破壊
桃が転職してから一年が過ぎた。すっかり家事と雑用は私の仕事になって、彼女はいつもやつれて疲れた顔で遅くに帰ってくる。
髪にも肌にもハリツヤが戻った私が大丈夫?と言うと、太陽のような笑顔で大丈夫!と返してくる。
その後に、嬉しそうに「えへへ、ありがと」なんて付け加えて。
桃は自分の状態を分かっているのか。私は凄く心配になった。求人広告は見ていたが、彼女が得意そうで、なおかつ条件のいい仕事は中々見つからなかった。
辞めなよと言おうにも、辞められない状況。どうしようもないから、言ってもしょうがないから何も言わなかった。
その夜、桃は寝てる私に迫ってきた。「シよ……ね?えへへ」いつも通りえへえへ笑いながら、少し痩せたくらいじゃ失われない胸を、なだらかに凹んだお腹を見せて。
桃に触れると、心臓がドキドキ言っていた。興奮してるんだ。
ご無沙汰していた私は嬉しくなって、両手を広げて彼女を受け入れた。
フルリと巨大なマシュマロが私の顔を覆う。シルクみたいに滑らかな太ももが股に当てがわれる。
頭にキスが降ってくる。キスの嵐だ。いっぱいの愛を感じて、私は桃を抱きしめた。
生物は、死が近づくと生殖本能が増大する。何かで見た記憶があった。
朝起きると、彼女は私の横で眠っていた。初めて会った時のように。
でも触れると冷たくなっていた。
桃は死んでいた。
冷たく、石のように固くなった手を握る。彼女の、雪のような体温が私に染みてくる。
殺された。桃の会社に、私の桃は殺された!明るくて楽しくて、大好きだった桃を殺された!
その瞬間、冷たい炎が私の中で燃え上がるのが分かった。桃の体温で、私の憎悪で。
私の中で桃は生き続ける。私は桃のために何でもする。そう、誓った。
このまま、桃を死なせるものか。
桃が死んで一ヶ月で私は今の会社を辞め、桃のいた会社に就職した。
本当は直接社長を殺しに行きたいところだけど、それじゃ私まで人生が終わってしまう。
そうはさせない。時間がかかってでも、内部から崩壊させる。騙して騙して、全て騙して全てを掌の上で動かせるようになってから、全て壊してやる。全て。
予想通り一日目から無理難題と長時間労働、残業の嵐。セクハラと草取りこそなかったけど、私が最初に勤めた会社と大差はなかった。
でも私が経験したところよりはヌルい。一度経験したから耐えられる。
どうせ耐えられないと思ってバカにしてくる先輩共に怯えることなく、心の中で見下しながら仕事できた。
それに、心の中の桃が励ましてくれてる気がした。
私がブラック企業に転職してから二週間と立たない頃、一本の電話がかかってきた。
取り引き先じゃない。教えられてないが、見覚えのある電話番号。
すぐに取る。それは吉報だった。
実は私と桃は前に体外人工授精をクリニックに頼んでいた。成功すれば、私たちの子供となる予定だった。
でももう、桃はいない。私一人じゃ育てられない。嬉しそうに話す電話口の女性とは裏腹に、私の声は少しずつ暗くなっていく。
一通り受付の女性が喋り終わったところで、私は桃が死んだことを、私の今の環境がとても子供を育てられるものでは無いことを切り出す。だから、下ろすと。
絶句される。それから十数秒。重々しく口を開いた受付の女性は、代理母を探せると、言った。
代理母。人の卵子を、人の子供を自分の胎内に入れて育てるような人がいるのか。甚だ疑問だ。でもそれは私にとって目からウロコだった。
桃と私の存在を証明してくれる人を、殺さずに済む。確率は低いが、という女性の言葉を押し切り、私はお願いした。
復讐に燃えるだけの日々に、一点の光が射した。
待っててね、私達の子供……。
私の中の桃、私たちの子供、私の耐久力。この三つで、私はがむしゃらに仕事をした。終電なんか気にしない。パワハラなんか障害物にならない。
とにかく、少しでも早く上にのし上がるため何でもした。時にはお客を騙すような真似もした。身体が壊れても出社し続けた。
全ては評価を得るため。何がなんでも役員になる必要があった。
それも元を辿れば桃のためだ。私は、桃に一生を捧げる。元よりそのつもりだ。
時は過ぎていった。時代が変わり、世界が変わった。私はそれに適応し続けた。ハイペースで成長し続けた。
会社も時代に適応した。最初の酷い労働環境は改善されていった。まあそれでも他社と比べるとブラックだったけど。
だけど私は改善された分仕事した。成績は常にトップで、常に褒められた。
私は笑顔でそれを受け取った。絶対に殺す。そう思いながら。
その甲斐あって、私は社長の補佐を勤めるようになった。桃が死んで20年以上が経った頃だ。私は46歳になっていた。無理をしすぎたせいで、見た目は60歳にも思えたが。
補佐と言っても、実質私が会社を動かしているようなものだ。
社長が私の言う通りに事を運ぶよう、言葉を選び助言するだけで面白いように動く。
それを二度三度試して、機は熟したと思った。
思わず笑みが零れた。