ⅩⅩⅩ………絵を描く彼は
絵を描く感覚というのは不思議だ。特に、水彩画なんてものは本当に。
パレットの上のただの絵の具が、キャンバスにつくその瞬間に意味を持ってしまうのだから。
いくら手を伸ばしても手に入らないものが、望んだ姿で留めることができるのだから。
好きなものを筆に乗せ、酔わして踊らせ縛り付ける。それがいつの間にか違うものになっていたとしても、気づくことがないまま。気づいても知らないふりをして。少なくとも作り上げるその瞬間だけは、その世界を何よりも愛するのだ。
愛してたんだ。好きだったんだ。
──君に私は映らないのね。
探していたとも。
──私じゃない、あなたのためでしょ?
君のためだと信じていたとも。
──また、誰かを“代わり”にするの?
代わりじゃない、変わらない。
──私の声は聞いてくれないの?
だって君は……いや、ごめん。
──嘘つき。
ごめん、ごめんね、ごめん……
筆をキャンバスから離し、そのまま水に漬けた。ぷかぷかと浮かびながら先の方についた絵の具が少しずつ水に溶けてゆく。
モデルなんてない、自分の部屋。机の上には絵の具と漫画が散らかっている。
タオルで手をふいて、一冊手に取った。松本さんに借りた『ちっぽけヒーロー』、その七巻。松本さん曰く、「たぶん次巻で最終回を迎えるわ。ロイくんがリリィ王女に……あ、いや、それは七巻読んでからね。さてさてロイくんは一体誰とハッピーエンドを迎えるのかな……私的にはパン屋のおじさんあたりでも、あっ、なんでもないからね!」とのこと。
ページを進めるごとに、終わりが近づいているのがわかる。
ロイが普段は新聞配達をしているのがリリィにばれてしまった。誰かがロイの知らないところでリリィにばらしたのだ。松本さんが最初に言いかけたことはきっとこれだろう。
あっという間に、一冊読み終えてしまった。
読めば読むほどに、ナツが描いた絵を思い出す。
このポップな絵柄とはかけ離れたナツの絵葉書。ナツなら元々の雰囲気を残したまま描くなんて簡単なはずだから、あえて画風を変えたとしか考えられない。おそらく、僕に何かを伝えるため。あるいは、気づかせるため。
漫画を置いて、僕はもう一度筆を手に取った。しっかり水気を取って、新しく色を付ける。
もう手は震えない。ただまっすぐに、描きたいものを描くんだ。伝えたいことが伝わらなくてもいい。文字もいらない。
声に乗せて、しっかりと伝えるんだ。
夜が更けてゆく。月が回って、星が入れ替わる。
買い出しの日から描き始めたこの絵ももうすぐ完成だ。
明後日が文化祭。それまでには間に合うだろう。




