夏樹さん、やっぱり私ダメだよ」
「何を言ってるの、今更。たくさん練習してきて、色んな事を学んできて、一つずつ課題をこなしてきたじゃない。自分を信じればいいだけじゃない」
私は膝に顔を埋めたまま力無くかぶりを振る。
「私もここまでやったんだから自分を信じたいんだけど、できない。失敗したらどうしようってばかり考えちゃって、怖くなる。急に体調不良になったり、転んだり、思ってたよりもバテたり、なんて色々考えちゃう。やっぱり無理だったのかもしれない」
「舞花ちゃん」
さっと六月の夜風が流れていく。熱を伴ったそれは同時に草木の匂いを十分に乗せ、私の体を撫でる。そしてそれは決して私に触れない夏樹さんの声と合わさり、まるで夏樹さんがそうしているかのように感じた。
「世の中ね、まぁ少なくとも私が生きていた時はね、そんなのは不安だらけでどこにも成功する保証なんて無いものなんだよ。それが当たり前なんだよ」
「でも、みんな楽しく明るく生きてるじゃない」
「そういう人達にだって、不安や悩みは必ずあるんだよ。誰だって失敗するのは怖いし、初めてやる事には足もすくむ。ごく一部の人を除いて、大半の人達はみんなそう。同じような仕事だって、ミスをするかもしれない。毎日が怖いことだらけの連続、嫌なことだらけの毎日。まぁそうだよね、誰も明日がどうなるかわからないんだから」
じゃあやっぱり、みんな私よりもメンタルが強いのだろう。みんなそう思いながらもしっかり生きているのならば、こうして迷っている私は社会の脱落者、不適合者なのかもしれない。
「でもね、だからこそみんな努力して失敗する確率を減らしていくんだよ。それでも失敗する時は失敗する。でもね、だからこそ面白いんだよ。失敗しないものなんて面白くないよ。必ず勝てるゲームなんて面白いのは最初だけ、どうなるかわからないからみんな一生懸命に挑戦するんだよ。怖いのは誰でもそう、みんな緊張して当たり前。だから舞花ちゃんがそうなるのは、当然の事なんだよ」
「そうかなぁ……そうなんだろうか」
わからない。けれど私を一生懸命に励まし、前を向かせようとしてくれている事だけはわかる。説教じみた言葉は残念ながら響かないけれど、でも私の事を見て私のために叱咤激励してくれる夏樹さんのその姿勢に私は随分と楽になってきていた。私は少しずつ顔を上げ、そうしてようやく夏樹さんの顔を見上げる。夏樹さんはこの時でも、いつもと変わらない微笑みを崩していなかった。
「そういうものだよ。まぁ、迷ったり下を向いているとそういうのってわからなくなって、何で自分だけがこんな目にとか、どうせできないんだって思いがちになっちゃうんだよね。そういう時は一回空を見上げればいいんだよ。そうすると、ほんの少しだけ楽になれるから。ほら、やってみて」
「……ありがとう、夏樹さん。うん、そうだね……少し楽になってきたかも」
言われた通り、夜空を見上げる。すると六月の空は雲を散り散りにしながらも、寄せ集まっては消えていく。まだ闇に染まりきっていない星がまばらな夜空だけれど、光に満ちた世界が確かにあった。
「うん、舞花ちゃんもいい顔になってきた」
「それはほんとに、夏樹さんのおかげだから。あぁ、こんなに親身になってくれる人が先生だったら、学生時代もっと楽しかったのかなぁ」
学生時代、先生の大半は見て見ぬふりだった。訴えてもまともに取り上げられる事は無く、またどうかしたのかと声をかけてきたから悩みを話したのに、頑張れといった無責任な言葉しかくれなかった事がほとんどだ。いいから話してみろと言って話しかけてきても、それきりだった事もある。そんなやつらに比べたら、夏樹さんが今の私にとってどれだけ救いになっているのか比べようもない。
「うーん、でもそれはさすがに買いかぶりすぎだよ。結局私だって、自分の弱さから自殺しちゃったような人間だったからね。今は死んで責任も時間制限も無いから付き合えるけど、生きていたら色んなものを背負っているだろうから、どうだったかなぁ」
自嘲気味に笑う夏樹さんにかっと熱くなり、私は無意識に顔を近付けていた。
「いや、夏樹さんならきっと今みたいにしてくれるよ。今だって物凄く、救われているんだから」
面食らった顔を見せたのもつかの間、すぐに夏樹さんはいつものような微笑みを浮かべる。
「ありがとう」
決して大きくないその一言がまるで水を打ったかのように響いた。凪ぐ風も虫の音も遠くを過ぎ去るバイクの音も何もかも、静寂に包まれたかのようだった。一切の周囲は消え失せてしまい、私と夏樹さんだけがこの世界にいるようだ。彼女の眼は私を映している、私の眼もきっと同じようにしているだろう。瞳の中の私とこの私がまるで一つになってしまいそうな錯覚。こんなにも綺麗で素敵な人から真正面に見つめられている。私を、私だけを見てくれている。
「さぁ、明日は大会なんでしょ。今日はもう早く帰って備えた方がいいよ」
「あ、うん」
すっと視線を外されると夏樹さんは月を見上げたで、私それにならう。綺麗な三日月だった。黄色と言うよりは白に近い色合い。しばらく一緒に見詰めてから、私は短く息を吐くと立ち上がった。
「それじゃあ、がんばってくるね」
「応援してるから」
鏡をもっていないのではっきりとはわからないが、きっと私は大きな笑顔を浮かべているのだろう。夏樹さんも満面の笑顔で手を振り、送り出してくれた。私は背を向けゆっくりと歩き、鳥居をくぐるなり走り出す。不安や恐怖はまだあるけれど、来た時のようなものではない。それよりも応援してると言われた事が嬉しくて、胸が熱くて仕方ない。空を見上げれば、やはりまだ三日月が笑っていた。
翌朝、うっすらと日差しが見える程度の曇天だったのを確認すると、私は小さくよしと呟いた。雨が降っていれば体が冷えるし、転ぶリスクも高まる。逆に快晴だと熱中症になるかもしれない。このくらいの天気の方が走るには丁度良いだろう。荷物は何度も確認したし、会場までのルートもこれまた何度も足を運んで確認した。どんなペースで走ればいいのかは幾つものサイトを見て、何度か実践したから大丈夫。そして、ポケットにはいつもの神社で買った必勝祈願のお守り。少しでも夏樹さんを感じていたかった。
「いってきます」
誰も残っていない部屋にその言葉を置き去りにすると、私は家を出た。早朝の空気を胸いっぱいに吸うと、神社の方を一瞥してから駅へと向かう。夏樹さんと会うのはしっかり完走してから。つまり、会うためには何が何でも完走しないとならない。私の居場所はあそこしかないのだから。
会場に着くと、そこはもう大勢の人でごった返していた。会場に着く前からぞろぞろとランナーと思しき人達がみんな同じ方向へ歩いており、頼もしいと同時にこんなにいるのかと驚きながら歩いていたのだが、到着してからもっと驚いた。大きな公園のはずなのだが、人で溢れておりどこでストレッチをすればいいのかわからないくらいだ。それに色んな人達がいる。見るからに体が絞られておりトップランナーみたいな若者、六十代か七十代くらいのお婆さん達、少しぽっちゃりとした中年男性、そして仮装している若い女性。
様々な体型、様々な年代の人達を通り抜け、私はゼッケンを受け取ると必要最低限の荷物以外を預け、僅かなスペースを見つけてストレッチをする。自分だけに集中するんだ、なんて必死で言い聞かせるけれども、ちらちらと周囲を見ればみんな物凄く速く見える。鍛えられ、無駄な贅肉など無くて走り慣れている感じが一目でわかる。胸に込み上げるものを感じながらストレッチを終えると、今度は公園の中で皆と同じようにウォーミングアップとして走り出す。最初は軽く、徐々にペースを上げ、全力で少し走り、そして脱力しながらゆっくりと。それを自分のペースで二度三度とやっているうちに私は耐えきれず、走る場所から少し離れて腰を下ろし、ストレッチをしている風にしながら涙ぐんだ。
もう無理だ、耐えられない。
ひっそりと涙を拭い、うつむく。自分なりに一生懸命練習はしてきた、以前の自分に比べたらかなり頑張った方だろう。少しずつ前向きにもなれた。けれど、だからと言ってここに来たのは間違いだったかもしれない。みんな速そうだし、場慣れしていそうだ。初めて大会に参加するような私なんて、場違いなんだ。大会なんか出ちゃいけない人間だったんだ。そんな負の思考が加速度的に広がり、また涙がこぼれそうになった時、夏樹さんの声が聞こえたような気がした。
鉛のように重たい頭をゆっくりと、泣きそうなのを悟られないように空を見上げてみた。
曇天の空でも所々陽がさしているからか、眩しくて思わず目を細める。そんな状態でも空は青く、雲は雄大に広がり流れているのがわかった。あの空には誰もいない。あんなに窮屈に感じていたこの場所なのに、見上げれば寂しいほどの解放感すらある。雲の上には誰もいない、自分一人あの空に吸い込まれたらこんな世の中でも寂しいと思うのかもしれない。
しばらくして涙も乾いたので、私は再び周りを見回した。周囲には変わらず多くの人達がストレッチをしたり、ウォーミングアップをしている。こんなにも多くの人達が同じゴールを目指そうと一生懸命になっているんだ、なんて当たり前の事にようやく思考が至ると何だか急に楽になってきた。そうだ、どこの誰かもわからない人達だらけだけど、同じ目標を持った人達なんだ。速いか遅いかは過程でしかない、完走する事を目指しているんだ。だったら、こんな私でも参加していいのかな。
仲間意識、とまではいかないけれど、少なくとも逃げ出したいまでの怖さは無くなった。私は諸々の準備を済ませると、時間になったためスタート地点へと向かう。参加して初めてわかったのだが、トップ選手が前の方にいて、一般参加はゴール予想タイムの順に並ぶらしい。私は六時間を目標にしているので最後尾だろうと思っていたのだが、それよりも後ろにまだ人が並んでいた。やっぱりもう少し後ろに並んだ方がいいかもしれない、なんて思っても後の祭り。気付けば身動きできないくらいの混雑になっていた。
十分前、五分前とカウントダウンが始まる。前の方はスタートの場所も見えないくらい人がおり、こんなにも走りたい人が集っているんだと改めて静かに驚く。けれどまぁ、去年の私だって自分がここに立つなんて考えてもいなかった。一年、この中にいる人達にとってはたったの一年かもしれないけれど、自分の人生において大きく動いた一年だ。その成果、全部出し切らないと悔いが残る。これが自分の人生の最後だと思ってやってみよう。
そしてついに、スタートの音が響いた。大きな歓声と地鳴りのような音。最初は周囲の人が誰も動かなくてどうしたのかと思っていたのだが、次第にゆっくりと歩き出せるようになり、やがて混み合いながらも走り出すことが出来た。後ろからどんどん抜いていく人が多く、私も焦ってしまいそうになったけれど、ペースを守らないと完走できないと散々ネットに書いてあったのを思い出す。他人は他人、自分は自分。どうせ私は人に負け続けていたのだから、今更焦らなくても良いだろう。戦うべきはこの距離と自分なのだから。
十キロ、二十キロと黙々と走る。いつの間にか周囲は同じくらいの速度の人達ばかりになり、目の前の背中も変わらない。そんな人達をペースメーカーにし、同じ速度を維持して走り続ける。互いの息遣いも聞こえる中、私は不思議な一体感を感じていた。そうか、みんな辛いんだ。でもこんなにも一生懸命に走っている。私も足が重くなってきたし、ほんの少しだけ呼吸も辛いけど一緒なんだ。
不思議な感覚だった。学生時代には体育の授業で同じ時間を共有していても、疎外感しかなかった。社会人になって同じように残業していても、空虚さしかなかった。しかしここでは顔も名前も知らない人達なのに、同じ熱量で同じ方向を見ることが出来る。これまでの人生で味わえなかったものが胸に広がり、苦しいはずなのになんだか笑えてきた。
そして沿道の声援もまた、人生で初めての経験だった。見ず知らずの人が私だけではないにせよ、私達に向かって頑張れと大きな声で応援してくれている。あんなにも重荷だった言葉が、今では素直に受け入れられる。力になる。挫けそうな心を奮い立たせ、止まりそうな足を前に動かし、崩れ落ちそうになる背を立て直してくれる。
走るほどに新しい発見があり、苦しくなるほどに嬉しい発見があり、言い知れぬ多幸感に包まれながらも目の前の視界が狭まり、朦朧とする。目の前の背中もかすみ、耳に響く荒い息遣いは隣の人のか自分のものなのか、わからない。腕も足も何もかもが悲鳴を上げており、もう無理という思いがずっと頭を駆け巡る中で、次の電柱までがんばろう、あの曲がり角までがんばろうともう一人の自分が鼓舞してくる。もう辞めたい、けれど自分の全部を出し切ると誓った。中途半端なところで止まって、これが自分だなんてもう言いたくない。ただがんばっただけで終わらせたくない、やり遂げるまでがんばったと後で自分の誇りにしたいんだ。
ゴールラインを通り抜けた時、私はきっと醜い顔をしていただろう。涙は溢れ、汗にまみれ、苦痛で顔を歪めて餌を求める鯉のように口をぱくぱくさせていたと思う。けれどそんなものはどうでもよく、むしろ人からどう見られているかなんて何とも思っていなかった。ただ果てしない達成感と、もう走らなくていいんだという安堵感だけが胸を占め、疲労と酸欠で私はすぐにでも倒れ込んでしまいたかった。ただ、その場に倒れ込もうとしたのだが係員の人に強制的に誘導され、朦朧としながら少し離れた芝生に辿り着くと人目もはばからず倒れ込んだ。
芝生の匂いが鼻をつくが、もう何もしたくなかった。起き上がる体力ももう尽きており、喘ぎ声にも似た歪な呼吸を繰り返すだけ。すっかり終わったと体も認識したのか、手足ももう動かない。喉が渇いたけれど、動き出す気力がわかない。一体どうやったら動けるようになるのだろうか、もしかしたらこのまま死んでしまうのだろうか。
「あの、すみません。さっきスポドリ受け取り忘れてましたよね」
見知らぬ声が明らかに私に向けられているとわかると、私は気怠く体を起こし、目元を一度拭ってから声の方を向いた。
「はい、どうぞ。あの、大丈夫ですか、すごく辛そうですけど医務班の人呼びますか?」
見知らぬ人だった。歳の頃は三十代くらいだろうか、化粧っ気は無いけれど可愛いと思えるようなセミロングのランナーとおぼしき女性。差し出されたスポーツドリンクを受け取ると、私はお礼を言うよりも先に封を開けて喉に流し込む。冷たいそれは喉から胃へと染み渡り、体中に活力がみなぎっていくのを感じた。そうして半分ほど一気に飲むと、ようやく人心地ついて相手の顔をしっかり見ることが出来た、
「あの、ありがとうございます」
「あぁ、いいんです、気にしないで下さい。ゴールしたのを見てたんですけど、フラフラとしてゴールした後に貰うスポドリとか受け取らないのを見て、大丈夫かなと思っていたら、ここに倒れ込んだまま動かなかったんで、心配になって」
随分とおせっかいな人だな。でも、見ず知らずのこんな私に取り忘れたスポーツドリンクを渡してくれるなんて、いい人なのかもしれない。普段なら警戒して近付きもしないで逃げるのだが、こんな状況の私に手を差し伸べてくれるのがとにかく嬉しかったし、疑えるほど頭も働いていなかった。
「今日はお一人ですか?」
私が一息ついたタイミングでその女性はにこやかに話しかけてきた。いつもの私ならそそくさと逃げるように去るのだが、今は疲労で動けない。いや、それは言い訳だ。逃げずに話したいのかもしれない。この達成感を少しでも共有したい。
「えぇ。初めてフルマラソンの大会に出たんですけど、きついですね」
「初めてだったんですか。だったら疲労もそうですけど、達成感とかすごいですよね。私もそうでしたから」
「そうですね。なんか、走る前は凄く怖かったんですけど、今は晴れ晴れとしてるんです」
「わかります、それ。私は三回目なんですけど、何度やってもキツイんですよ。でも終わった後の解放感とか、なんかこのよくわからないんですけど、褒めらえたような気がして。それが癖になっちゃってるとこがあるんですよね」
褒められる……あぁ、そうか。この達成感を支えているものが、それなのかもしれない。子供の時からあまり褒められるなんて事は無く、大人になってからはなおさらだった。いつしか自分がどうしようもなく駄目な人間だと思っていたのだが、この空間の晴れやかな感じはみんながみんな周囲の人を言葉もなく褒めているからなんだ。私だって目の前のこの女性ランナーにどこか敬意を抱いている。
「そうですね。凄く今は充実した感じです。一年走ってて良かったって、やっと思えたかもしれません」
「ランニング歴一年なんですか? 一年でフルに出たんですか?」
殊更驚く女性に私はむずがゆい思いをしながら、うなずいた。
「えー、すごい。前に何か運動とかしてたんですか?」
「あ、いえ、何も。体を動かすのが苦手だったんですけど、自分を変えたくて」
「うわぁ、すごい、本当にすごいじゃないですか。普通何もしてない状態から一年でフルに参加しようなんて、ちょっと怖いですよね。でもそれを叶えたって、すごいじゃないですか」
年上だろうに私に対して無邪気に驚き、キラキラした眼を向けてくる。そこに馬鹿にされているような感じは一切無く、純粋に言葉通りの感情だとわかると何だか泣きそうになってきた。胸が熱くなり、優しさが苦しい。私はどうしていいかわからず、ぎこちなく笑うしかなかった。
「あの、もし良かったらうちのクラブに入りません?」
「クラブ、ですか」
思いもしなかった勧誘に私は笑顔も忘れ、ぽかんとしてしまう。
「はい。私、この辺で活動している藤倉ランナーズクラブに所属しているんです。遠方の方でもネットでやり取りしていますし、まぁ気楽にみんな今日走った距離とか報告し合ってモチベーション高めてるんですよ。よかったらどうですか?」
「えっと」
誘ってもらえて嬉しいのだが、どう答えたらいいのだろう。こんな私なんかがそういうのに所属してもいいのだろうか、居たら変な空気にならないだろうか、邪魔じゃなかろか。ほんの一瞬の間に色々な思考がぐるぐると駆け巡る中で、私はかすかに見えた光に手を伸ばした。
「そうですね、こんな私でよければ」
決断させたのは私の答えを待っている間の彼女の笑顔だった。それは夏樹さんが私に向けているのと同じような顔。きっとこの人が居るなら、大丈夫だろう。そう思えたなら、飛び込んでみよう。それ以上は何も考えず頷くと、彼女は手を合わせて喜んだ。
「わ、わ、本当ですか。よろしくお願いします。そうだ、まだ名前も言ってませんでしたよね。私は最上紗英と言います」
「清水舞花です。その、本当に独学でやってただけの素人なんですけど、いいんですか?」
「大丈夫です。ガチな人もいますけど、基本みんなで楽しく無理なくやってますので。あ、そうそう。こっちに私達のテントがあるんですけど、寄っていきますか」
私は笑顔で頷くと、錆びた鉄のようになった足を何とか奮い立たせ、彼女の案内の下そのテントへと向かう。大分呼吸は落ち着き、視界もはっきりしてきている。六月の風がすっと吹き、汗で髪の毛が張り付いた頬を優しく撫でてくれた。
帰宅してから夏樹さんのところへすぐ報告しに行こうと思ったのだが、家に帰ると一気に気が抜けたのか玄関先で荷物を置くと、そのままベッドの近くに倒れた。あの後、藤倉ランナーズクラブの人達を紹介してもらい、軽く自己紹介をした後で疲労の残りにくいストレッチを一緒にやった。すごくみんな丁寧で、不器用な私に親身に教えてくれた。おかげで去り際はとても体が軽く感じたのだが、やはり家に帰ると駄目だ。おなかも空いているし、その前にシャワーも浴びたい。着替えは現地の体育館で簡易的にしてきたけれど、やはり若干気持ち悪い。やりたい事、やらなければならない事が幾つもあるのに、睡魔が強烈に割り込んでくる。
最近掃除をサボっていて髪の毛などが目に付く絨毯に横になりながら、それでも私は今まで感じた事のない達成感に震えそうだった。そして思いがけず新しい居場所を獲得した事も未だにいいのだろうかと悩みながらも、認めてもらえた事が嬉しかった。私を勧誘してくれた最上さんはもちろん、下は学生から上は七十歳までの人達が数人いて、みんな私を歓迎してくれた。一年であの舞台に参加した事に、驚きと称賛をくれた。帰りの電車の中で教えてもらったサイトを見れば、実に楽しそうだった。それぞれがハンドルネームを使い、走った距離を報告し、他の人からアドバイスをもらったり褒められたりしている。走らなくても近況報告していたり、書き込みが一ヶ月前の人もいたりする。しかしそこに共通しているのは優しい世界。
そんな世界の一員になれただけで、一年かけて頑張った甲斐がある。私の一年は無駄でも何でもなかった。夏樹さんに出会えなければ、こうはならなかった。そうだよ、こんな姿を見られたら笑われてしまう。汚い絨毯に倒れて汗臭いままでいるなんて、折角頑張ったのにみっともない。しっかりしないと、合わせる顔も無い。
きしむ体を何とか動かし、私はゆっくりと起き上がった。
目覚めてしばらく、動けなかった。原因はもちろん、昨日の疲労。おかげで布団の中で目覚めては体が動かずまぶたも上がらないので二度寝というのを繰り返していたのだが、じわじわと体を蝕むような空腹と抗いがたい尿意に邪魔され、半分泣きながら布団から這い出た。本当に今日、休みを取っておいてよかったと心から思う。
壊れた人形のようにぎこちない動きで遅い朝食を作ったりなど、諸々の支度を終えて一息ついたのはもう午前十時になろうかというところだった。このまま昼食まで一眠りしたかったのだが、私はまだ果たすべき事をしていない。予備のトレーニングウェアに着替えると、軽くストレッチをしてから家を出た。
いつもの長距離練習の後とは違った疲労と痛みが一歩進めるごとに響く。しかし長い距離を走った後こそ軽いジョギングが必要だとも色々なところで書かれているし、実際今までもそうした練習の後では必ず行っていた。これをするのとしないのとでは、疲労の残り方が違ってくるのだ。強張った体をほぐすようにジョギングを進めた先はいつもの神社。私は鳥居をくぐると軽いストレッチを行ってから、ゆっくりと境内裏に歩を進める。
「夏樹さん」
しかしそこには誰もいなかった。見慣れたありのままの自然が時折吹く風にたなびき、枝葉を揺らす。人影はどこにもなく、幾ら周囲を見回しても夏樹さんはいない。
「夏樹さん、どこです?」
振り返るが、やはりいない。一体どこに行ったのだろうか。今までそんな事は無かった。もしかして何か怒らせるようなことでもしてしまったのだろうか、それとも出会いが突然だったから別れもまた突然なのだろうか。去年出会った時はこの私の場所を取られるかもしれないと不安だった、しかし今は夏樹さんがいてこその居場所だ。一人でいたってもう、ただ寂しいだけの場所。
「どうしていないの、どうして……」
草むらの中や木々の間、境内をぐるりと何度も確認する。境内の下を這いつくばるように見たり、前後左右を素早く振り返る。しかしどこにもいない。服や顔についた蜘蛛の巣や虫、土などを払う。汗をぬぐい、先程も探したところを何度も探す。いない。空を見上げ、長い溜息をついてからまた探し始める。もう流れる汗も気にならなくなり。草むらをかき分け、木々の裏側へも目をやり、トゲが腕に刺さって血が滲んでも奥へと目を向ける。なだらかな山の斜面の上の方へも目を凝らすが、どこにもいなかった。
絶望が胸を占める。彼女のためにもと練習し、背を押されて大会に出て、そしてその集大成の結果を一番に伝えたいと思っていた相手がいない。色んな事をたくさん話したいのに、たくさん褒められて一緒に笑い合いたいのに、どうしていないの……。
私は境内裏に腰かけ、そうして膝に顔を埋めた。太陽が高々と昇っている中で、私はうなじが焼けるのを感じながら意識が真っ暗闇に落ちていく。昨日までの多幸感は薄れ、光が私からまた剥がれ落ちていく感覚が湧き上がってきていた。そうしてまた自分は何もできない人間で、存在が無価値で、世の中からの邪魔者だという思いが強くなる。マラソンを走ったところで何もならない、何を努力してもどうにもならない。どうせ私なんか、死んでもいい人間だ。死んだほうがいい。
死にたい……。
「何やってるのよ。折角完走して、良い出会いもあって自信もついたのに、何でそんなに暗い事を考えてるの」
不意に投げかけられた呆れた声。私はその声が耳に届くなり、涙があふれた。伝うものを拭いもせず、顔を上げると心底呆れた顔をした夏樹さんがいた。
「夏樹さん、どこにいたの。私、ほんとに会いたくて」
「それは嬉しいんだけどね」
溜息一つつくと、夏樹さんは笑顔を封印して真剣な顔で見詰めてきた。
「私の事はもう忘れて、新しい出会いをいっぱい見つけなさい。これから出会うたくさんの楽しいで、今までの嫌な事を塗り潰していきなさい。世の中、いい人だってそれなりにいるんだし、もう舞花ちゃんは新しい場所でもやっていけるよ。今までの場所で評価を覆すのが難しいのなら、新しくスタートすればいいんじゃないかな」
「忘れるだなんてそんな、できないよ」
「それにね、あまり死者が生きている人と話すべきじゃないんだよね。生きている人と関わったり、話したりしていると魂が変質しちゃうみたいなの。成仏できない、と言った方がわかりやすいかな。そうなると悪い霊になって、永遠に苦しむの。だから、ね」
「夏樹さん」
すがりつこうと手を伸ばしたが、触れられなかった。初めて伸ばした手は空を切り、そのまま境内に触れる。その拍子に涙がこぼれ、境内を濡らす。
「嫌だ、嫌だよ。夏樹さんと会えなくなるなんて、嫌だ」
「私は舞花ちゃんと出会えて楽しかった。一人寂しそうにうずくまっていたあの日から、こんなに立派になるなんて思っていなかった。なんて言ったら失礼かな。でもね、どんどん綺麗になって、魂が輝くのを見ているのは楽しかったよ」
その顔はいつもの微笑みで溢れていた。私は一秒でも長く夏樹さんを見ていようと、泣きはらした顔のまま見詰める。体裁なんてどうでもよかった。ただもう、別れてしまうだろう相手をしっかりと心に焼き付けておきたかった。
「だから私もね、またいつか生まれ変わってそんな綺麗な魂になりたいなって思っちゃったの。私も舞花ちゃんに救われたんだ。だからね、笑ってよ。笑ってサヨナラしよ」
「無理だよ、笑ってなんて。寂しいよ、嫌だよ。夏樹さんに会えないなんて、考えられないよ。サヨナラなんて、したくない」
「舞花ちゃん……」
少しだけ思案気にうつむいたが、すぐに夏樹さんはそのまま視線だけを向けてきた。
「私もその言葉をどれだけ言いたいかって、わからないかな。でもね、それを言うと魂が変質しちゃうの。私だってそんなに簡単に別れたくないよ、私だって舞花ちゃんの事は好きだよ。大好きだからこそ、サヨナラなの」
「……わかってる。わかってるよ、そんなの。甘えたかっただけ」
偽りのない気持ちが心を裸にさせた。長年少しずつ固めてきた殻が全て剥がれ落ち、か弱く軽い私の心。そうなった時、私の眼から流れる涙の温度が変わった。
「夏樹さん、大好きだよ。今までありがとう」
「私こそ、ありがとう」
やっと笑顔で向き合えた。夏樹さんはいつものように綺麗な笑顔で私を見詰めてくれている。涙で濡れた私も精一杯の笑顔で答えた。
「ねぇ、舞花ちゃん。空を見上げようか」
すっと夏樹さんが視線を上に向けた。
「気持ちいいよ」
実に気持ちよさそうに目を細める夏樹さんにならい、私も空を見上げた。今日は晴れていて、かなり眩しいのですぐに目を閉じる。ほんの少しも開けていられない。空の色はわからないけれど、お日様の温かさに癒される。まぶたの裏に見えるのは先程の夏樹さんの笑顔、それはもうきっとそこにしか残っていない。声をかけるなんて、怖くてできなかった。ただひたすら、私は涙が渇くまでずっと空を見上げていた。
もう泣かないよう、笑顔のままそうしていた。
九月も末になると幾分か涼しく、走るには丁度良い気候だ。それでもまだまだ長い距離を走っていると結構熱くなり、汗が流れる。たまに通り過ぎる風が気持ちよく、その度に生き返るような思いがする。私は大きく息を吐き出すと、もう一度しっかりと前を見る。
あれから私は会社を辞め、三駅ほど隣の町に引っ越した。そして別の食品会社に再就職し、生計を立てている。会社を辞めると言い出すのに物凄い勇気が必要だったが、拍子抜けするくらいアッサリと受理されてなんだか不思議な気分だった。まぁ、きっと必要とされていないから仕方なかったのだろう。どこか寂しさもあったのだが、気持ちをすぐ切り替えることにした。
新しい会社はまぁ、ぼちぼちと言ったところだろうか。無理をしない程度にこちらも会話になるべく参加するようにし、誘われれば極力断らないようにしている。時々しんどくなるけれど、それでも前の環境に比べれば天国とまでは言わないが充分良い。挨拶をすれば返って来るし、挨拶をされる。そんな当たり前が嬉しかった。
あの日誘われたランナーズクラブは継続中だ。と言うか、心の拠り所の一つでもある。ネットでは互いの練習報告に刺激を受けたり、たまに悩み相談をすれば様々な年代の意見を聞けたり、休みが合えば近場の人と練習をしたりする。走っていれば嫌な事を忘れられるし、速い人も遅い人も楽しみながら一生懸命になれるのが良い。ほんの少し勇気を出して新しい世界に飛び込めば、案外楽しいというのもわかった。
「大丈夫ですか、ペース」
「えぇ、これでいいです」
隣を走っているのはあの日、レースで知り合った最上さん。今日は休みが合ったため、練習に付き合ってもらっている。あれから仲良くしてもらい、プライベートでもたまにご飯を食べに行く仲になっていた。彼女は私をよく気にかけてくれ、私も彼女といると何だか落ち着けた。気が合うとはこういう事なのかもしれない。
今日は私が決めたコースを一緒に走っている。以前よく長距離練習をしていた時に使っていたコースのアレンジ。懐かしい道を走れば苦しい事、なかなか出来なかった事など初心を思い出す。そして、大切な事を思い出せる。
ちらりと私は前方左手に目をやった。そこは小鳩神社、相変わらず古ぼけた小さな神社だ。物寂しい朱色の鳥居の奥を一瞥すると、私はすぐに前を向く。ひたすらに先を目指し、確実に一歩一歩進んでいく。そして気付かれないように小さく笑いながら心の中で呟いた。
もうそこは私の居場所じゃないから、安心してよね。
それも風に乗って、すぐに消えた。