Ⅱ………落ち葉の声と夏香る君
玄関で靴を履いてもう一度鞄を開けた。絵の具箱と筆──うん、ちゃんと入っている。
「いってきます」と呟いて、家を出た。もうすぐ五月だというのに、朝はまだ寒い。
約束の時間はまだだけど、彼女はもうそこにいた。
いつものことだ。だからわざわざ謝る必要もない。彼女は僕に気がつくと手を振って笑った。彼女の長く下ろした鮮やかな茶髪が朝の日を浴びて輝いた。
「おはよう、ナツ。今日も元気だね」
「ショウタがぼんやりしているだけだよ。ほら、行こう?」
佐野千夏。呼び名はナツ。幼稚園より前からの友達で、高校生になった今でも毎日こうして一緒に登校している。まぁ、そのせいでよく他の人にからかわれるのだけれど。
「でも良かった。今日はショウタ休むんじゃないか、て思ってたんだ」
「え、何で?」
「昨日帰るとき、物凄く暗かったから。柏木もね。喧嘩でもしたのかと思ったよ」
帰るときは柏木さんも入れて三人で帰る。柏木さんは方向が少し違うから途中でサヨナラになるけれど。
「でも、今日のショウタからは何だかヤル気を感じるよ。何かあった?」
僕は拳をギュっと握った。どうしようか、と心が揺れる。どうせいつかは言わないといけない。けれど………
寒いはずなのに汗が滲んできた。たった四文字、「絵を描く」と言うだけなのに、声が何かにつっかえる。体が重たい。
そんな僕の様子を察してか、ナツはアハハと申し訳なさそうに笑い、こう言った。
「ゴメンゴメン。本当は知ってるんだ。新しく絵を描くんだろ?」
「!」
何でそれを?と聞く前に彼女が話を繋げた。
「そんな顔するなって。阿立から聞かなかった?漫研と勝負するって」
あっ!そういえばナツは漫研に所属している。
「漫研も美術室が欲しいからね。私も張り切って描かなきゃ」
「ナツが描くの?」
「そう。先輩は漫画描くからって、絵はがきは二年生に任されたの。で、優子はあまり描く方じゃないから私に託されたってわけ」
「そう、なんだ………」
視線を落とす。ちょっと疲れてしまった。いつもは気にならないけれど、ずっとナツを見上げて話すことに、疲れてしまった。
僕は男子の中で背が小さい方で、逆に女子の中で背の高いナツと話すときはいつも見上げないといけなかった。今まで全く気にしなかったけれど、今日はやけに焦れったい。──もし僕がナツよりも背が高かったら、すんなりと彼女に言えただろうか?
「──先に言っとくけどさ、」
僕はもう一度、ナツを見上げた。
ナツはイタズラな笑みを浮かべて、こう続けた。
「手は抜くなよ?──アキのためにも、さ」
最後、ナツが微かに悲しそうな顔をしたのを、僕は見逃さなかった。それが何となく見てはいけないものだと思ったから、すぐにまた俯いて、「うん」とだけ返事した。声が震えていた。
ナツは僕の返事を聞いて満足したようで、「そうと決まったらさっさと学校に行こう?柏木がさみしがってるからね」と僕の腕をつかんで走り出した。
その時、また、アキの声がしたんだ。
──私じゃない、あなたのためでしょ?