LⅩⅥ………真夏の蝶の罰③(文化祭・二日目)
そんでもってあの日だ。夕立の酷かった中学三年生のあの日。僕らの毎日がもうどうしようもなく取り返しのつかないことになってしまったあの日。ナツは灰色の屋上に大粒の涙を何度も落として、あの日の出来事を言葉にして溢してゆく。
「アキが『ワタシを殺して』って言ったあの時、私はひっそりと目が覚めた。とても温かくて、優しくて、甘くて、今までのどんな時よりも幸せで……そんなアキの心が、それまでにショウタにもらった言葉が、目覚めたと同時に流れ込んできたの。私はもう……限界だった」
嗚咽交じりの、潤んだ声。僕は立ち尽くしたままただ聞き続けることしかできなかった。
「今までみんなのためにあんなに頑張って来たのに、輝くよういろんなものを我慢してきたのに、なのに……なのに、本当に選んで欲しい人には選んでもらえない。たくさんつらい思いをしてきたのに、もっとつらい思いをして、切り捨てられた。もう何も考えたくなくて、でも考えずにはいられなくて、ぐちゃぐちゃになって。死にたいと思った」
呼吸が少し落ち着いて、ナツがにこっと笑った。
「覚えてる? あの時のショウタとアキの会話。甘くて、綺麗で……あれがアキじゃなくて私だったらどんなに嬉しかっただろうなんて……そう考えてしまう自分が醜くて汚らわしくて、どうしようもなく最低で、嫌になる。わかってる。アキは悪くないって。私が汚いのが悪いって。全部わかってるの」
右手で涙をぬぐいながら、ナツが少しずつ、後ずさってゆく。
「嫌なの。ううん、嫌なんだ。あれ、どっちだっけ。どうでもいいや。とにかく嫌なの。ぐちゃぐちゃなのは嫌。でももう今更どうしようもない。今からなりたい私になんてなれないし、もうどうなりたいかわからない。誰かの”代わり”は嫌。でもショウタの瞳に映らないのも、耐えられない。もうわかんない。もうわかんないよ、私が一体誰で、どこにいるのか。どこにいたいのか。ショウタ、アキに言ったよね、『どこにでも好きに行きなよ』って。じゃあ私は? 私はどこに行けばいい? こうも言ったよね。『君が君を否定しないで』って。嫌だよ。今の私を肯定できるわけないじゃん」
両手で頭を押さえて、まだまだ足ずさってゆくナツ。僕ももう立ち止まってなんかいられない。
だからね、とまたナツが笑った。
「だからね、あの日ショウタと別れた時、私だけ死のうと思って、走ったの。私が消えれば、みんなみんな幸せでしょ? アキが本当の佐野千夏になって、ショウタと佐野千夏が付き合って。周りのみんなは戸惑うかもしれないけれど、きっとショウタなら、ヒーローのショウタなら、佐野千夏はそんなこと気にせずに幸せにできるはずだから。だから私が表に出て、トラックに引かれて、目覚めた時にはアキだけ残る。そう願って、走った」
あの時の耳をつんざくようなトラックのクラクションを思い出す。結局トラックは寸前のところで大きくハンドルを切ってアキもナツも傷つけることなく、建物に突っ込んだ。運転手も奇跡的に無傷で、とりあえずただの事故として処理された。そう、どこにも死体が出なかったのだから、死亡事故にはならなかったのだ。ナツは引かれたと思い込んで気絶しその後病院へ送られ、特にけがなどがなかったため、一晩で退院となった。
「馬鹿だったと思う。だって私があそこで引かれたところで、私だけ死ぬなんてことできたかわからないんだから。それどころかもっと酷かったね。起きたらね、知らないベッドの上で、周りでみんな泣いてて。で、妙に体が広く感じたの。あったものが無くなって、軽くなったような、寂しいような、違和感。心の中で何度もアキに話しかけた。何度も。でもダメだった」
病院のベッドでの上で、泣くわけでもなく、怖がるわけでもなく、ただ茫然とした様子のナツが「アキが死んじゃった」って僕に言ったのを、僕は今でも夢に見る。見るからに、あの時のナツは空っぽだった。
「罰だと思った。馬鹿なことをした罰だって。私だけの体じゃないのにあんなことをしたから、アキの幸せを無意識に壊そうとしたから、私だけ残されて、生きることになっちゃった」
もう屋上の端っこ。ナツはクスリと笑って僕に手を振った。
「でも安心してね。今度は失敗しないから。私一人で逝くから。醜い私は消えるから。さようなら、ショウタ」




