LⅩⅧ………少年の罪②(文化祭・二日目)
だから僕は、ナツに言ったんだ。『アキを殺したのはきっと僕だ』と。たとえ道に飛び出たのがアキだろうとナツだろうと、殺したのは僕なんだ。アキを選び、殺し、罪を背負った。同時にそれはナツに『選ばれずに生きる』という罰を突きつけた。
誰からも見えない特別棟の屋上の端っこで、今にも後ろに体を倒そうとしているナツに、僕は焦ることもなく一言、声を投げた。
「嘘つき」
目を閉じていたナツが振っていた手をピタリと止めて、訝しげに目を開く。僕は一歩ずつ近づきながら続けた。
「ナツこそ嘘ばっかだよ。昔からずっと。もう子供じゃないんだから、嫌ならやめればよかったんだ。それなのに良い子ぶって、無駄に頑張って。自分は死ぬから安心して? なんだよ、それ。本当はそんなこと思ってないくせに」
ナツは手を下ろしてギュッと拳を作った。彼女の全身に力がこもる。険しい顔で、また叫ぶように言った。
「――っ! もう、子供じゃないからやめられないんだ! 今まで続けたことを今更…… 私の何が分かるの? 私を選ばなかった、私を助けてくれなかったショウタに!」
「助けて欲しいなら、助けてって言えばよかったんだよ。恨んでるなら、離れればよかったんだよ。それを、それこそ今更こんなやり方でさ。君がここで死んだって、誰にとってもいいわけない!」
彼女にとっては毎日を偽っていたとしても、それでも。もうたくさん大切に思う人がいる。
ナツの頭に浮かんだのは一体誰の顔だっただろう。一瞬怯んだ彼女はそれらを振り払うように首を横に振って吐き出した。
「じゃあ、選んでよ。私を選んでよ! 私は、私だって……ずっと、」
もう僕はナツの目の前までやって来ていた。手を伸ばせば届くくらいに。
青い空に浮かぶあの時とはまるで違う、軽くて白い雲。なのに、ポツリポツリと雨が降り出した。狐雨。晴れた空とは対照的に、灰色のコンクリートがまるで曇天のような色に変わってゆく。
「あっ――」
突然僕の後ろから強く風が吹いて、宙を切り裂く音が鳴った。隙を突かれてバランスを崩したナツは、そのまま足を滑らして後ろへ――
『私のヒーロー』
あの日、アキにそう言われたから。
今度こそ、ちゃんと君の手をとるよ。もう怯えない、もう迷わない。
宙にぶら下がったナツの右手を、しっかりとつかんで離さない。柵すらない屋上の端っこで、どうにか引っ張り上げようと力を籠める。ナツはそんな僕を悲痛そうな顔で見上げ、また嘘をついた。
「やめて、放して! もう許してよ! もう楽になりたいの!」
「早く、左手も伸ばして!」
「嫌、嫌ぁ! 嫌なの。選ばれないまま生きるのは嫌。寂しいのはもっと嫌。嫌、嫌だ、嫌い、嫌い嫌い嫌い、ショウタなんて――」
「嫌いでいい。憎まれたってかまわない。だから、生きてよ。このまま死んだら、一人ぼっちだよ? 寂しんだよ?」
ナツは眉をひしゃげた。
「そんなの――」
「ごちゃごちゃ言わず、生きろよ! 逃げるなよ。 負けないでよ。醜い? 汚い? 馬鹿、そこがいいんだ。そこが美しいんだ。いつも一生懸命で、優しい、ナツの綺麗なところなんだよ」
僕は努めて笑って見せた。本当はもう手がはちきれそうだったけど、それでも彼女が帰ってこられるように。安心できるように。
雨で濡れているせいで握っている手がゆっくりとずれてゆく。不味いな、急がないと、本当に手遅れになってしまう。晴れたままの空は、一体何を思って涙を流しているのだろう。
ナツはまだ不安そうに僕の顔を見上げて、そして涙と雨でぐしゃぐしゃになった顔でクスリと笑った。
「……狡いな。ショウタは本当に。私のこと、選ぶ気なんてないくせに」
「そうだよ、狡いんだ、僕は。だから僕はナツを選ばない。これから先もずっと。だから、だからさ―― 選ばれるまで、死なないで」
一瞬ナツは目を見開いた後、柔らかに微笑んだ。左手を僕の方へ伸ばし、屋上のコンクリを掴んだ。僕はより一層力を入れて、足をしっかりと踏ん張って、彼女を引き上げる。
『ありがとう、翔太郎』
淡い色の羽の蝶が、その言葉だけ残して羽ばたいた。
ああ、そっか。今度こそ――。
「さようなら、アキ」
ナツが屋上に戻ってくるその瞬間、空に溶けた蝶にそう笑う。殺されても尚、今まで僕らを見守ってくれていたその蝶に。底なしの感謝を込めて、別れを告げた。
いつの間にか点々と水たまりの出来ていた屋上で、二人、息を整えながら横になる。引き上げるというより、引きずり上げると言った方が正しかっただろうな。もう少し僕が背が高くて力が強かったら、ここまで苦労することもなかっただろう。
雨はもう止まってた。屋上と僕らをこれだけ濡らしたのに、空は相変わらず何事もなかったかのように晴れたまま。サービスして虹の一つくらいかけてくれてもいいのに。
僕がそんなことを思っていると、ナツが先に立ち上がって、彼女の鞄を漁りだした。そして中から一冊の本を取り出すと、僕にそれを差し出した。
「これ、ショウタにあげる」
僕も起き上がって手に取ると、驚いた。これ、よくアキがよく読んでいた本だ。表紙がカバーで隠れていて、中を見せてもらったことはないけれど。
ためしにページをめくってみると、さらに驚いた。これ、本じゃない。文庫本と同じ形をした、メモ帳だ。中にはナツとアキが描いたであろう絵や文字が埋められている。
『6/8 ナツ 今日は田中と栗山と二丁目のドーナツを食べに行った。チョコのかかったやつとイチゴのが美味しかった』
『6/8 麗しのアキちゃん♪ ふーん、じゃあワタシは今度翔太郎におごらせようかしら』
『……それなら私も起きてる時にして』
田中と栗山ってのは中学の時の同級生だ。
僕が説明を求めてナツを見上げると懐かしそうに言った。
「それ、私とアキの交換日記。いつも意識が二人ともあるわけじゃないから、どっちかが起きているときに何かあったらこれに書き込むんだ。」
アキがよく『本なんか読んでいない』って言っていたのを思い出した。てっきりからかわれているのかと思ったけれど、本当だったんだ。
「ねぇ、真ん中くらいでちょっと分厚くなってるとこあるでしょ? そこ開いて」
確かにちょうど真ん中あたりに膨らんでいるページがある。なんだろうと、思って開いてみるとページいっぱいに四つ折りになった紙が貼ってある。さらにそれを広げると、見覚えのあるクレヨンで描かれた幼い絵だった。
「これ……」
描かれてあるのは二人のそっくりな栗色の髪の女の子。
「覚えてる? ショウタが初めて私たちを描いてくれた絵」
そうだ、これは僕が幼稚園の時、二人に初めて送った似顔絵。
『ナツとアキは写真だと一緒に映れないからさ、これならみんな一緒』
幼い頃の記憶。ちゃんと持っていてくれたんだ。
「その日までは別の場所にしまっていたんだけどね、アキが突然そこに張ったんだ。いつでも見られるようにって」
ページをめくると、二人のやり取りが綴ってある。
『7/5 アキ ”これでみんな一緒”ね』
『7/5 ナツ 突然どうしたの?』
『……ねぇ、返信は無し?』
『7/7 アキ お互い、いつでも見られるように。忘れないようにね。それより、この前のケーキ屋さんのことだけど……』
そこからは違う話。やり取りを見て懐かしいのがおかしいのか、ナツはクスクス笑う。
「その絵、もらった時もすごく嬉しかったんだけど、それよりも時間がたって、私とナツが完全に別のものになって、それを実感してからもう一回見てみるとね、どうしようもなく嬉しくなっちゃうの。みんなにはわかんない、どうしようもなく、どうでもいいことかもだけど、毎日が辛くなり始めていたあの頃。ショウタと一緒にいると、幸せだけど、その幸せすら辛いあの頃。けれどその絵を見ると、ひとりじゃない、寂しくないって思えて、心が埋まっちゃって嬉しくなる」
ナツは胸に手を当てて、きゅっと握る。浮かんだ温かさを逃がさないよう、優しく手を握って、それからゆっくりと手を離した。
「けど、もういらないから、ショウタにあげる。全部読んでもいいし、読まずに捨ててもいい。ショウタの好きにして」
僕は丁寧に絵をたたんでそのメモ帳を片付けた。これをどうするかは……また今度考えよう。
ナツは僕の隣に並んで座って空を見上げた。憎らしく青い、そろそろ暮れ始めるであろう空を。
「……私たち、本当に嘘ばっかり。さっきね、ショウタのこと、嫌いって言おうとしたの、それも嘘」
叱られていじけた子供のように膝に顔をうずめてナツが言う。
「狡いし、憎いし、恨んでる。……けど、嫌いになんてなれないよ」
もっと深く顔をうずめて、肩をヒックと痙攣させた。数回、しゃくるように啜って、顔を上げて僕を見る。また、涙声で、ぐしゃぐしゃになって。
「――好き。好きなの。ずっと、ずっと前から。何度憎んでも、何度恨んでも、それでも。好き。私、ショウタのことが、大好き……っ!」
でも、とナツはまた顔をうずめて、上目遣いで僕を見る。
「でも、私のことは選んでくれないんでしょ?」
もう近くを翔んでいた蝶はいない。僕はもう大きく傾いた日を一度だけ確認して、ナツに向き直る。
「選ばない」
決めたことだから。選ぶことは優しさじゃないと知っているから。
ナツは涙声のままクスリと笑った。
「そっか……。 うん、ありがとう。『選ばない』でいてくれて、ありがとう」
それだけ言ってまた顔をうずめた。声だけ僕に投げる。
「ショウタの鞄の中、探してごらんよ。柏木の居場所のヒントがあるからさ」
僕は立ち上がって自分の鞄を漁る。中で見覚えのないものと言えば……オレンジ色の封筒。青い文字で”翔太郎へ”と書いてある。
「ありがとう、ナツ」
ドアノブに手をかけて、最後に一度だけナツを見る。ナツはうずくまったまま。
「大丈夫。もう馬鹿なことはしない。嘘じゃないよ。……だから、早く行って」
僕はその声に反応せず、そのままドアを開けた。もう振り返ることはせず、階段を降りた。




