ⅩⅩⅨ………雨が溶けてく②
この画材店には取った商品を入れる籠なんてものはない。
頼まれていたペンキを手に取ると先にレジ前に置いてまた商品棚の方に戻った。
ペンキの置いてあるところからずれて、絵の具が置いてあるところに。
次々と商品を手に取る僕を見て、おじいさんは新聞から目をはなすと丸いレンズのその奥の瞳をさらに丸くして聞いてきた。
「おや、翔太郎君。また新しく絵を描くのかい?」
「まあ、そんなところです」
苦笑いしてあいまいに答える。
実際自分でもよくわからないのだ。自分がどうしたいのか、どうするべきなのか。わからない。わからないけれど、選ぶ色に迷いはなかった。
たしかにナツが言う通りホームセンターの方がペンキは安い。けれどペンキを買う買わない関係なしに、もともとミオンの帰りにここに来ることは決めていた。彼女にもう一度絵を描くために。もう一枚描いて、謝るために。
絵の具を抱えてレジスターの隣の棚の上におろす。
「これで全部です」
「ほお……」
おじいさんは気の抜けた息をついて、それから眼鏡くいっとかけなおして僕を見た。
にこっと笑う。
「いい顔をするようになったねえ。ナツちゃんにいつも振り回されていたばかりだったのに。見ない間にえらく成長したもんだ」
「そうですか?」
いい顔、とは一体。自分は一体どんな表情をしていたのだろう。
「ああそうさ」
おじいさんは満足そうに微笑んだまま、電卓をカチカチと操作して会計を進める。せっかくレジがあるのに、難しいから、と言ってただの電卓を使うのは相変わらずのようだ。
「ナツちゃんはまだよくここに来てくれるんだけどねえ、来るたびに君の話をしてくれるのさ。君が絵を描かなくなった、とか。美術部に入った、とか。けどやっぱり絵は描いてない、とかねえ。あんな事故があったあとだから、それも仕方ないと思っていたんだけど、どうやらもう大丈夫そうだね」
パチッとイコールボタンを勢いよく押すと、出た数字を僕見せて、銀色のつり銭トレイをすっと差し出した。
品物をゆっくりと袋に詰めていく。
お金を置くとき、銀色のトレイに自分の顔が歪んで見えた。
──君に私は映らないのね。
あんな事故。
降ってないのにどこからか雨の音がする。
彼女の声が聞こえる。
いや、僕が自分で反芻しているんだ。
「……おじいさんは、誰かを描くとき、違う誰かをモデルにしたことはありますか」
ポツリと、口からこぼれた言葉。答えてから、はっとする。自分でもなんでそんなこと聞いたのかわからなかった。
おじいさんは別段驚いた様子もなく、先ほどと変わらぬスローペースでものを袋に詰めてゆきながら言った。
「そうだねえ……誰かをモデルにすることすらあったかどうか……まあ、べっぴんさんのポスターを見ながら絵を描いたことは何度かあったが……」
その答えにがっかりしつつも、笑ってしまった。
「ポスター、ですか?」
「そうさ。ももちゃんとかナナちゃんのポスターがね、よく店前に張ってあって。出来上がったものはまったく似てなくて笑ったものさ」
お金を数えて、また電卓をたたくおじいさんは笑ってそう話す。
そのももちゃんとナナちゃんが一体誰なのか僕には全く見当もつかなかったけど、おじいさんが楽しそうで何よりだ。
おじいさんはレジスターのボタンをポチっと押すと中から小銭を取り出して「ああ、けどね」と言って僕にお釣りを手渡した。
「本物であっても違うものであっても、結局描いたものは絵の中にあるんだ。出来上がった絵が自分で満足できるんだったら、何を見てたとしても一緒さ。その絵描きが本当はどこを見据えて描いていたかなんてのは、絵が正直に白状するってもんなのさ」
絵が正直に……
袋を渡す際、おじいさんはどこから取り出したのか絵の具を一つ、新たに袋の中に入れた。
見えた色は確か、コバルトブルー。
「翔太郎君は青色が好きだったけ。これ、おまけでつけといたから」
おじいさんから袋を受け取ると、肩をポンポンと叩かれた。「またおいで」って意味だろう。
僕はおじいさんにお礼を言って、飯田画材店を後にした。
もう雨も夕日もない。
いっぱいになった袋を抱えて、僕は駆け足で家に急いだ。




