沢蟹とじいちゃん
1
砂利の上で列になって歩く蟻の数を数えていると突然それを割り込んで通った沢蟹。これも続いて仲間がくるのかと来た方を見ると人の足があった。顔を上げると上沢のじいちゃんがいた。肩にかけた魚籠から見えた沢蟹でわかったようなものだ。このじいちゃんと会う時はいつもその頭の後ろから太陽が射していて顔をくっきり見る機会がほとんどない。常に妙なタイミングで出会う。
「今夜は揚げ物なん?」
開口一番にそれを聞くのもどうなんだと思い、こんにちはと言い直した。じいちゃんは両方の口の端をぐいいと引き上げてそれはもう楽しそうに笑った。
「そりゃあ沢蟹といえば揚げ物が一番やからな」
「でも魚籠から逃げちゃってるのもいるよ」
私が指差すと
「それは命拾いしたってこっちゃ」
続けて
「儂みたいやろ」
とじいちゃんの口は笑うふりにかわっていた。嬉しいでもつらいでもないその表情を私はただじっと見つめた。そして私はさっきまでのじいちゃんの笑った顔を真似ながら
「私やったらもっとさっさと逃げてる」
と言って蜘蛛が歩くように上にのぼるふりをした。するとじいちゃんは私と同じような動きをしながら私を抱きしめ
「捕まえた!」
とはつらつとした声をとばした。
「食べられるぅ!」
とばたばた暴れていたらじいちゃんは耳元でありがとうと掠れた声を出した。泣いてしまいそうなのを堪えているようだった。私はじいちゃんにしがみついて今度じいちゃんの揚げた沢蟹食べたいとつぶやいた。じいちゃんの腕の力がさらに強く熱かった。
上沢のじいちゃんはこの村で唯一、戦争から帰ってこられた人だった。友達も親戚も一緒に戦いに行った人たちをすべて失って、自分だけが生き残ってしまったことに苦しみ続けてきた人。それはみんな知っている。すべてが家族のようなこの村でじいちゃんの思いはみんなわかっていた。戦争の頃にはまだ生まれていなかった私にさえみんなが話してくれた。誰もじいちゃんを責めたりはしない。でもじいちゃん自身が自分を責める。夜に蝋燭で照らされた家の中からじいちゃんが「何で儂が…」と声を必死に抑えて泣いていたのを見た人はたくさんいる。私もそうだ。この村のみんなはじいちゃんが自ら命を絶ってしてしまわないか心配で毎日のように本人には知られないように様子を見に行っている。村の大人から私たち子供は上沢のじいちゃんにただ大好きな思いを伝え続けてくれと言った。大人は純粋にそれを伝えることが難しのだと。出兵する歳でなかった私の父はその頃の記憶がはっきりとあるために複雑な感情が湧いてしまうから上沢のじいちゃんのことは見守ることしか出来ないのだと歯を食い縛っていた。父はじいちゃんを傷つけてしまうことを恐れていた。きっと他の大人もそうだったのだろう。大切なのに言葉に出してその思いを伝えられない苦しさは表情で見て取れた。
唯一この村のみんながじいちゃんと呼べる人。みんなの前で陽気で居続けようとするじいちゃん。沢蟹を好んでいるのはその場から逃げて生き延びてくれる者もいるからではないかとこの頃思う。だから魚籠に何もかぶせずに持って帰っているのではないだろうか。逃げることが出来た沢蟹には良かったねと思い、食べた沢蟹にはありがとうございましたと言葉にする。
上沢のじいちゃんはこの村のみんなの大事なじいちゃんなのだ。
2
今年の柿はここ数年なかったほどの旨さだとみんなで自分の家の木から取った柿を交換しつつ時間が過ぎ、いつの間にやら酒を呑み始めたり魚を焼き始めたりしていた。
ふと見回すと先程までいた上沢のじいちゃんがいない。立ち上がって探すも見当たらない。探しに行かないとと足を動かすと父に止められた。
「大丈夫。じいちゃんは思い出と一緒に呑んでるから」
父は空を指差した。それを見てああ、と思い座る。これほどの美しい夕焼けの日は久しぶりだ。じいちゃんはこんな日、感動を分かち合ってきた死んだ家族たちと酒を呑み、語り合うのだ。ずっと若い頃から約束せずとも集まって笑い合った大切な思い出の時だと聞いていた。じいちゃんしか見ずに空が見えなくなっていた自分に恥じていると父が頭を覆うようにぽんぽんと叩いて
「それが大人になっていくってことやから」
と言った。
見えるもの、見ようとするものしか見えなくなっていくというのは気をつけないと思いやりを忘れてしまうことになるんだよと父は言う。しかし父よりもずっと長く生きているじいちゃんからしたら思いやりは見えてしまうからそれはそれで大変だろうなと呟く。
「全力でじいちゃんを大切に出来るんはお前の良いとこやけどこの夕焼けの日だけは忘れないでいいや。唯一、じいちゃんが一緒に育ったみんなと思い出を語り合う日なんやで」
私は頷くしかなかった。
3
朝、目が覚めたらずいぶんと雪が積っていた。父と母、それに近所のみんなが雪かきに出ている。急いで手伝いの準備をして玄関を飛び出ると散々踏まれていた雪の上で滑って転んだ。大人たちは気いつけろと笑っていたが上沢のじいちゃんがこちらに向かって自分が通る場所だけスコップでかき分けながら青い顔で走ってきた。
「大丈夫か、坊」
息を切らせて足の先から頭まで雪に覆われたじいちゃんが目の前に来て、痛むところはないか怪我はないかとあちこちを確かめて安堵したように深く息をついた。周りのみんなは目を丸くしてじいちゃんと走ってきた雪の道の跡を繰り返し見た。「あれをどうやって…」という声が空から落ちてくる雪の音の間から聞こえていた。その声でじいちゃんが来た道を見てみると雪の間に人がかき分けた跡などほとんどなかった。じいちゃんの腕を掴むと驚くほど細くて私は
「いつから食べてないの?!」
と叫んだ。夏に私を抱きしめたじいちゃんの体つきとのあまりの差にそう思わざるを得なかった。その瞬間にみんなが一斉にこちらに来た。じいちゃん、じいちゃんと叫びながら。体を触って私と同じような呆然とした顔になったり食べたものの様子を見ることまでは頭が回らなかったと泣いた顔を覆う者もいた。そして一人が
「柿…あの時一つしか食べてなかったんじゃあ」
と声にならない声を出した。みんなそれを期に私の家にじいちゃんを入れて囲炉裏の前に移動させた。私を抱きしめたまま離さなかったため私も大人たちに持ち上げられて上がった。暖かい囲炉裏の前でもじいちゃんは私を離さなかった。真っ青で震えたままずっと自ら動こうとはしなかった。
柿が大好きで実ったらみんなで集まってそれはもうたくさんの柿を食べ続けていたじいちゃんが一つしか食べなかったなんてそんなことを見逃していたなんてと涙を浮かべ始めていた。その場にいなかったみんなもどんどん集まってきてじいちゃん、じいちゃんと叫びながら呼び掛けていた。
抱きしめられたままの私はじいちゃんの呼吸や心臓の音を聞いていた。泣いたら聞こえなくなると必死で我慢したが徐々にその音はなくなっていった。最後のひとつがあってその続きが待っても待っても来なくて、じいちゃんは死んだのだとわかった私は大声で泣いた。それをみんな察したらしく顔を伏せたり膝の力が抜け落ちたり何も見えなくなったような表情になったりしている者もいた。それが自分の涙の壁越しにわかった。
この村でたった一人のみんなのじいちゃんがこの世から去って行った。みんな何時間もそこから動かなくて気がついたら夕方になっていた。いつの間にやら雪もやんでいたようだ。ぼんやりと外を見ていたら炎のような真っ赤な夕陽が射し込んだ。
「じいちゃん、仲間のみんなが迎えにきてくれたで」
私が横で布団に寝かせたじいちゃんの亡骸の肩をとんとんと叩いて呟くと周りのみんなは夕陽を見て、それぞれに頷き合いこれまで生き続けてくれてありがとうございましたと手をあわせた。囲炉裏の火よりもずっと赤くて美しく輝いた夕陽だった。
「じいちゃんの揚げた沢蟹食べたかった」
仲間たちと去っていくじいちゃんに届くように声を張上げると、父が私を抱きしめてほんまやなあと泣いていた。