Ⅷ………“ちっぽけヒーロー”①
4階分の階段をかけ上がる。上がる途中はよかったが、上がってからが不味かった。五臓六腑がひっくり返った。ふらふらしながら美術室へ。
柏木さんはいない。
僕は絵の具をもって、さらに上へ上がった。
あの日から、僕らの屋上にポツンとひとつ、椅子が置いてある。新しい柏木さんの特等席だ。今日も彼女はそこで本を読んでいた。
「柏木さん、こんにちは」
「ん。待ってた」
柏木さんはパンっとその本を閉じた。
「今日は何の本?」
「『モデルのポーズ秘伝書①』」
説明書か、それとも小説か………わからないや。
僕はパレットを開き、色を並べる。
昨日まででもう下書きは終わっていた。
準備をしている間、柏木さんは本を変えて、再び元の席につく。持っているのは、緑の革表紙で、辞書くらい分厚い古い本。僕が絵を描いている間、もう何十回と読んだはずなのに、また同じ本だ。それは僕がそうしてと頼んだのではなく、彼女の絵のモデルとしての流儀なのかもしれない。
柔らかい風を感じながら、筆に色をつける。
まだ空は明るく、青い。暮れるまで二時間はあるだろう。それでも柏木さんが風邪をひいてはいけないから、出来るだけ急ぐように心がける。それに、もう見なくたって十分に焼き付いている。
筆の穂先が絵に触れる直前、うっかり筆を落としてしまった。………いや、正確には、“うっかり”というより、一瞬腕に電流が走ったように痺れ、手が弛んだのだ。
筆を拾おうと右手を伸ばしたとき、ハッとした。
「………翔太郎、大丈夫?」
モデルとして静止していた柏木さんが、心配だというように僕を見る。
「大丈夫、大丈夫。ごめんね」
そう僕は笑って答え、左手で筆をとった──震える右手を必死に隠して。