LⅩⅨ………夕日を辿る(文化祭・二日目)
階段を降りながらオレンジ色の封筒を開けると、二つ折りにされた便箋が二枚。内側の方を先に開いて読んでみた。
『この手紙を読んだらすぐに、私のところに来ること。もう事がすべて起こった後なら、私が初めて翔太郎に話しかけた場所に来て』
書いてあるのはたったそれだけ。そしてもう一枚の方には、タイトルとして『今日の予定』と書かれており、その下に、ナツと柏木さんの行動スケジュールが事細かに記載されている。二人が絵を隠す過程についても詳しく。
朝、柏木さんが僕の鞄を何度もチラチラと気にしていたのを思い出した。おそらく僕が寝ている間に、既にこの手紙を入れていたのだろう。もしかしたら柏木さんは、事が起きる前に、僕に気づいてほしかったのかもしれない。今となってはもう、すべて手遅れだけど。
時刻は午後五時少し前。もう少しすれば田中生徒会長の放送が入り二日間の文化祭もこれで終わりだ。絵葉書はどれくらい売れただろうか。結局、ブースの手伝いはほとんどできなかったな。
渡り廊下を渡って第二校舎を通り過ぎる。第一校舎には私服の人も結構いたのに、今はほとんど明日町高校の制服を着た生徒でいっぱいだ。皆忙しそうに箱を運んだり装飾を外したりして、片付けを進めている。
「あ、三坂くん!」
後ろからふいに声を掛けられる。声の主は赤い眼鏡の松本さん。何かとても焦ったように息を切らしながら僕の元へ駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも、あの後から三坂くんも柏木さんも千夏も全然見当たらなくなっちゃうから。心配したんだよ? 」
それもそうか。他の人には僕らの事情なんて知る由もないんだから。
「ごめん。ブースの方は大丈夫?」
「え、ああ、そっちは大丈夫。三坂くんのおかげで、売り上げもうなぎ上りだし、柏木先輩も手伝いに来てくれたし……それより、千夏と柏木さんは? 無くなってた絵は? 三坂くん、何か知らない? あとなんでそんなにびちょびちょなの?」
びちょびちょなのはさっきまで雨の降る屋上にいたからなんだけど……。
そうか、真由先輩が。だったら何か適当にごまかしてくれればよかったのに。なんて、わがままか。
「ナツなら特別棟の屋上にいるよ。……松本さん、ちょっと様子見てきてくれる?」
「屋上? どうしてそんな……」
「大丈夫、鍵は開いているから。よろしくね」
ニッと笑って、役目を押し付ける。自分で自分が嫌になる。けれど、今はきっと、僕より松本さんの方がいいとも思った。
そんな事情も知らない松本さんはまだ少し困惑しながらも、「わかった、それじゃあ……」と言って反対を向き、第一校舎を出て行った。もう一度、小さな声で「よろしくね」とつぶやくと、僕も反対を向いて第一校舎の廊下を進む。
たどり着いたのは去年の僕と柏木さんのホームルーム、一年三組の教室。中に入ると、知らない学生が一斉にこっちを振り向いた。そりゃそうだ、向こうからすれば知らない全身びちょびちょの先輩がいきなり自分たちの教室に入ってきたわけなんだから驚いて当然だ。
近くにいた女子生徒がおずおずと話しかけてきた。
「あの、誰に用でしょう?」
たぶん僕が誰かを呼びに来たと勘違いしているのだろう。違うけれどまぁいいや、ちょうどいい。
「ごめんね、君らに、ってわけじゃなくて、ここに柏木瑞希っていう二年生来てない? ええと、静かそうで、ツーサイドアップの髪の」
聞かれた女子生徒は全く身に覚えがないというように不思議そうな顔をして首を横に曲げる。あれ、ここじゃないのかな。『私が初めて翔太郎に話しかけた場所に来て』って、てっきりここだと思っていたのに。
……いないなら仕方ない。
「わかった、ありがとう。邪魔してごめん」
「あ、いえ。大丈夫です…… ん? あれ?」
目の前の女子生徒は突然僕の後ろを見て固まった。何だろうと思って僕も後ろを振り向こうとしたその時、チョンチョンと背中をつつかれた。
どうしてだろう、それだけで懐かしいと感じてしまった。
振り向くと、そこにいたのは柏木さん……ではなく。まさかまさかの白い布を被った白お化けマークⅡボルカニックカスタム。そのせいで一気に僕のノスタルジーは吹き飛んでしまった。
僕が声をかけるよりも先に、彼女は一言「ついてきて」とそれだけ言って勝手に進み出してしまったので、何かを問うこともできずに仕方なくそのままついていくことにした。
何を話すわけでもなく、ただ黙って、さっき僕が歩いてきた道を戻ってゆく。
第一校舎を出たくらいで、柏木さんが纏っていた白い布を取って、僕に差し出した。
「翔太郎、びしょびしょ」
これで拭けということだろうか。僕はありがたくそれを受け取って顔を拭こうとすると、「違う」と一言。
「被って」
え。
「拭くのはそれから」
よくわからないけれど、どうやら異論は認められないらしい。もとより逆らうつもりはないし、なにより女装よりましだ。頭からその白い布を被ると、なんだか温かい香りがした。下から手を出して頭を押さえるようして拭く。……なんか、蒸し暑い。
柏木さんはクスクス笑って、また前を向いて進みだした。歩きながら言う。
「今は翔太郎じゃない、白お化けマークⅢ二本足スタイル」
柏木さんの時も二本足だったと思うけどなあ。僕がそういう前に柏木さんが続けて言った。
「……だから、今は何も考えず、ついてきて」
ピンポンパンポーンという間抜けた音が学校中に響く。午後五時。文化祭終了のアナウンスが始まった。
『午後5時となりました。営業・活動を終了し、片付けを進めてください。生徒の皆さんは午後7時までに下校するようお願いします。それではみなさん二日間お疲れさまでした。この放送は生徒会長田中理恵がお送りいたしました。――ふぅ! やっとここまで言えました! 本当に除霊効果があったんですね、この絵葉書!! ああ、なんて嬉し……』
『会長、まだマイク入ってますよ!!』
『あ、ごめんなさ――』
プツン、と放送が切れる。結局真由先輩に邪魔されなくても最後まで決まらなかったなぁ。
柏木さんは放送に関して一切興味を示さず、ただひたすらに二歩先を歩く。もう行先はわかっていたけれど、僕も彼女の二歩後ろを歩くように心がけた。あの時のこの距離感を懐かしみながら、一歩一歩踏みしめて歩く。
着いた場所はあの時と同じ美術室。柏木さんは美術室の扉を開き、中に入ってカーテンをすべて開けていった。陽の光が美術品を痛めてしまうからいつもは触っていないそのカーテン。真由先輩や阿立先生に見られたらきっと怒られてしまうだろうな。南の窓から珍しく光が注がれる。
ぼぉっと外を眺めていると、柏木さんに被っていた白い布を奪われた。
「翔太郎…… 手紙、読んだ?」
そっか、僕はもう三坂翔太郎に戻ったんだ。まじめな顔をして頷いた。
「見たよ」
そう……と悲しげな顔をして俯く柏木さん。
「ごめんなさい。翔太郎、ごめんなさい」
そう言って、深く柏木さんは頭を下げる。
僕はびっくりして慌てて否定した。
「違うよ、僕が悪いんだ。柏木さんが謝ることじゃない」
もちろんナツだって。今回悪者を一人決めないといけないなら、それは間違いなく僕だ。
それでも、柏木さんは首を振ってさらに上から否定する。
「ううん、違うの」
彼女はギュッとスカートを握って声を振りぼって言った。
「もともとは隠すだけだった。けど、サンセットオレンジをああしたのは、水に浸けたのは……私の意志」
「それは……」
それは、もう薄々気がついていた。ナツはきっとたとえ姿が柏木さんだとしても、アキの絵を水に浸けたりしない。それに、柏木さんが書いた『今日の予定』にも「絵を空き教室に隠す」としか書かれていなかったから。水に浸けたのはきっとその場の思い付きだって、なんとなくわかってた。
だから、ずっと聞きたかったことを聞いてみる。
「どうしてそうしたのか、聞いてもいい? ナツから全部聞いたの? ……だったら、本当に柏木さんは謝らなくても……」
「違うっ! 違うの」
初めて、柏木さんの叫ぶ声を聞いた。彼女自身も自分の声に驚いたのだろう。咄嗟に口を押えて、目を見開いた。落ち着いて、再び話し出す。
「千夏からも、真由からも、詳しくは聞いてない。教えてもらったのは、サンセットオレンジに描かれているのが私じゃないってことだけ」
それで十分じゃないか。怒る理由なんて。答えを求める僕はただ彼女を静かに見ることしかできない。
「昨日、一人で美術室で店番をしていると、千夏がやって来て言ったの。翔太郎がどれだけ、この絵を思っているのか確かめてみないか、って」
そこで、今日ナツが行う予定だった全てについて聞かされたと言う。
「知りたくて仕方なくなった。……正直、その前から薄々気づいてた。翔太郎は私を描いていないって。上手く説明はできないけれど、これはきっとモデルじゃないと気づけない、勘?」
モデルの勘、か。きっとナツも嫌になるほど同じ思いをしたのだろう。描かれる側の感情なんて、ちょっと前まで考えたことすらなかった。
「だから、迷ってたの。目に映ってるのは私じゃなくても、絵に映った形は私だから、満足しなくちゃ、わがまま言っちゃダメだって。でも、いざいろんな人に絵葉書を買われて、ちょっぴり、買われるのが嫌で」
褪せた青が、美術室の机に反射する。
柏木さんの目に雫が溜まる。
「それで……! 知りたくなっちゃった。この絵を失くしてしまったら、翔太郎は一体誰を探すのか。でも、そんなことを考えてしまうのも嫌で、でもやっぱり知りたくて、それで……」
止めて欲しくて、僕の鞄にあの手紙を入れたんだろう。
「でも、間に合わなかった。もう私、おかしくなっちゃったの。昔は気にならなかったのに、『何も言わなくていい』なんて言ったのに、どうしようもなく知りたくて、聞きたくて、でもダメだって、翔太郎を苦しめちゃうって思って……ぐちゃぐちゃなのが嫌で、全部無くしたくて……」
絵を壊したんだ。曖昧の象徴であり、元凶たるサンセットオレンジを。
「ごめんなさい……っ! 知らなかったのっ。何も知らなかった! 胸が熱くて、冷たくて、寂しくて、苦しくて……こんなにぐちゃぐちゃで贅沢な気持ち、知らなかったっ!」
もう続きは上手く聞き取れない。
夕日に雲がかかって、雫が垂れた。瞳に何が映っているのか、涙が邪魔で僕には知りえない。
ああ、僕はつくづく道を選ぶのが下手だったみたいだ。大切な人たちをこうやって、泣かせてばかり。
だからこそ、もう道は間違えない。僕の信じる道を、真っ直ぐに進まなきゃいけない。
「ねぇ、柏木さん」
彼女は流れる涙を止めようと、目をこすって僕を見る。
「全部。全部、聞いてくれる? 僕が君に知ってほしいから、話したいから。だから、全部。聞いてくれないかな?」




