ⅩⅡ………女王の来訪②
「ねぇ、翔太郎──」
廊下を歩きながら、真由先輩は聞いてきた。
「あの絵のモデル、ホントは誰なの?」
え……?
僕はすぐにはその言葉の意味が理解できなかった。
少し間が空いて、答える。
「誰って……柏木さん、柏木瑞希さんですよ?」
似ていなかったのだろうか?しかし、さっきは確かに真由先輩は言ったのだ──“良い絵”だと。
真由先輩はさもおかしいと言うようにクスクスとくすぐったく笑う。小刻みに揺れる肩の振動が、去年より少し延びた先輩の髪を踊らした。
「そう……そうね。確かにあれは瑞希そっくりよ。──見た目だけね?」
ゾクッと背筋に何か冷たいものが通りすぎたような、そんな感覚。先輩が何を言いたいのかわからない──否、わかりたくない。
「誰彼時、オレンジが全てを飲み込むなかで少女は1人、本を開いていた。読んでいたのか、それともただ眺めていただけなのか、それはわからない。でも少女は、寂しい灰色のコンクリートや自身の白いシャツが同じようにオレンジに飲み込まれても気にも留めない。少女はそう、本を開いていた──」
目を閉じなくても情景が蜃気楼のように浮かび上がる。……ああ、僕の絵だ。そこに映っているのは、紛れもなく僕が描いた絵。
真由先輩は不思議な世界へ誘う妖精のように、怪しく艶しい声で続ける。
「……さぁ、見てごらんなさい?その少女がどんな表情をしているか。どんな表情で本を開いているのか……」
そおっと、そっと、僕は近づいた。《彼女》に気づかれないように、《彼女》の心を見るために……
「……!」
いつの間にか、真由先輩と僕は廊下の途中で立ち止まっていた。
真由先輩は僕の肩に手をのせて、いつもよりゆっくりとした声で言う。
「瑞希はね、いつも本ばかり読んでいるの。翔太郎も知ってるでしょ?その内容は様々──ただし、美術関連を除いて。あの子が何を思って本を読んでいるかなんてわからないわ。だけど、これだけはわかる──本当はあの子、そんなに本が好きじゃないのよ」
僕は何も言わずに聞いていた。いや、何も言えなかったのかもしれない。
「瑞希はめったに笑わない。愛想笑いも絶対にしない。でも、美味しいものを食べたときは『おいしい』と言って笑い、大好きな水族館に連れていってあげたときはペンギンを見て『かわいい』と言って笑うわ!……そうそう、翔太郎の絵を初めて見たときも笑ってたわね……」
真由先輩は焦らすように話を続ける。僕の肩に置かれた手は温もりを残して離れていった。僕は急に支えを失って、ぐらりとその場にしゃがみこんだ。頭の中が真っ白だ。……ううん、違う。何も考えないようにしてるだけか。
真由先輩は僕の目の前に立って、一度深く深呼吸をして言う。
「──瑞希は、本を読んでいるときは笑わない。それはきっと絵のモデルの時だってそう。……さて、翔太郎──」
なんと冷たい風だったろうか。どこからともなく吹き抜けたその風は、僕の周りをぐるりと廻ると、そのまま何処かへ消えてしまった。
真由先輩の憐れむような声が静かに響く。
「あの絵のモデル──あの夕日の中で本を開いて微笑む少女は、ホントは誰なの?」




