ⅩⅧ………罪と罰③
おまたせ、とアキが来たのはそれから数分後のこと。
「遅かったね、何かあった?」
そう尋ねると、さあ、と言って肩をすくめてはぐらかされた。
アキは軽いステップで傘置き場の前に立つと自分のはどれか探し始めた。しばらくすると「あっ」という声が彼女の口から零れ出る。心なしかアキの顔色が悪い。
「翔太郎、ワタシ……」
水の矢となった雨は轟音をたてながら途切れることなく地面で弾けていく。
アキは実に端的な言葉で現在の絶望を告げた。
「傘この前持って帰ったんだった」
……本当に相合傘なんて言ってられなくなった。
さっき降り始めたばかりの雨、もう既に町中の音と光を呑み込んでいる。曇天から容赦なく降り注ぐ幾千の水の矢は、傘を持たない僕らの五感をゆっくりと鈍らせていった。
「うわぁ、びしょびしょ……」
「だからさっき、他の人のを拝借しましょ、て言ったのに。翔太郎ってば頭固いんだから」
バシャバシャと水溜まりを踏みつけながら僕らは走る。
白い夏服がピッチリと肌にくっついて気持ち悪い。靴を通りすぎて靴下までもうグッチョリ。
隣を走るアキを見ると、彼女も同じようにびちょびちょだった。
濡れたブラウスが彼女の柔肌を透かし写しているのに気がついて僕は少し目をそらした。
雨と暗さのせいで視界が悪い。市街地の方は交通量が多いのかクラクションがよく響いている。
僕らは雨宿りできる場所を目指してとにかく住宅地をぬけようと必死に走った。次第に口数が減ってゆく。
無言で走っているうちに商店街に出た。シャッターの閉まった店の前に逃げるように駆け込む。ささやかな屋根が音をたてて矢を弾く。
僕とアキは少しの間、ただ外を呆然と眺めて雨宿りをしていた。
つい気になってチラチラとアキの方を何度も見てしまったけれど、彼女はそれにまるで気がつかないようだった。濡れた髪から水がしたたる。憂い顔で。昏い目で、数メートル先の地面ばかりを見ている。
「…… ねぇ、」
アキが声だけを僕に向ける。
「もしも、ナツかワタシどちらかを絵の中に閉じ込めて、永遠にそのままにできるとしたら、翔太郎は一体どちらを選ぶの?」
無機質なガラスの声。雨の音が邪魔しているはずなのに、どうしてかはっきりとその声は聞こえた。
いくつかの雫が弾けながら僕らにかかる。鈍くなった感覚がそれを脳に伝えるのは何テンポか後のこと。認識が外界と確実にずれてゆく中、そう、まさにまるで雫のように僕はポタリと声を漏らして答えた。
「ナツ、かな」
特に何も考えず、迷わず。
『選ばない』こともできたはずなのに、僕は当然のようにナツを選んだ。
「どうして?」
理由を聞かれてたじろいだ。だって理由はただの消去法。
言葉を探しているうち、いつの間にかアキは僕の方を向いていた。
「それじゃあ──っ!!」
アキのガラスだった声に熱がこもる。手を強く握り熱に耐えかねるように全身を震えさせる。その瞳には外界の冷たい雨とはまるで違う温かい液体がいまにも零れ溢れそうなほどにたまっている。
「それじゃあ、あの絵は!?あの絵に描かれているのはワタシ?それともナツ?」
あの絵…… アキがモデルを引き受けてくれた絵。
誰を描いたかなんて決まっている。そう口を開きかけた時、アキは僕の両腕をつかんだ。
「…… もうわかんないの」
雨にうたれた僕の腕はとっくに冷えきっていたが、彼女の手はさらに冷たかった。熱を持つのは声とその瞳だけ。
「ワタシは一体誰で、どこにいるのかわからない。誰もワタシに気がつかない、誰にもワタシは映らない!ワタシがワタシである時だって、ワタシが私である時だって、結局ワタシはナツの代わり。ナツのいない間の繋ぎでしかない──!」
アキはゆっくりと手を離した。涙は溢れて止まらない。
もうわからないの、と呟くようにそう言った。
「あの絵まで奪われてしまったら、ワタシは一体どこにいたらいいの?」
相変わらずのどしゃ降り。一時も途切れることなく黒いアスファルトの上でそれらは弾け続ける。雲から離れ、説なの命を授かった彼らは、何一つ迷いなく真っ直ぐに地を穿って、散る。散ると同時に皆、叫ぶのだ。己の存在を、己の居場所を。
その蝶は雨の中での舞い方を知らなかった。静かな晴れの日に、自らが蝶であることを受け入れて、一人舞い演じることしかできなかった。
僕は蝶が晴れと雨を選べないことを知っていた。
知っていたけれど── そんな当たり前のことに気がつけなかったんだ。
「アキ──」
──ギュッ、と。
全部全部伝わるように。全部全部包めるように。…… 残念ながら小さな僕ではそれは叶わなかったけれど、それでも精一杯アキを抱きしめた。
彼女の身体は手とは違って温かだった。
ゆっくりと告げる。
「僕はいつだってアキを描いてた。アキに断られてはナツにモデルを頼んで、ナツを通して君を写した。気まぐれで謎めいた、そんなアキをどうしても絵に留めたくて、何度も。だけど、何度描いても満足する絵なんて描けなかった」
彼女の乱れた呼吸は徐々に収まり、だんだんと僕のに重なってゆく。
微笑んで、続ける。
「だからとっても嬉しかったんだよ?アキの方からモデルになってくれてさ。今度こそ、今度こそ君を捕らえようと、必死に描いた」
「…… どうだった?」
絵の出来は、と静かな声で答えを求める。
「ダメだったよ。確かに今までで最高の出来だった。けれど、そこに、絵の中にいたのはアキじゃない、アキによく似た何かだった。そこでようやくわかったんだ── 君に額縁は似合わない」
さっきナツを選んだのもそれが理由だった。
気まぐれな蝶をそのままで閉じ込めるなんて不可能なことだ。
たとえ力づくで捕らえて小さな箱に大事に容れても、きっとすぐに死んでしまう。生きたままで死んでしまう。後から箱を覗いてみても、もうそこには僕が望んだそれはいなくなっているんだ。
アキを絵にいれても、すぐにそれはアキじゃなくなる。
だから僕は選んだ。それが単純な独占欲による消去法だと知りながら。
「どこにでも好きに行きなよ。そうじゃないとアキじゃない。君が翔んだその先に、きっと僕もついていくから。きっと傍に行くから。だからさ──」
スッと手をほどく。そしてもう一度微笑んで。
「君が君を否定しないで。」
ハッと一瞬、アキは目を見開いた。その後、自身の右手の平をじっくりと見つめると、フフッとくすぐったく笑った。
「代わりにされてたのはナツの方だったなんて、どちらにせよひどい話だわ。翔太郎、あなたってワタシが思っていた以上にずっと自分勝手で欲深いのね」
上目遣いで僕を見る。どうやらまた僕はアキにからかわれる材料を作ってしまったようだ。
「その上『君に贈る』とまで刻んだ絵を失敗作扱いするなんて……ワタシ、ちょっと期待していたのよ?」
カァ、と頬が熱くなる。まさか気がつかれていたとは。
さっきのしおらしいアキは一体どこにいったのか、目の前の彼女は間違いなくいつものいたずらアキだ。
けれど、また一瞬アキは俯いて、同時に手を軽く握る。
刹那の緊張の後、弛緩した表情で彼女は言う。
「でも、もうやめるわ。何かを期待して待ち続けるのは。翔太郎が言う通り、翔ぶ場所は自分で決める。いえ、決めたの。もう変えない──」
なんと清々しい笑顔だっただろうか。
なんと澄みきった声だっただろうか。
それ故に、次の言葉で脳がバグった。
あまりにかけ離れた二つの情報を、上手く処理できずにショートした。
今でさえ、事実を記録していながら忘れようと無意識のうちに体が働く。
ねぇ、翔太郎── それはまるで幸せな唄を歌うよう。
「── ワタシを、殺して?」




