Ⅶ………強制招待と初めてのオレンジ③
4階のその上、つまり屋上に出る前の薄暗い空間。
なんの躊躇いもなくポケットから鍵を取り出す柏木さんに、不安だったから聞いてみた。
「屋上だよね?大丈夫?」
もちろん、この“大丈夫”は“許可はとったのか?”という意味だ。
「大丈夫。バレなければ、大丈夫」
全然大丈夫じゃないよ!と言おうとしたけれど、カチャリと鍵が開く方が早かった。
ドアを開けて迷いなく進む柏木さん。仕方がないからついていくことにした。
屋上は思っていたよりも広かった。一面が灰色のコンクリートだけど、空や他の景色がその寂しさを和らげていた。少し風が強い。
柏木さんはドアの横にもたれ掛かるようにして座った。そして呟くように僕に話した。
「現在、美術部の部員は私を入れて3人。そのうち2人は三年生。夏には引退。そうなると私1人………3年連続で部員数が4を下回ると廃部になる」
「………だから僕を入部させたいって?」
コクっ、と柏木さんが頷いた。それでも僕は納得がいかない。
「別に僕である必要は無いじゃないか。人数合わせなら別に誰だっていいだろ?」
そこで柏木さんは何か苦いものでも噛んだかの様に顔をしかめた。何かいけないことに触れてしまったのだろうか?
「………そう。真由も最初はそのつもりだった。………私は美術なんて興味はない。気づいたら入部させられていた。けど、それは別にいい。問題はそこから。──真由は私にこう聞いた。『誰か美術部に誘いたいやつはいないのか』と。」
「………それが、僕?」
コクっ、ともう一度柏木さんが頷いた。
わからない。わからなかった。柏木さんとは今年同じ高校に入って、たまたま同じクラスになっただけ。今まで何の接点もなかったはずだ。それなのになぜこんなに僕にこだわるのか、それが全くわからなかった。
「三坂翔太郎。私は君以外で同学年を美術部に入れる気はない。たとえそれが廃部に繋がろうと、真由に怒られようと、知ったことではない」
柏木さんが立ち上がった。
日はいつのまにか大きく傾き、西をオレンジに染めている。そのオレンジはゆっくりと全てを呑み込み、寂しい灰色のコンクリートさえも優しく溶かした。風が光を運ぶ。次第に藍が待ちきれなくなり、せかすようにして夕陽を追いかける。
青いキャンバスにめいいっぱい自分の色をぶちまけて、気が済んだというように闇を纏って姿を消す。──夕陽とはそういうものなのかもしれない。
「“他の何よりも、この景色が好き。どんな作家も、どんな画家も、あれを表現しきることなんて出来ない”──私の父はそう言った。だから、見せたかった。ここから見る夕陽を、三坂翔太郎その人に。………ねぇ、三坂翔太郎、」
初めて、柏木さんの笑った顔を見た。温かく、そしてどこか儚げ──まるで夕陽のようだ。
「──美術部に入って。私と、一緒に。」
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大きく傾いたオレンジに、柏木さんはカメラを向けた。けれど、カメラはぱしゃりと音をたてないまま、すぐに下を向いた。
「──そっか。1年前、柏木さんが僕を誘ったのはあの絵を見たから、なんだよね?」
「ん。あってる。けどそれだけじゃない」
僕らは互いを見ずに、ただ沈みゆく太陽だけを見つめて声を吐く。
「知りたかった。あの絵を描いた人がどんな人かを。そして期待もした。私に美術を愛させてくれるのではないか、と」
父は有名画家、母は美大卒、姉も美大へ進学。昔、真由先輩に聞かされたことがあった。柏木さんは家で孤立している、と。
日は少しずつ、本当に少しずつだけど、沈んでゆく。同時に東からは夜が歩み寄っているだろう。そして時間がたてば星が並んで、川を成す。星が流れて夜が淡く散ってゆけば、また日が昇るのだ。
僕は柏木さんを見て聞いた。
「──で、わかった?僕がどんな人なのか」
「ん。だいたい。」
柏木さんも僕の方を向いた。
風が吹いた。暖かくて優しい風が。風は塵を巻き上げ、そして塵は西陽を浴びて宝石のようにキラキラと輝いた。
柏木さんは右手で髪を耳にかけ、うっとりとその光景に目を細める。風が彼女の艶やかな黒髪を踊らし、塵と共に光を纏わせた。
ギュッ、と僕の右手に力が籠る。“言わなくちゃ”、と。
「──柏木さんを描きたい。この場所で、この時間で、………柏木さん、君を描きたい。──ダメ、かな?」
途中からなんだか気恥ずかしくなって、目をそらしてしまった。
柏木さんは真っ直ぐに僕のもとまで歩み寄ると、僕の顔を両手で挟み、グイっと自分の方へ向けた。………近い。僕の顔と柏木さんの顔の間にはものさし1本がギリギリ入るか入らないくらいしか余裕がなかった。
カッと顔が熱くなったけど、すぐに戻った。
驚いた。柏木さん、笑っていたんだ。1年前と全く同じ、あの笑顔で。
「──ん。いいよ、私を描いて。翔太郎が見てる世界を、私に見せて?」
ああ、敵わないな、とそう思った。僕はずっとこの人に振り回され続けるのだろう。
冷たい風が吹いた。風はさまようようになびき、声だけを遺して消えていった。
──また、誰かを“代わり”にするの?