LⅩⅩ………地平に向かって(文化祭・二日目)
淡々と、だけど優しい顔で、翔太郎は千夏と、そして千秋について全てを話してゆく。私はどんな顔をして聞いていいのかわからず、いつの間にか床を眺めていた。
ずっと知りたかったことなのに、聞けば聞くほど、胸が苦しくなる。どうしてこんな思いになるのか、どうして前よりも心は曇ってぐちゃぐちゃになるのか全然わからない。そもそも私はいつから、どうしてこれを知りたいと思ったんだろう。
最初は、それこそ『罪』を見たばかりの頃は、私の中にあったのは感動と、希望。今思えば、羨望も少しくらいはあったかもしれない。それから高校に入って、『罪』の作者の三坂翔太郎が同じ学年にいると知って、興味が生まれた。あんな絵を描ける人は一体どういう人なのか、たったそれだけのちょっとした興味。実際に知り合って、話して、勉強して、笑って、時にはちょっと困らせて…… そうして毎日を過ごすうちに、最初の感動も希望も羨望も、どうでもよくなってしまってた。ただ翔太郎と過ごす日々が楽しくて、眩しくて、それだけでよくなってた。阿立が文化祭について駆け込んできたあの日だって、まだ私は「翔太郎の描く絵が見たい」としか思っていなかった。
それで、翔太郎が絵を描き始めて、サンセットオレンジができて……。
ああ、そうだ。思い出した。
「……これで全部。ほら、僕が悪いんだ。ナツの悩みも、アキの気持ちも、全部知っていたのに、肝心なことを忘れて、無意識に任せて絵を描いた。気づいたときにはもう手遅れで……二人にあんなことをさせてしまった」
後ろめたそうにくしゃっと笑った。
「ずっと謝りたかったんだ。謝ろうと思ってて、いろいろ準備してたらさ、こうなっちゃった。本当は先に謝らないといけなかったんだよね……もう、今更かもしれないけどさ、見て欲しいものがあるんだ」
そう言って翔太郎は、美術室奥の画材などが置いてある保管室に足を進めた。そしてすぐに額縁に入った一枚の絵を持って、私の元へ戻ってくる。
「これ……」
描かれていたのは、この美術室。それから、屋上、教室、図書室……それらの黄昏時の風景がまるでステンドグラスのように、一枚の絵にちりばめられて描かれている。ところどころにいるのは真由、松本、玲くん、千夏、それとたぶん千秋……私と翔太郎にかかわりがある人たちばかり。それぞれは別にメインキャラクターというわけでもなく、ただ日常の一片にたまたま映り込んだだけというように特別なことは何もしていなかった。具体的なようで抽象的な、何を描いたのかきっと他の人には伝わらない。
そして、私の姿はどこにもなかった。翔太郎の姿も。なのにどうしてだろう。サンセットオレンジを見た時とは違う、この温かさは。
翔太郎から絵を受け取って、急いで額縁から取り出してみる。私の様子を見ながら、翔太郎はまた話し出した。
「描き直したんだ。柏木さんの依頼通りに。……これが僕の世界。僕が見てる、君の世界」
その言葉で、題材ツアーのラストスポットでのひと時を思い出す。
『私を描いて。翔太郎が見てる世界を、私に見せて』
そう頼んだことを思い出した。そうか、だから温かいんだ。だから寂しくないんだ。この絵に私も翔太郎も描かれていなくても、この絵は間違いなく、私と翔太郎の繋がりを証明する絵だから。
「許して、なんて言わない。けど、ずっとこれを見せたかった。謝りたかった。それだけは……わかって欲しい」
翔太郎はひどくまじめに、珍しく目を逸らさずにそう私に語る。
けど。
私は一通り、確認したその絵をもとあったように額縁に収めた。
「この絵にもない」
え? と、翔太郎が目を見開いた。
「一体何が、何が無いの?」
翔太郎は戸惑ったまま聞いてくる。
「メッセージ。この絵にも、サンセットオレンジにもなかった」
『罪』にあった「君に贈る」の文字。千秋に贈られたその言葉。私はそれが羨ましかったんだと思う。サンセットオレンジが完成して、それを見た時に、文字が無いのが分かって、そこからだ。そこから私は求めてしまった。『罪』は誰に贈られて、どうしてサンセットオレンジは私に贈られなかったのか。そう思うと、寂しくて、苦しくて、苦くて、胸の奥が痛くて…… ぐちゃぐちゃになってしまって。
翔太郎は「ああ……」と言ってため息をついた。思い当たることがあるのだろう。
「絵に文字を入れるのは止めたんだ。……ちゃんと言葉にして伝えようと思って」
「……なに?」
別に、絵が欲しかったわけじゃない。私が欲しかったのは……。
褪せた青が教室に影を作る。翔太郎はまた真面目な顔をして、大きく息を吸った。
「――ごめんっ! 回りくどいやり方で。でもただただ謝りたかった。曖昧な絵を描いてしまったこと。そのせいで僕とナツ、アキの問題に巻き込んでしまったこと……何より、柏木さんを苦しめてしまったこと」
それから……と止まらない勢いでさまざまなことを謝罪し続ける翔太郎。私はもううんざりして、両手で翔太郎の頬を掴んだ。
「は、はしわひさん……?」
頬を掴まれた翔太郎はふにゃふにゃな滑舌で私の名を呼ぶ。ちょっと面白くて、もう少し強く引っ張った。
「いひゃいいひゃい……ごめん、あやまるひゃら……」
「違う」
謝って欲しいわけでもない。
え、と翔太郎が目を丸くする。
「もう謝るな。翔太郎だけが悪いわけない。私も、千夏もきっとそう思ってる。だからもう謝るな」
まだ納得いかないのか、翔太郎は昏い目をして「でも……」なんてほざく。私はさらにうんざりして、そして一つ気がついた。知りたいなら、欲しいなら、待ってるだけじゃダメなんだって。
「私が、私が欲しいのは、文字でも絵でもない。……翔太郎、私を見て?」
握っていた手を放し、包み込むように両手を翔太郎の頬に当て直す。疑問符が浮かんだ翔太郎の顔に微笑んで、続けた。
「私が欲しいのは、翔太郎。優しくて、頑固で、絵は描けるのに変なところは不器用で―― 私を私にしてくれた、翔太郎」
褪せた青も、影も、他の何ももう映らない。目に在るのは彼一人。
ぐっと、顔を近づける。唇が触れようとするその瞬間、すんでのところで翔太郎におでこを押さえられて止められた。見ると耳まで真っ赤っか。上擦った声で、早口で言う。
「か、柏木さんっ! そ、その、気持ちは嬉しいけど、今日はそういう気分じゃないっていうか……いろいろあったし、あんなことが起きたばかりだし……だから、まだその気持ちは受け取れな――」
ん……。
「――うるさい」
無理矢理、体を押し付けた。いろいろな本に、キスは甘い味がするって書いてあったけれどいつも疑ってばかりだった。だって唇と唇が触れるだけ。味がするわけない。
でも。なるほど、たしかに甘い。胸の奥が、温かくて、優しくて、確かに甘い。
体制を元に戻すと、翔太郎は顔を真っ赤にしたまま口を押えて静止している。それが面白くて、愛おしくて、笑ってしまった。なるほど、後味もなかなかいいものだ。
しばらくそうしていると、やっと翔太郎も我に返ったのか、ちょっぴり不機嫌な声で、だけど顔は真っ赤なまま、恨みがましそうに私の声を呼んだ。
「……柏木さん」
先手必勝。今日学んだことだ。翔太郎が何か言いだす前に、口を挟んだ。
「翔太郎が今日どうしても謝りたかったように、私はさっきどうしてもこうしたくなった。だから、何も言うな。返事はまた今度でいい。そういう気分じゃないなら、ちゃんと待つ。だから――」
けれど流石に、少し恥ずかしくなってきた。ついには翔太郎すらまっすぐに見れなくなって、尻すぼみになってしまう。
「……大好きだよ、翔太郎」




