第一話 可憐な少女 ①
それは地方にある小さな孤児院だった。
養子として、これから孤児院を出ていく可憐な少女……夜河 華蓮のための送別会が行われていた。 五歳にも満たない子供達が、旅立つ華蓮に抱き付き、つたない文字で書いた色紙や折り紙を渡し、わんわんと泣いている。
10年以上前に改正された里親補助法案により、――特例はあるが――孤児院の子供は小学校に通う前に養子あるいは全寮制で小中高一貫の学校に迎え入れられることになっていた。
みんなから泣きながら抱き付かれる華蓮は、綺麗な顔立ちをしていた。 艶がかった黒髪は肩口付近で揃えられている。 子供たちを見る目は、夜空のような優し気な瞳をしていた。
華蓮は困ったように微笑み、目線の高さを子供たちと合わせるようにしゃがんだ。
「ほらほら、泣かないの。 絶対また会えるから」
そう言って子供達をあやしながら、華蓮は他の職員に指示を出している高齢の女性へと近付く。
「院長先生……」
「華蓮ちゃん、どうしたの? やっぱり、ここを離れるのは怖いのかしら?」
女性はゆっくりと華蓮の方を向き、にこりと笑いながら問いかけてくる。
この孤児院の責任者である米倉院長は、年齢はすでに70を超えている。 初めて見たときには無かった白髪、目元に浮かぶ皺からは笑うと周囲を安心させる力があった。
それでも瞳がいつもより潤んでいるせいか、少し弱っている印象を受ける。
「えぇ、ちょっとだけ……」
華蓮は、未知への不安を隠すように舌をペロリとだす。
「フフッ……そう言ってもらえると、孤児院の院長として冥理に尽きるわ」
米倉院長は手で口元を隠すように笑うと、不意に華蓮を抱き締める。 突然抱き付かれた華蓮はピクリと反応するが、すぐに身体の力を抜いて抱きしめ返した。
「あなたも知っている通り、あなたは普通とはかけ離れた道を歩かなければいけない。それは明日かもしれないし、何十年も先の事かもしれない。ただ、3つだけお願いがあるの」
「はい」
そう言うと米倉院長は、華蓮から少し離れて、指を人差し指たてる。
「1つは、その運命に対して恨んだりしないこと。 あなたのご両親も、あなたを愛しているからこそあなたを産む決断をしたの……だから、あなたのせいでもないし――」
「お母さんやお父さんのせいでもない……まして、院長先生のせいでもない」
華蓮が引き継ぐように、自分に確かめるように言葉を紡ぐと、ウンウンと米倉院長は頷き。
「2つ目は、前を見て自分の意志で歩くこと。 別に立ち止まったり振り返ったりしていいけど、胸をはって自分の後悔しない生き方をしなさい。」
2本目に中指をたてて、華蓮が頷くのを確認する。
「3つ目は――」
「それでも辛くなったり、ダメだと思った時は帰ってくること……ですよね?」
華蓮は被せるようにそう言うと、米倉院長の手を両手でやさしく包みこむ。
「院長先生が旅立つ子供達に言ってる言葉なんで、覚えちゃいました。 それに――」
「それに?」
「辛くなくても、どんなに幸せでも。 私、帰ってきちゃいますから」
華蓮はそう言うと、にこりと微笑む。 まるで旅立ちを祝福するように風がやさしく吹き、華蓮の髪を揺らした。
☐
季節は4月の下旬。
ゴールデンウィークという長期休暇とはよく言うが、それは学校生活を謳歌する学生や、白い企業で働いてるサラリーマンくらいにしか当てはまらないだろう。
「ゴールデンウィークくらい、会社休みにしろよ……」
長期休暇中でも稼働している企業ビル。 そこのトイレ掃除をしている平凡な容子の俺…道上総司は額に流れる汗を拭きながら呟いた。
「2階のフロアしか稼働してねーのに、何で全フロア掃除しなきゃダメなんすかね?」
返事が無いことは承知のうえで、一人言で疑問文をなげかける。
ぜひ想像してほしい。 ここ数日、雨も降らず日差しが照りつけ、窓も閉めきられた七階建てのビル……内部の室温は上がり、冷房も付けられないという地獄を……。
上の階を使ってる形跡があまりないので、いつもより簡単に掃除を済ませ、女子トイレ担当の相方に声をかけてみる。
「おばちゃーん、こっち終わったぜー」
「はいよ! こっちも水捌けしたら終わりだよ」
ふっくらとした体格、そしてふっくらした顔に笑顔を浮かべてパート歴数十年の大先輩、中島花子さんがグーサインをだす。
うちの社長の2倍は生きてるのに、そのパワフルさは若者にも負けない。 そんな花子さんの夫は喫茶店を経営しており、総司もかなりお世話になっている。
花子さんはデッキブラシを巧みに操り、瞬く間に水を排水溝まで追い詰めていく。 総司はその間に用具台車を片付け始め、すぐに帰れるように準備する。
「さ、ちょいと休憩しようかね。 こう暑いと体調管理もしっかりしないとね」
「そうっすね。 ここで休むのも暑いですし、2階の休憩室ならエアコン使えるんじゃないですかね?」
「じゃあ、そっちで休むとしよう」
エレベーターが開くと、微かな冷気にすこしだけ生きた心地を感じる。 これでエアコンがついてなければ、確実に2人分の救急車が必要だっただろう。
期待していた通り、休憩室では冷房が稼働しており、昼前ということもあって誰もいなかった。 自販機でそれぞれ飲み物を買い、備え付けのソファーにどかりと座る。
「これがキンキンに冷えたビールなら、最高なんだけどねー」
「わかるわー」
「ゴールデンウィークくらい、のんでもバチは当たらないわよねー?」
「そりゃそうだ」
2人で声を上げて笑いながら、一息つく。
「そういや、みっちゃんはこのあと社内で内職だっけ?」
「そうそう、作業場で金属プレートの穴あけっす。ゴールデンウイーク明けにお客さん先に持っていく予定ですね」
清掃会社[垣根クリーンサービス]、それが総司が勤める会社だ。主に企業ビル等の清掃・庶務活動を行っているが、企業や個人からのちょっとした依頼…所謂なんでも屋としても活動している。
基本業務を全然やらない社長がいて、正社員は総司のみ。
「あたしゃいつも通り昼上がりだからね。 よかったらうちで昼飯食べてくかい? 日替わりはカツカレーだよ」
「マジすか、行きます行きます!」
「おいでおいで、旦那にも連絡しとくよ」
ガラケーを取り出して、ぽちぽちと何か打ち込んでいく花子さん。 しばらくすると顔を上げて、旦那もいいよって。 さ、こうしちゃいられない! と、渇をいれるようにパンパンと自分の顔を叩き、花子さんは立ち上がる。
「さっさと帰るよ!!」
怒鳴るようにそう言うと、用具台車を押してさっさと行ってしまった。
「元気だなー。 おばちゃん」
呑気に伸びをしながら言い、窓から見える景色をみた。
世間が長期休暇でも、いつも通りだな……。 と、思いながら。