黄金虫たちの夜
その頃の「こがね虫たち」の年齢は二十三から六歳までの連中だったと思う。
こがね虫のように夜行性で灯りに群がっていく習性があるようにぼく達も夜になると街に出て詩に対して熱っぽく語り合っていた。
そのこがね虫たちは清水豊 大塚心平 松岡百合子 大前加代子そしてぼくだ。
この五人が夜、喫茶店やスナックに現れて詩について熱く語り合っていたのだ。
ぼくが一番年上の二十六歳で清水が二十五歳、心平は二十二、三歳だった。女性二人も心平と同じ年齢だった。
この若き詩人のタマゴ五人が姫路で詩誌「Da」を結成していた。
T・Yの弟子の清水がいつも落ち着いていてぼくがイライラするくらい静かだがぼくは嫌いだった。
T・Yバリの詩を書き模倣と思われるくらいの詩はよく似ていた。狡猾だった。
心平は父が姫路では有名な詩人で総社に彼の詩碑が刻まれているくらいだから相当偉かったのだろう。
でもぼくは一度も会ったことがなかった。
当時野里に住んでいて、雨も降っていないのに長靴を履き汚い作業服で喫茶店やスナックに現れていた。
心平の詩は豪快で宇宙や地球をテーマにスケールの大きなエロっぽい詩を書いていた。
ぼくはその心平の詩が好きだったが決して好きと言わなかった。
女性二人は心平が書く詩からそれぞれの特徴を持って行っていた。
松岡百合子は新日鉄広畑の事務員で心平のいやらしいエロっぽい部分を獲ってきて詩を書いていた。
大前加代子は心平の豪快な部分を獲ってきて、女というのにスケールの大きな詩を書いていた。
大前加代子の詩もぼくは好きだった。
ぼく達は芸術派と名乗っていた。
当時プロレタリア詩や労組関係の詩を書く人が多かったがぼく達は叙情派でもモダニズム派でもなかった。
だからぼく達はあえてそれらの人と一線を画するためにも社会派でもない人間の根源的な死とか生とか性とかの素材をテーマにして詩を書くと言うことで勝手に芸術派と名乗っていた。
ぼく達五人はヤマトヤシキの南にあった洋風菓子喫茶店田中屋の二階でよく落ち合って詩の話に熱中していた。
心平は特にぼくに突っかかってきて激しい口論になることがたびたびあった。
ぼくは心平の詩は好きだが服装が気に入らなかった
晴れた日なのに長靴を履き汚い作業服の心平が清潔好きなぼくには我慢ならなかった。
心平とぼくがやり合っていると仲裁に入るのはいつも清水だった。心平は明石高専の建築科を出ていて建築関係の仕事をしていた。
だから汚い格好で来るのだがぼくも当時ガソリンスタンドに勤めていたが決してだらしない格好をして田中屋に行くことはなかった。
ぼくと心平が口論をはじめると大前加代子や松岡百合子が又やり合っていると覚めた目で見ていた。
このこがね虫たちが出会ったきっかけは当時姫路の市民会館の近くにベ平連の事務所があって、そこにイオム同盟の向井孝が代表でいて、ある日詩の講座があると新聞で読んで、その講座を聴きに行った席で清水と出会い当時五人で詩の仲間が集まっているから来ないかと言われたのがそもそもの始まりだったのだ。
当時五人いたが一人はアメリカに留学に行っていてぼくは会ったことがなかった。
そんな関係でぼくは「Da」の連中に加わったのだ。
「Da」と言ってもこの名称は後になって同人誌を発行するとき名前がいると言うことで清水がダダイスト高橋新吉から貰ったDaであると言っていた。
事実その通りだがみんな別の意味で駄々っ子の集まりだったから「Da」だと解釈していた。
みんなが詩を一編か二編持ち合って待望の同人誌「Da」が発行されたのは顔合わせが終わった後の半年後だった。
でもその頃からはや解散の危機にさらされていた。
ぼくと心平がいつも詩のことで喧嘩していたので長続きしないとみられていたのだが解散に追いやったのは実はぼくだった。
ぼくは紳士ぶっている清水も嫌いだったし彼の書く詩も気に入らなかった。
心平とぼくは喧嘩ばかりしていたがお互いに詩の実力は認め合っていた。
だから心平とぼくが目指す詩は違っていたのでいつも口論になった。あわやつかみ合いになるかも知れないという場面も何回かあった。口論の最中でも心平は彼の親父がぼくを認めていたとつぶやくときがあった。
それも喧嘩の原因だった。
心平はおそらく彼の父から心平の書く詩を認めていないようだったので、余計心平はぼくに絡んできていたのだ。
詩誌「Da」の創刊号が発行されてぼくのところにも何冊か届いた。ぼくはさっそく出来たてほやほやの詩誌を開いてビックリした。
編集と代表を兼ねていた清水の詩がトップに載っていたからだ。
普通編集者とか代表の詩は真ん中辺りか終わりに持ってくるのがこの世界では慣わしになっていた。
それなのに清水の詩がトップに載っていたのでぼくは清水が図々しい奴で狡猾な奴と決め込んでしまった。
そのトップに飾られた詩もT・Yの詩を模倣したようなものだった。ぼくは怒りに狂いそうだった。
まぁその件で清水って言う奴はそんな奴だったのかとそれはそれで納得したけれど他にもぼくを怒らす件があった。
詩誌「Da」は二〇ページほどの冊子だったが清水と心平の顔で広告を何件か取ってきていて広告料をもらって詩誌「Da」に広告を載せていた。
だのに会計報告もなかった。
それで内心腹を立てていた。
その広告主のひとりである魚町のスナック「のら」のママの詩が裏表紙に載せてあってぼくはその詩を読んでこりゃおかしいぞと言うことに気付いた。と言うのはその詩の一小節に、
――サハラ砂漠のサボテン林に――
と言うのがあってぼくはサハラ砂漠にはサボテンは育たない、これは間違っていると指摘したことを心平か清水に伝えたのだがこれをきっかけでそのスナックのママさんとも友人になった。
そんなある日ぼくはガソリンスタンドの勤務を終えて夜八時頃そのスナックのママに会いに行った。
ぼくは酒を飲まなかったのでコーラを注文して飲んでいるとそこへ心平がふらりと例のいつもの格好で入ってきた。
そしてぼくの横のカウンターに座るとぼくを激しくののしりはじめた。
こんなところで口論したくないぼくは黙って聞いていたがそれが余計彼の怒りを誘い収拾がつかなくなっていた
こりゃ他の客にも迷惑が掛かると思ったぼくは帰ることにした。
それが一番良いと判断したからだ。
その日をさかいにぼく達こがね虫たちはもう田中屋でもスナックででも会わなくなっていた。
そしてぼくは清水が嫌いだったので彼のトップを飾った詩はT・Yの模倣だという文を作り、ぼく以外の四人とスナックのママにそれを郵送した。
心平とはよく喧嘩をするのに二人で会う機会があり心平は詩を持ってきて見てくれと言われたが心平の詩は出来不出来が激しく、未完な詩が多かった。でもぼくは心平の詩が好きだった。
そしてついに「Da」は空中分解し解散してしまった。
そしてぼくのひとり旅が又はじまった。
後に心平と松岡百合子は結婚し、野里の市営住宅で暮らしはじめた。清水は市の郷の市営住宅に住んでいて新日鉄に勤めていた。
清水はすでに結婚していて一度清水の家に行ったことがあった。
松岡百合子をスカウトしたのは清水で当時松岡は新日鉄の社内誌に詩を発表していたのを見て清水が誘ったらしい。
大前加代子は材木町に住んでいて大柄な美人だった。
それから五年ほどたって心平から思いもしなかった電話をもらった。
その当時ぼくはガソリンスタンドを辞めて三菱鉛筆姫路販売に勤めていたのだが、ぼくは誰にも職場を変えたと知らせなどしていなかったのに心平は会社に電話をかけてきてぼくが電話口にでるといきなり、
「良い会社に勤めているじゃないか」と言っていた。
それ以外ぼくは当時のことは記憶をなくしていた。
清水と最後に会ったのはまだそれから十五年も後のことで、別所の長谷川弓子の自宅で詩の話をしようと言うことになり集まって雑談したのが最後だった。
長谷川弓子は福中都生子の「陽」に入っていたので一度自宅に来なさいよと言われて行くと清水も来ていてビックリした記憶がある。
その時清水は今仏教に興味があると言っていた。
それから二、三年して長谷川弓子は亡くなった。
長谷川弓子は当時そろそろ姫路市の芸術文化賞をもらえる頃だと言っていた。
でも貰うことなく亡くなっていった。
ぼくなどそんな賞貰える資格もなかった。
何分姫路でも兵庫県でも活動していなかったし賞など貰おうなんてさらさら思わなかった。
当時「半ドンの会」からも入会の誘いが来たが断っていた。
神戸の詩人からも同人誌に入らないかと誘いがあったがそれも断っていた。
それから何年か後に福中都生子の「陽」に入り、「陽」一筋で何処にも入る気はしなかった。
ただ福中都生子の誘いで関西詩人協会に入っていた。
その福中都生子とも彼女が共産主義者でぼくが資本主義者だったために彼女から三行半を下され気まずく別れていった。
一年後に「陽」に戻ってきなさいと手紙を貰ったがもう戻る気はしなかった。
そして又二〇〇三年頃からひとり旅がはじまった。
それにぼくの自宅に名前は忘れたが中河原の姫路文芸に入っている人がやってきて姫路文芸に入らないかと誘われたがそれも断っていた
そして二〇一〇年ぼく達こがね虫たちのアジトだった田中屋も倒産して今はない。
スナック「のら」のママも「Da」が解散した後岡山にギターリストの恋人と一緒に行ってしまった。
清水豊は十年前亡くなり心平や松岡百合子は詩の世界から消えていった。
大前加代子の所在も不明である。
そして又ぼくのひとり旅が始まる。