新しい私の幸せ
短編「姉に突き落とされて記憶喪失になった私が幸せになるまで」の本編完結編です。
メアリは夢を見た。
真っ暗闇を逃げている夢。誰かが、追いかけてくる。逃げても逃げても、どこまでも。
ふいに、腕を掴まれた。振り向くとそこには……
「はっ!」
汗びっしょりで目が覚めた。喉がカラカラだ。
(どうしたのかしら……何か、嫌な夢を見た気がするわ。明日は、結婚式だというのに)
ベッドから降りてカーテンを開ける。光がきらめいてとても良い天気だ。
(今日も明日も天気は良さそうなのよね。いい結婚式になりそうだわ)
メアリは嫌な夢のことは忘れ、機嫌良く朝の身支度を始めた。
「ついにこの日が来てしまったな……」
ペンブルック公爵はその日の夕食の席でうっすらと涙ぐんでいた。
「お父様、泣かないで下さいな」
「そうだよ、父上。今生の別れじゃないんだし。王宮に参上したらいつでも会えるでしょう」
ニコラスが呆れたように言った。
「だが、家に帰ってももうメアリが迎えに出て来てくれんのだよ……寂しいじゃあないか」
「大丈夫ですよ。半年経てばニコラスのお嫁さんが来てくれますから、また華やかになります」
イーサンが珍しく父に優しい。
「うむ。それはとても楽しみだ。でも半年先なのだ……」
「もう、あなたったら。せっかくの最後の夜ですよ、明るく送り出さなくては。ねえ、メアリ」
「そうですよ、お父様。今夜はみんなでゲームをして楽しむ予定だったじゃないですか」
「おお、そうだったな。今日こそはワシも勝つぞ」
「負けませんよ、お父様」
以前、エルニアンからお土産を持って帰った中に、いくつかのゲームがあった。
実はエルニアンには優れたゲーム工房があり、子供だけでなく大人も楽しめるカードゲームやボードゲームが多々開発されていて、子供の頃から皆親しんでいる。その中から、人気のゲームを買って帰ったのだ。
これは男達の心をかなり捕らえたようで、特に弟のショーンとエリックは夢中になった。最初は、遊び慣れていたメアリの圧勝だったが、今では弟達には敵わない。ただ、公爵だけは未だに負け続けているのだ。
家族みんなでワイワイと遊びながらいろんな話をするのが、いつの間にかペンブルック家の習慣になっていた。
(本当に、明るい家庭になったものだ。そして半年後にはアイラが加わってくれる。メアリが里帰りした時にはより一層楽しくなるだろう)
イーサンは少しだけ感傷に浸ったが、すぐに明日の婚儀の段取りなどを考え始めた。明日は全てが滞りなく上手くいかなければならない。
(側近としても兄としても、忙しい一日になりそうだ)
ペンブルック家最後の夜は、こうして楽しく更けて行った。
そして翌朝。メアリは王宮からの迎えの馬車に乗り込む前に、家族の一人一人を見つめた。
「お父様、お母様。突然現れた私をこうして温かく受け入れて下さり、その上立派な支度を整えて嫁がせて下さって、本当にありがとうございました。お二人の深い愛情を決して忘れません。これからは、王家とペンブルック公爵家の橋渡しとして立派に務めを果たして参ります」
「メアリ、ワシらも楽しませてもらった。礼を言うぞ」
「そうよ、メアリ。ここはあなたの家なのですから、いつでも好きな時に帰っていらっしゃいね」
「はい、ありがとうございます」
そして四兄弟の方へ顔を向けて話した。
「イーサンお兄様、ニコラスお兄様、ショーン、エリック。私を皆さん方兄弟の中に入れていただいてありがとう。とても楽しい時を過ごせました。これからも姉として妹として、仲良くして下さいね」
「もちろんだ、メアリ」
「メアリ姉様、アーネスト殿下とお幸せに」
「ありがとう。では、行って参ります」
馬車はゆっくりと王宮への道を進む。これからアーネストのもとに嫁いでいくのだ。
(エルニアンのお父様、お母様……ベアトリスは今日、メアリとしてガードナー王太子の妃になります。こんな日が来るとは全く思っていなかったけれど、私は幸せです。どうか、これからも見守って下さい)
婚儀は、王宮の敷地内にある教会で行われる。ガードナーの守り神、聖女メアリが祀られている教会で式を挙げるのはこの国の女性達の憧れだ。
王太子宮でエミリーにドレスの支度をしてもらったメアリは、緊張して震えているのを感じた。
「メアリ様、大丈夫ですよ。お支度は完璧な仕上がり、お美しいですよ。あとはアーネスト殿下のところまで歩いて行くだけです」
「そ、そうよね、エミリー。なんだか足が震えて、転んじゃいそうだわ」
「転んでも大丈夫ですよ。アーネスト殿下が何とかしてくれます」
「ええー、さすがにアーニーもそれはフォローしようがないわよ」
メアリは大勢の見守る中、ドレスを踏ん付けて前につんのめっている自分を想像して可笑しくなった。
「そうそう、そうやって笑っていて下さい。皆さま、メアリ様の味方ですよ」
「そうね、ありがとう、エミリー。行ってくるわ」
教会のドアが開いた。
ペンブルック公爵も緊張の面持ちで待っている。父の肘に手を掛け、メアリはゆっくりと招待客の座るベンチの中央を歩いて行った。
この道の先にはアーネストが待っている。いつもと違う、白い式服が眩しい。黒髪を撫で付け、優しい紺色の瞳でメアリを見つめている。
父はメアリの手を取り、アーネストにその手を渡した。
アーネストが両手を取る。二人は聖女メアリの御前で見つめ合った。
「メアリ、綺麗だ。やっとこの日が来た。どんなに待ち侘びたことか」
「アーニー、あなたもとても素敵だわ。こんな素敵な人と結婚できて、私、本当に幸せよ」
二人の微笑ましい会話を聞きながら神官長が結婚の宣言をした。
「アーネスト王太子よ、あなたはこの女性を妃とし一生慈しむことを誓いますか」
「はい、誓います」
「メアリ・ペンブルックよ、あなたはこの男性を夫として一生慈しむことを誓いますか」
「はい、誓います」
「それでは聖女メアリの名のもとに、この二人を夫婦と認めることを国内外に宣言致します」
誓いの鐘が鳴り響いた。その中で二人はキスをし、夫婦となった。
「アーネスト殿下、おめでとうございます!」
「メアリ妃殿下、おめでとうございます!」
招待客から次々と祝福の声が上がる。拍手が鳴り響く中、二人はいつまでも幸せを噛み締めていた。
追いかけてくる。いつものあの影だ。どこまでも追いかけて、そしてまた腕を掴んで……
「やめて!」
自分の声に驚いてメアリは目を覚ました。まだ胸がドキドキしている。
「メアリ、大丈夫か? ……また、いつもの夢を見たのか」
「ええ、アーニー……久しぶりに見たわ。先月は見ていなかったのだけど」
アーネストが震えるメアリを抱き締める。額にキスをし、背中をポンポンと優しく叩いてくれる。
「大丈夫だ、私はここにいる」
「ありがとう。もう平気よ。心配かけてごめんなさい」
「気にするな。お腹の子に障るぞ」
アーネストの温もりに、次第にメアリの心は落ち着いていく。結婚前から見始めた怖い夢は、結婚後も月に一、二回見るようになっていた。
「そうよね。もう来月が予定日なんですもの。私が緊張すると赤ちゃんが苦しくなるっていうし。でもこうしてあなたがいてくれるから安心だわ」
「もう一度眠れるようなら寝るといい。私がずっと背中をさすってやる」
「ありがとう、アーニー……」
目を閉じたメアリを見つめながら、アーネストは心配していた。
(お産が近くなって緊張し過ぎているのだろうか? こんなに怯えて。初めての出産に対する怖さがあるのかもしれない)
アーネストはとにかくメアリが安心してお産に臨めるよう、エミリーや医師と協力して準備を進めていた。幸い、メアリの体調はすこぶる良く、悪夢を見た時以外は順調に進んでいった。
そしてあと二週間で予定日という頃。
朝の日課で庭の散歩をしていたメアリとアーネストだが、突然メアリが立ち止まった。
「どうした? メアリ」
「うん……なんだか、いつもと違う感じ」
「もしかして?」
「……陣痛かも」
それからは王太子宮は静かに大騒ぎになった。
パタパタと全員が持ち場に着く。医師も産婆もすぐに飛んできた。
「ここからが長いですからね、初産は。頑張りましょうね、メアリ様」
「ええ、ありがとう、エミリー」
確かに初産は時間がかかる。だがそれにしてもメアリのお産は進まなかった。
(もう一日が経とうとしている。苦しんでいるメアリをどうすることも出来ないのがもどかしい)
アーネストはそう思いながら、メアリの手を握って励まし続けた。
長い長い時間苦しんだ末、ようやくその時は来た。
「おめでとうございます! 元気な王子殿下、ご誕生です!」
部屋中が祝福に包まれた。メアリは疲れ果てた、だが幸せに輝いた顔で我が子を見た。
「アーニー、生まれたわ……あなたと私の子よ」
アーネストの目も涙で潤んでいた。
「ああ、元気に泣いている。ありがとうメアリ、よく頑張ってくれた」
「良かった、アーニー、嬉しい……」
「メアリ? メアリ、しっかりしろ、メアリ!」
「大変です先生、メアリ様の出血が止まりません……!」
真っ暗闇。
また、あの夢だ。もうすぐ誰かが追いかけてくるはず。
だがいきなり、腕を掴まれた。
「誰?!」
メアリは思い切って聞いた。ずっと感じていた、ある相手だと確信しながら。
「あら。気がついていたの?」
追いかけて来ていたのは、デボラだった。
「面白かったわ。私が追いかけたら泣いて逃げ回ってねえ。まあそうよね。だって、あんたが私を殺したんだから」
「違うわ。あなたが罪を犯して死刑になった、ただそれだけよ」
「そう? 本当はそう思ってないんでしょ。自分のせいだって思ってるはずよ。あんたが原因で私は死ななきゃならなかったって」
「いいえ。全ての原因はあなたにあるわ。もう私に付き纏わないで!」
「私だってまさか、死んでまでこんな所に来るとは思わなかったわよ。でもせっかくだから道連れを作ろうと思ってねえ。あんたのお腹にいる赤ん坊をね」
「だめよ! そんなことさせない。それに、さっき赤ちゃんは無事生まれたわ」
「そうなのよ。あの赤ん坊は何らかの加護があるみたいで、上手くいかなかった。だから」
「だから?」
「あんたを連れて行くわ」
そう言ってデボラはメアリの腕を掴んで引っ張って行こうとした。
「やめて! 私は行かないわ!」
「いいえ、連れて行く。私一人で行くもんですか。今のあんたは出血多量で死にかけよ。ちょっと背中を押せば、すぐ死の世界行きだわ」
「いや! やめて! 助けて、アーニー……まだ、あの子を抱いてもいないのよ!」
その時、ふいに温かい光に包まれた気がした。
「お母様?」
いつの間にか、懐かしい父と母が側にいた。
「お父様、お母様! お会いしたかった……」
「な、なぜ二人がここに?」
デボラはうろたえてメアリの腕を離した。
母は涙を浮かべて近付き、メアリを抱き締めた。
「ベアトリス、最後に会えて良かったわ。あなたは生きていると信じていました。デボラは大丈夫よ。私達が連れて行きます」
父はデボラに向かって優しく言った。
「デボラ、済まなかった。お前を苦しめていたとは思っていなかった。私のやり方は間違ってはいたが、確かにお前を愛していたんだ、信じて欲しい」
「お、お父様……」
デボラは泣き崩れ、その背を父が抱き締めた。
母はメアリの頬にそっと手を当てて優しく言った。
「ベアトリス。いえ、メアリ。あなたはもう別の人生を生きている。私達のことは忘れて、アーネスト殿下と、赤ちゃんと、そして周りの人達と共に歩いて行きなさい」
「お父様、お母様……」
メアリは泣きながら二人に抱きついた。
「デボラ。さあ、言わなくちゃいけないことがあるでしょう」
一瞬、デボラは子供の頃の顔に戻った。
「ビー。ごめんね……」
そして三人は光の方へ向かって消えて行った。
「お父様! お母様! ……お姉様……!」
やがてメアリは自分を呼ぶ声を聞いた。
(あれはアーニーの声。そして、赤ちゃんの泣き声だわ。そう、私はあそこへ帰るの)
声のする方へ、一歩、踏み出した。
「メアリ!」
「……アーニー」
「良かった、気がついた……!」
「赤ちゃんは……?」
「大丈夫だ。ちゃんと元気だ」
「私は……」
「出血がなかなか止まらなくて、意識を失っていたんだ。だが、なんとか止まってくれた。意識が戻るのをずっと待っていたんだ」
「アーニー、ありがとう。愛してる……」
「メアリ、私もだ。君と子供が無事で本当に……」
(また、アーニーを心配させてしまった。ごめんなさい。もう二度と、涙なんか流させないから……)
「メアリ様、王子様を胸に抱っこなさいますか」
「エミリー」
「赤ちゃんと触れ合うと、母乳が出やすくなるんですよ。お身体に無理のないよう、少しだけやってみましょう」
エミリーが、メアリの胸の上に赤ちゃんをそっと乗せてくれた。
「ありがとう、エミリー。なんて小さいの……!」
「そうだろう? 私も先に抱いてみたんだが、小さくて壊れそうだったよ」
「温かい……」
私は生きている。メアリは実感した。
さっきの夢は、きっと自分の作り出した幻想だ。心の奥底ではまだデボラを恐れていた。そして、自分を責めてもいた。
だけど、もう過去に囚われるのはやめよう。私にはこの子がいる。これから、この子とアーニーと一緒に新しい未来を作っていかなくてはならないのだから。
(あの夢を見ることはもうないわ)
暗い産道を抜けてこの世に生まれ出る赤ん坊のように、メアリもまたあの夢から抜け出して新しく生まれ変わったことを感じた。
「アーニー、この子の名前は……?」
「二人でいろいろと考えていた中から選ぼうと思うのだが、メアリはどれがいい?」
「そうね、お互い、これと思ったものを同時に言いましょうか」
「そうだな。では……せーの、」
『ルーカス』
二人は顔を見合わせた。
「同じだな」
「同じね」
「私にはこの子が生まれた時、光輝いて見えたんだ」
「私もよ。この子が光を運んできてくれた。だからルーカス」
アーネストは体重をかけないようにそっと二人を抱きしめた。
「ありがとう、メアリ。一緒にルーカスを慈しみ育てていこう」
「ええ、あなた……」
そして六年の月日が流れた。
ルーカスは賢く健やかに成長している。弟、妹も生まれ、王太子宮は賑やかだ。
「母上! 今日はジュリアン達が遊びに来てくれるんですよね!」
「そうよ、ルーカス。午後から来てくれるから、それまでにお勉強を済ませておきなさいね」
「はい!」
元気に返事をして子供部屋に向かうルーカス。その後ろを三歳になる弟のアーサーがトコトコと追いかけて行く。一歳の妹アンジェラはメアリの腕の中だ。
ジュリアン達、とはペンブルック公爵家次男ニコラスとメアリの友人アイラの間に生まれた子供達だ。メアリとアーネストの半年後に結婚した二人は、出産も半年後になり、ルーカスとジュリアンは赤ちゃんの頃から一緒に遊んで育ってきた。
先月は、今はラウル王国の公爵となったリアムとエレノアが、一人娘のダイアナを連れて二週間滞在してくれた。四歳になるダイアナはエレノアに似た美少女であり、リアムが目の中に入れても痛くないような溺愛っぷりを見せている。
メアリの友人達も結婚・出産ラッシュがひと通り終わり、子連れで王太子宮にしょっちゅう遊びに来てくれるので、ここはいつも子供達の明るい声が溢れている。
イーサンは相変わらず仕事命、アーネスト命のまま、独身である。あの時イーサンに逆プロポーズしたシャーロットは、年に一度王妃との面会に王宮を訪れ、その度にイーサンに会いに行ってはプロポーズするというのが恒例行事(?)になっていた。
十二歳になったシャーロットはますますアーネストに似て涼やかな美少女に成長した。長い黒髪をサラサラと揺らし、切長の紺色の瞳で微笑みながらこう言うのだ。
「イーサン様、そろそろ私と婚約して下さる気になりましたか?」
「シャーロット様、成人なさった時にまだお気持ちが変わらなければまた考えましょう」
イーサンのこの答えまでがセットで毎年、繰り返されている。だが、この面会が少しずつ時間が長くなっており、それにつれてイーサンの笑みが柔らかくなってきているのをシャーロットは感じていた。
(成人するまであと六年。長いわ……。でも来年からは王立学園に入学するために王都に住むことになるから、会うチャンスは増えるわ。卒業と共に婚約出来るよう頑張ろうっと)
そしてアーネストは、父の代わりに政務に携わることが増えて忙しい日々を過ごしている。外遊も多いが、常にメアリと共にいるのでそれもまた楽しい。王太子宮に戻れば可愛い子供達に囲まれ、たくさん遊んでやる。幸せだ、と思わない日はない。
あの森の小屋には、今も時々出掛けている。だが昔のように一人でサムに乗ってフラッと行くことはなくなった。メアリや子供達を連れて行くため、護衛をつける必要があるからだ。だから小屋を大きくし、いろいろ設備を整えて安全に過ごせるようにしている。メアリと出会った思い出の場所を、アーネストはとても大切にしているのだ。
メアリは……すっかりガードナーに溶け込んでいる。支えてくれる家族を得、友人を得て、そして自分の家族ーー愛する人と愛しい子供達ーーも得ることが出来た。
メアリはガードナーにしっかりと根を張り、その幹は高く太く日々成長している。この木はやがて緑が生い茂り、国母として国民を支え癒やしていくことだろう。
「ねえアーニー。私、幸せだわ」
アーネストは微笑んで、アンジェラを抱いて座っているメアリにキスをした。
「メアリ、私の方が幸せだよ」
愛してる、と囁いて二人はもう一度キスを交わした。
このシリーズはこれで最終になります。(もしかしたらまだ書けてない番外編書くかもしれませんが。)
最後までお読みいただいた方、本当にありがとうございました!!