ⅩⅣ………秋に辿り着かなかった君に②
「ちょっとアキ、動かないでよ」
窓際に不機嫌な顔でたたずむアキは、髪をいじったり、ふと視線を外に向けたりと、先程から落ち着きがない。
「だって飽きたんだもの。ねぇ、まだ終わらないの?」
飽きたって……まだモデルになってもらってから五分も経っていない。下書きもまだ半分すらいっていなかった。
「アキが『モデルにして』って言ったんじゃないか」
「『翔太郎さえよければ』ともちゃんと言ったわ」
確かにそう言ったけれども。
僕は浅くため息をつくと、鉛筆を置いて立ち上がった。
「あら、今日はおしまい?」
「いや、ちょっとトイレ。ついでに少し休憩」
うーん、と大きく伸びをして、ふらりと教室の外へ。
ジージーと蝉が夏の暑さを吹替える。窓の外を見るとゆらゆらと景色が歪んでいた。はっきりと見えるのは憎たらしいほどに澄んだ青い空。鳥が3羽飛んでいた。
黒鉛のついた黒い手を丁寧に洗い、しっかりと水分を拭き取る。用を済ました僕はまた外をぼんやりと眺めながら教室に戻った。
「何を読んでいるの?」
アキに問う。アキはさっきまで僕が座っていた席に腰を下ろして本を開いていた。
本を読むアキもやはり蝶だった。アキは小説という花を好んだ。喜劇も悲劇もアキにとっては等しく蜜である。どんな本を読んでいるときもアキはいつだって、まるで甘美なる蜜を味わうように、微笑んでいた。それは物語に対する称賛なのか嘲笑なのか、やはり僕にはわからなかったが、当時知る限り、間違いなく最も美しい画であった。
アキは僕に気がつくと本を閉じ、軽い勢いで椅子をおりた。鞄に本を丁寧に片付ける。そして、フフフといたずらっぽく笑い、いつも通りこう言うのだ。
「ワタシ、本なんて読んでいないわ」
いつものことだから僕はなにも言わない。代わりというわけではないが、席に腰を下ろし再び鉛筆を手に取った。アキはそんな僕を見て満足そうに微笑むと、自分から窓辺に立ち、最初僕が指示した通りのポーズをとった。
それからは非常におだやかな時間だった。僕とアキは一言も言葉を交わすことなく画家とモデルになりきった。やがて夏の18時の気だるさに浮かされると、僕らは同時に前触れもなく声をあげて笑った。底無しの明るさで、曇りなき晴れやかさで。
帰り道、アキは自分の荷物を僕に押し付けて「モデル料」とニコッと笑った。僕は「ぐう」と言いながらしぶしぶそれを受け取った。ぐうの音も……出たか。
18時を過ぎたとはいえ、まだ空は青かった。日暮れまであと一時間はあるだろう。昼間ほどではないにせよ、まだじとじとと暑かった。僕は二人分の荷物をこまめに腕を変えて持ちなおす。背中をつう、と汗が走っていった。
ときおり、アキが僕の方をチラチラと見てくることに気がついた。こういう時は大抵、僕をからかおうとしているときだから、僕はあえて気づかないふりをした。
「ねぇ、翔太郎」
来たっ!平常心、平常心だぞ、翔太郎。
「もし……もし、ね。もしナツがあなたに『好き』って言ったら、どうする?」
「ふぇっ!?」
ヤバっ、変な声が出てしまった。体も瞬間的にアキの方を向く。
心臓のスイッチが壊れて拍動に激しさが増していく。
今顔が熱いのは、きっと夏の暑さのせいだ。そうに違いない。
アキは僕の反応に最初は驚いたようで、二度、目をぱちくりさせたが、すぐにいつものいたずら顔になってフフフと笑った。
「ねぇ、どうするの?」
ぐいっとアキが顔を近づけてもう一度聞いてくる。
蝉の音をかきけす勢いの僕の鼓動。
言葉を探して口をパクパクさせていると、心底可笑しいというようにアキがアハハと腹を押さえて笑った。
「『もし』って言ったのに、なに本気にしてるのかしら?でも、ワタシ──」
“チュッ”と何か柔らかなものが僕の頬に触れる。ほのかに熱をもったそれは、たった一瞬、確かに僕の思考を止めた。
「──そんな翔太郎が『好きよ』」
ふわりと着地したアキは一度止まって微笑むと、僕の腕から自分の分の荷物をひったくり、「また明日ね」と言って、彼女の帰り道へ駆けていった。
風が僕の頬を撫でてゆく。それでもさっきの温かな熱を、僕はなかなか忘れることが出来なかった。
アキが死んだのは、その四日後のことだった。




