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スリーピングビースト  作者: あきむ
8/10

七.夢叶と真実 (12/24)

「ちょっと早く着き過ぎたか」

 船橋、『東京ららぽーたる』。千葉県にあるにも関わらず東京の名を冠している、千葉を代表する巨大商業施設。以前にここで、蓮司は夢叶と二人でショッピングをしたことがあった。

 しずくによる策謀で、その時は智美の誕生日プレゼントを買いに来る名目を作らされた。夢叶が「デートだ!」と言い張り、「ただの買い物だ」と主張する蓮司との間で、僅かな言い争いがあったのがつい昨日のことにように感じられる。その日は休日にも関わらず、いや、休日だからこそ、哲郎としずくが物好きにも後をついて来ており、結局最後は顔を合わせてしまった四人が、あくまで蓮司の希望で、ダブルデートの形となった。

 夢叶がしずくに敵対心を抱いたのは、もしかしたらあの頃からだったのだろうか。

 蓮司の腕時計は十一時五十分を指していた。青空の下、北館と南館の間の中庭通り、ハーバーストリートの最も駅に近いゲートで待ち合わせ。だが、

「前回は夏だったから良かったけど、さすがに冬だと外で待つのは辛いな……」

 本来、地元民はあまり『ららぽーたる』そのものでは待ち合わせをしない。友達やカップルなら、最寄りの二駅で待ち合わせして、そこから一緒に移動して来るのでが一般的である。

 前回は夢叶が、闇雲に現地で待ち合わせをしたいとわがままを発動した結果、比較的わかりやすいだろう、この場所が選ばれた。

 ゲート広場は人の出入りがそれなりにあるところではあるが、寒空のために「外での待ち合わせ」には不向きであり、休日であるにも関わらずここでの人の出入りはまばらであった。さらに言えば、クリスマスイブにも関わらず、である。

 それを象徴するのは、通りに並ぶイルミネーションぐらい。人の多くは、建物の中にいる。

 ゲートにある、カーブされた太い鉄パイプのような椅子に腰掛け、程なくしてすぐに立ち上がる蓮司。厚手の紺のコート上からも、真冬の鉄材は鈍い冷感を臀部に伝えてくる。

 尻を摩るようにしながら、蓮司は中庭通りや建物に入っていく人々を眺め、同時にまだ夢叶が来ていないことを確認する。

 周りには季節柄、家族連れよりもカップルのほうが多いよう。

 地元なので慣れたものではあるが、この後どこを回ろうか、昼は何を食おうかと、そんな思考を巡らせている。

 そんなことを呆然と思考していると、閑散とした待ち合わせ場所に、先ほどからこちらの様子をチラチラと伺っているように見える、一人の女性がいた。

 ウエスト丈のベージュのコートに、その下からは白い、おそらくワンピースのスカートの裾が見えている。茶色いロングブーツにニーハイを合わせて、手には淡いピンクのバッグを持っていた。

 いかにもクリマスデート。かつ男が好みそうな装いをしていた。そして自分の好みにも近いなと、蓮司は無意識に近い感想を心の中で漏らした。

 だが蓮司がその女性が視界で認識したのは、単にその姿に見惚れたからじゃない。

 最初こそ気にならなかったが、というより気のせいかと思っていたが、その女性が蓮司のほうを、やはり度々見ている。おそらく同じ年ぐらいだろうか。蓮司の知り合い、少なくとも同級生で見知った顔にはいない。だけどどこかで……。

 そう思った矢先、その女性が目を合わせたままこちらに気づいたように立ち上がった。そして明らかに、蓮司に近づいてくる。蓮司は自身の鼓動が急に脈打つのを感じた。

「もしかして……ナンパ? ……ってことはないだろうな……」

 自身でその可能性を即座に打ち消した。おそらく道を聞かれるか、はたまた運が悪ければ見過ぎて怒られるとか。そんな可能性はゼロでないかもしれない。

 大人びた女性が近づいて来るだけでも心臓が早鐘を打つ。しかも閑散とした中、自分に近づいて来るのは明らかだが、理由がわからない。だが微笑を浮かべているため、たぶんだが、頭ごなしに注意されることは、無いと思っていいのだろうか……。

「こんにちは、蓮くん!」

「こんにち…………えっ?」

 自分の名前を知る女性。しかもどこかで聞き覚えのある声。

「いや、まさか、そんな」

 蓮司が狼狽えている様子に、女性は満足そうな笑顔で首をわずかに傾げている。

「夢叶ぉ!?」

「そうだよ!」

 その女性は顎のあたりに控え目のピースサインを作り、満面の笑みに変え得意げに言った。

 夢叶と名乗る女性。だが蓮司が混乱するのも無理はなく、普段の夢叶よりも、明らかに身長が高い。蓮司よりもやや目線は下がるものの、それでも大人の女性の姿をしていた。

「おまえ、どうやって…………あっ」

 蓮司は気づいたように間抜けな声を出す。額に手を当てた。

「おまえ、まさか力で…………!」

「ピンポーン!」

 大人の顔に、あどけない表情を浮かべて肯定する夢叶。ぴょんと跳ねながら、人差し指を座る蓮司に向けて来るあたりは、夢叶らしい。思わず小さい夢叶の影を追ってしまう。

「そんなことまでできるのか」

「ん、まぁね。どう? 格好、変じゃない?」

 変じゃないどころではないです……。先ほどまで無意識に自分好みだと思ってしまった感情が、表情へ浮き上がって来て皮膚を熱くする。それがまさか、夢叶だったなんて。

「いや、変じゃないし、びっくりした……」

 もう素直な感想を述べるしかなかった。

 背が低いうちはただの可愛げのある少女ぐらいに思っていた。だがこうなると話は違う。

 言われてみれば顔に夢叶の面影はある。わずかに化粧も載せているのか、もう美人と断定していい、立派な女性だ。

 周囲のカップルの男までもが、夢叶を一瞥しては建物内に入っていく姿が伺える。

 蓮司は自身の格好を省みた。普段通り、中にロングのティーシャツを着て、上にはスウェット素材のパーカーに、黒のダウンジャケット。下はストレッチ素材の黒いジーンズ。

 せめてもっと色味のある格好にしてこれば良かったと、後悔した。

 だがそんなことには気にも掛けず、夢叶は蓮司の手を引いた。心なしか勢いをつけるように握られた夢叶の手が、ひにやりと冷たい。

「さ、蓮くん! どこ行こうか!」

「ど、どこって言われても……」

 急に気恥ずかしくなり蓮司は夢叶から目を離す。まさかこんな展開になるなど夢にも思ってもおらず、接し方がわからない。

「じゃあわたしが決めてもいーい?」

 夢叶は蓮司の顔を覗き込むように言った。普段は下から見上げているのに、今は顔が近い分、少し屈むように、だが同じく見上げてくる。

 声は確かに夢叶なのに……。姿があまりに異なり、蓮司の脳内で誤作動が起きている。

「いいよ、好きな場所に付き合うから」

「ほんと!? じゃあまずはランチからね。わたし、行きたいホットケーキのお店があるんだけど……」

「ランチに甘いものかよ……」

「あ、なんでも好きな場所に付き合うって言ったじゃない」

「なんでもとは言ってない……」

「細かいと言わないの! さ、行こう!」

 そう言うと夢叶は、そのまま通りの通りの奥へと蓮司を引っ張っていった。

 いつの間にか握られていた手を、そのままに。


「やっと落ち着いたな」

 蓮司はホットの紅茶にレモンを入れて、それを一口啜った。

「やっぱり今日はクリスマス、なんだね。どこに行っても人がいっぱい。ホットケーキの『トリプルエッグス』は並ぶし、映画館はほとんど満席だったし、ゲームセンターに行けばプリクラ撮ってるカップルだらけだし、どのショップもウィンターセールでなかなか試着もできないし」

 テーブル越しの夢叶は左手で指折り数えている。蓮司と共にした場所を辿るように思い出しながら、コーヒーに角砂糖を入れ、次いでポーションミルクを投入するとティースプーンでかき混ぜた。

「ほんと、人の間を縫って歩くだけでも体力奪われるのな。ちょっと休憩」

 うんざりしたように、だらしなく椅子にふんぞり返る。目線の高さが、夢叶と同じになった。

「でも、こういうデートっぽいの夢だったんだ。やっと叶ったよ。ありがと、蓮くん」

 笑顔で言って、コーヒーに一口つける夢叶。蓮司も合わせたようにカップに口を当てる。

 そして何となしに、思い出したように、蓮司は夢叶の姿をまじまじと見てしまう。

「どうしたの?」

 見つめられたことに戸惑うように頰を赤らめる。綺麗に伸びた指。袖が長めに取られたその両手を、頬の温度を確認するように当て、はにかんだ笑みを浮かべた。

 変わらぬ夢叶の態度にだいぶ慣らされてしまってはいるが、今の彼女は同じ年頃の女性の姿をしている。それどころか、普段の夢叶を知っていることと、大人びた服装にむしろこっちの方が年下のようにさえ思わされるほど。

「いや、次どうしようかなって。だいたい回ったし、まだどこか行きたいところあればと付き合うけど」

 夢叶の視線から逃げるように窓の外へと顔を向ける。

 冷たく澄んだ空気に包まれた中庭通り。傾いた西日に照らされ、辺りが茜色に包まれ始めた。

 人々ははざまの色合いを楽しむように、そして訪れる煌びやかな夜を心待ちにしているように、喧騒が喫茶店の窓越しにも伝わってくる。

「んー、そうだねぇ……」

 夢叶は答えを急いでいないように、カップに口をつけた。ただコーヒーを飲むだけなのに、今の蓮司にはとても大人びた、上品な動作のように見える。

 静かに受け皿に置いて音を立てると、徐にカバンから一枚の紙片を取り出した。それを眺める瞳がとても穏やかで、だけどにこっとした笑顔は、たしかに夢叶のものであった。

「それ、さっきのプリクラの?」

「うん、そう」

 胸の前で大事そうに、両手でそれを持っている。

「わたしと蓮くんの、大事な思い出」

「…………」

 なんと返していいかわからず、蓮司は紅茶のカップを手に取る。一口飲み終えて唇を舐めると、わずかにレモンの酸っぱい味がした。

 プリクラに疎い蓮司は、文字など書く気にもなれずにぴこぴことタブを切り替えながら、適当なスタンプを、そして適当に押していった。当たり障りのない星などをポンポンと押していると、隣の夢叶が鼻歌交じりに大きなハートを押してゆく。

 その隣には、「いつまでもそばにいるよ」という文字を書いていた。画面に集中する夢叶の顔が近かった。プリクラから目を離して、窓の外を眺める夢叶。

「そうだ! もうひとつ行きたいところ、あったんだ!」

 そう言うと、上から何かに引っ張られでもしたかのようにびくりと姿勢を正す。

「っていうかあまり時間ないや! 蓮くん、早くそれ飲んで! 次行こ、次! 善は急げ!」

「えぇー……。まだ入ったばっかなのに……」

 蓮司が落ち着きそうになった腰の不平を代弁する。それを体現するようにカップに手を取ると、夢叶は残りを一気に飲み干していた。先ほどよりも大きな音を立ててそれを置く。

 蓮司が喉に流し込むように飲み終えたときは、夢叶はすでにコートのボタンを閉じマフラーまでを巻いていた。蓮司も傍にあった上着を引っ掴むと、着ることなく夢叶に続く。

 夢叶が行きたかった場所。それは少なくとも蓮司にはなんの変哲もない場所に見えた。

 あるとすれば、クリスマスよろしく街路樹にイルミネーションが飾られていることぐらい。点灯前で、透明な蜘蛛の糸が枝葉に絡みついているように見える。

 だが同時に、記憶の靄がかかっているように、どこか見覚えのある道でもあった。

 あどけなく、何かを試すように夢叶が蓮司の顔を覗き込んでは、道に向き直る。

 くるくると振り返るようにしてはこっちを向く夢叶に、蓮司は「あっ」と声をあげた。

「ここ……いや、でもまさかそんな。……もしかして、夢叶と初めて会った場所……とか?」

 心許なげに蓮司が答える。

「そう! さすが蓮くん、よくわかったね」

 自信が無かったのは、何も蓮司に限らない。夢叶も不安だったように、だけどそれが払拭されたように、表情が弾けた。

「あれは、やっぱり夢叶だったんだな」

「ん、そうだね」

 夢叶は躊躇うように、でもはっきりと、俯くように頷いた。

 以前から引っかかっていた疑問。以前智美が説明した、もとい言葉を濁した、蓮司の夢に出てくるはずの存在がはざまの世界に出現してしまった、というもの。

 では夢叶は一体何だったのか? 蓮司の夢の中に出てきた夢叶は、ここにいる夢叶と——今は背格好が異なるが——と、同じ彼女だったのかと言う単純な問い。

 一瞬、夢叶が蓮司の疑問に答えたかのように言葉を紡ぐ。

「でもね、厳密には違うの」

 会話が成り立っているか怪しい。蓮司は「えっと……」と逡巡してから口を開いた。

「オレの夢に出てきたのが、夢叶じゃないってことか?」

「ううん、あれはわたし。わたしが『違う』って言ったのはもうひとつ前のこと」

 「もうひとつ前?」と、蓮司は思い起こす。夢叶はさらに言葉にしにくそうに、後ろに組んだ手を持ち上げるように、一方で頭を下げる。

 月が、限りなく細長い下限の月が、道の向こうに見えた。

「ここは、初めて会った(・・・・・・)場所じゃないの。蓮くんとわたしが、再会した(・・・・)、場所、なの」

 言葉を浮き上がらせるように強調する。地面に顔を向けながら、悲しげに笑う夢叶の横顔が覗く。

「覚えてないのも当然よね。だって、みんな忘れさせられてるんだもん。昔のことも、私のことも、わたしの前の名前のことも」

「忘れて……忘れさせられてる?」

 言葉を噛んでしまう蓮司。夢叶は顔を上げて歩み始める。

「うん、そう。記憶をね、書き換えられてるの。たぶん、そのこと自体も覚えていないと思う。わたし、前に蓮くんと会ってるんだよ? ずっと、前だけどね」

「…………?」

 蓮司は驚くとも悲しむとも否定したいとも取れない、戸惑いを夢叶に向けた。

 少し距離を置いた夢叶が、長い艶やかな髪を浮かせるようにくるりと蓮司へと向き直した。蓮司にはそれが、何かを振り払おうとしている仕草に見えた。

 薄暗い背景が、その表情をはっきりとさせない。

「わたしの本当の名前……というより、以前の呼ばれ(・・・)方は、『むと』じゃなかったんだ。これね、蓮くんがつけてくれた名前なんだよ。字は、あとでの当て字だったけど」

 流暢に言葉を並べる夢叶。ずっと貯め続けていたものが、想いが、堰を切ったよう続く。

「わたしは忘れてないよ。昔のことも、蓮くんのことも。蓮くんのことなら、なんでも知ってる。昔はピーマンが食べれなかったのに、最近は苦いの我慢して食べれるようになったことも。でもやっぱり苦いのはまだ好きじゃなくて、カフェに入るとメニューに紅茶を探してしまうことも。怖い映画見ると、すぐ影響されてそれが夢に出てくることも。それと、戦隊ものが好きで、特にレッドが好きで、だから好きな色を聞かれたら『赤』って答えることも……」

 レンジャーものが好きなことや紅茶を注文したことは夢叶が知っていて当然だが、色の好き好きやピーマンのことまで夢叶と会ってから話した覚えはない。

「夢叶……何を言って——」

 そう言うと、夢叶の背後にあった街路樹が闇を照らすようにパッと点灯した。

 それがなお夢叶の顔に影を落とした。目尻に貯めた涙を、鮮明に浮かび上がらせる。

「蓮くん、約束、したよね。今度は絶対、わたしのこと、忘れないでね。絶対、約束よっ……!」

 涙に上ずった声を押し切るように夢叶が小さな叫びをあげた。なんと声をかけていいかわからないまま夢叶へ手を伸ばそうとする。

「夢叶」

 蓮司が近づこうとしたとき、その間を断ち切るような無機質な声が、蓮司から見て左から放たれた。蓮司は状況についていけず声の主を横目で一度見るが、見覚えのある姿に今度は首までを向けて見定めた。

「親父……?」

 蓮司にそう呼称された男は、似た仕草でちらりとを蓮司を見ると、顔を向けることなく夢叶を見続けた。

「夢叶、時間だ」

 夢叶は涙目の笑顔で蓮司を見つめている。だが最後の余韻を感じ入るように数瞬置くと、瞑目しながら涙を指でぬぐい、大きく嘆息して男に答えた。わずかに顔を向けるが、視線は地面を向いている。

「えぇ、わかったわ」

 夢叶から聞いたことのない、冷淡な声が返される。

 すると夢叶は、その男のほうへ向かってゆっくりと歩みを進める。視線を交えることもなく、夢叶は男の横を通り過ぎ、何かを言いたそうに、一度立ち止まった。

 だが機先を制するように、男が口を開く。

「お前のわがままには十分に付き合った。データの移行フェーズに入る。お前も準備に戻れ」

「わかってるわよ」

「それから、約束通り、説明は、させてもらう」

「……わかったわ」

 要点だけを簡潔に述べる。こんな、こんなところが、蓮司は小さい頃から虫が好かなかった父親の性質であった。

 夢叶は蓮司へと顔をあげると、微笑む。

「蓮くん、また……また後でね」

 そう告げると、街路樹が並ぶイルミネーションの道へと歩んでいく。視線で追うと、さらに先には智美が、陰鬱な気配を眉に落としている姿が見て取れる。

「智美さん…………親父、どういうことだ」

 蓮司はポケットに手を突っ込むと、キッと睨みつける。

 それに応えるでなく、鼻からそんなことには気にも掛けていないように男は言った。

「蓮司。お前には知る権利がある。この世界について、だ」

 男が眼鏡を上げる。その向こうで智美が、胸の前で両腕を組んでいるのが伺える。

「お前が夢叶と呼ぶ個体の本名は、『M02-TDP』。通称『スリーピングビーストプラン』で使用される被験体だ」

 蓮司は押し黙って聞いていたが、意味不明の言動に割って出たい気持ちに駆られる。だが相槌も許さないように、男は続けた。

「今日は何年の何月何日だ?」

「……は?」

 男の問い掛けに蓮司は短く息を漏らした。同時に睨みつける瞼をより一層細めて意図するところを問おうとしたが、無言の圧力がそれを許さないとわかると口を開いた。

「にせんじゅう——」

「違うな」

 食い気味に断絶させた男に、蓮司の眉間のシワがより一層深くなる。

「現在は2051年12月31日。おまえの認識から30年以上先だ。しかも一週間のズレまでが生じてしまっている。ただし、現実は、だがな」

「意味わかんねぇよ」

 考えることを放棄し、反抗の意思表示を上乗せした。だが顔は、その意志を表明し切るに能わず、地面を向く。

「この世界にいる人間の認識が、平和なこの時代に設定されている。お前含めてな」

 押し付けるでもなく嘲るのでもなく、ただ見下すように淡々と連鎖してゆく言葉。

「百聞は一見に如かずだな」

 男は仁王立ちのまま瞑目すると、右手を体からわずかに遠ざける。次いで何事かを唱えるように呟くと、その手が白く淡い光に包まれた。

 蓮司はその変化に目を疑った。男の手に握られているものに。

「それは……」

「そうだ。お前がお遊びで『ケーニヒスティーゲル』などと名付けたものだ」

「……親父も、夢叶と同じ力が使えるのかよ」

「力?」

 男は短い息を吐く。蓮司からは、それがため息とも冷笑とも取れた。

「違うな。これはただのプログラムの書き換えに過ぎない。蓮司、お前が……」

 男は億劫に感じたように、手に持つ剣を地面へと突き刺した。

「お前が現実だと認識しているこの世界は、精巧に生成された仮想世界に他ならない。そして、夢叶が、お前が『力』と呼ぶ権能を行使できるのは、この世界の根幹を担う、次世代の役割が与えられているからだ。本当はお前が……」

 蓮司の父親は何かを言い掛けて、言葉を遮った。真っ直ぐ見つめる蓮司の瞳。そこに映る自分がひどく醜悪に見えたように、視線を外す。

「……もうこの辺でいいだろう。わたしからの要点は話し終えた。智美」

 男はわずかに背後に首を向けると、智美の目を見ることなく指示を出す。

「あとはお前が説明してやれ。時間が無いから、手短に」


 理解が追いつかない。よく見知った世界のはずなのに、今はそれが手の届かないほど遠く感じる。たくさんの人が行き交うのに、まるで自分だけがその世界から取り残されたよう。

 この世界、この仮想世界は、生体システムの上に構築されていると、智美はそこを皮切りに説明を始めた。多くの人間がこの世界に繋がれ、記憶と認識を書き換えられて、何気ない平和な生活を送っている。

「……よく、できているでしょ? この世界」

 嘲笑するように言う智美。よくできているなんてものではない、蓮司も、他の人間も、現実としか認識せずに生きている。本体は、そう、別の場所で眠るように意識のみが接続されていると言われるが、実感などないし、信じるわけにもいかない。

「でもね、ここまでにするには、かなりの苦労があったの。あと、犠牲、もね」

 先ほどの嘲笑から移ろぎ、歯噛みする表情に変わっていた。

「それはね、人間の感じる五感の表現だった。こればかりは、いくら精巧なプログラムを組んでも、機械的な規範では成り立たないのよ」

 多くの疑問が浮かんでは、ひとつひとつ踏みしめるように話す智美を遮るまいと、疑問を横に置く。……違う。そんなことはどうでもいいだけだ。

「例えば人間の目。人の視角は優秀だとみんな無自覚に認識しているけど、実際は、実際のものとは異なる見え方をしている。……盲点、って言うでしょ? 知っていると思うけど、視界には、リアルに見えない点があるの。だからと言って見える範囲に黒い点なんてない。これは人の脳が補っているからなのよ。……騙している、と言ってもいいかもね」

 智美の口調が、いつもと全く違う。これも盲点だったのだろうかと、自嘲気味に、実に益体の無いことを考える蓮司。

 移動中の車内に、夜を迎えた街のネオンの光が入れ替わり差し込んでは、智美の半身を照らして、通り過ぎてゆく。

「うまくできているよね、ほんと。正しく認知していないのに。……だからこそ、人の世界は、生活は、うまく回っている。無機質なコンピュータだけではそれは不可能なのよ」

「……それが夢叶なんですか?」

 以前の智美の説明とは全く異なる。だが以前と同じ質問を、蓮司は口にした。

「その役割だけじゃない」

 智美は街の中心から離れ始めた暗がりの市街を眺める。「どの順番で話したらいいのか」、そう呟きながら続けた。

「今のこの世界も、夢叶と……同じような生体システムの上で稼働している。ただ、システムとは老朽化するもので、更新を余儀なくされるわ。それがただの機械ではないのならなおさらね。機械なら塩漬けも可能だけど、ベースが人となるとそうもいかない。遥かに短命に入れ替えを余儀なくされる。……わたし、かなり非人道的なことを言ってるわね」

 智美は困惑した笑みを蓮司に向けた。

 「何がおかしいんですか」と蓮司は呟いた。智美がそれに返す前に、蓮司は同じ疑問を口にする。

「それが夢叶ってことなんですか……?」

 今度は険のある言い方だった。それは蓮司も自覚していて、隠さない。

「そうよ……。夢叶には、次のシステムになってもらう予定なの。すでに彼女の中に同じ、新しい世界が構築されているわ」

 蓮司の手が膝でぎゅっと握られる。

「本当は、蓮司、あなただったのだけれどね」

「え?」

 ただの問い返しだと智美は理解しつつ、わずかに言葉を変えて言い直した。

 運転する視線が、まっすぐと前を見続けている。蓮司を、見なくても済むように。

「本当はあなたの予定だったのよ、この世界のOSになるのは。被験体『R03-MDP』 として。だけど、夢叶があなたを……かばったのね」

「なんで……」

 蓮司は力なく首を垂れ、ぽつりと呟く。

「さぁ、そこまでは……。データとしては残っているみたいだけど、わたしも詳細までは把握していない。あなたのお父さんが言ったこと、覚えてる? 『スリーピングビースト』って。皮肉よね、ただの」

 意図するところがわからず苦渋を見せる蓮司に対して、その説明は比して重要では無いと言わんばかりに智美が続けた。

「そしてあなたには新たな役割が与えらた。……その顔、もしかしてわかった?」

 智美が妙な気遣いを見せるが、蓮司は理解などしていない。

「悪夢を消滅されること。その分野では、『デバック』と言うわ。いわゆるバグを排除する作業」

 蓮司の渋面がさらに濃いものになる。

「ごめんね。嘘ついてて……。今だから言うけど、あなたの夢の中で消してもらっていた悪夢、バグを、はざまの世界と連動させてしまったときの作り話……あれにはには苦労したわ」

 智美は苦笑して見せた。今度は雰囲気を和ますように、そして蓮司からの反抗も覚悟したうえでのものであった。当の蓮司は何も言わずにむっつりと黙っている。

「もともとは、現行のシステムとの親和性を考慮してあなたが、次の世界のOSになる予定だった。それを夢叶が、あなたのことを庇った。……違う、守ったのよね」

「夢叶は……」

 蓮司が説明の途中で初めて言葉を紡ごうとして、智美も続く言葉を待つ。

「夢叶は、どうなってしまうんですか?」

 智美は表情を変えずに蓮司を一瞥した。しばらくしても変わることはなく、無言が代わりに物語っているよう。前を向きながら、わずかサイドミラーへと顔を背ける。逃げるように。

「わたし、たちは科学者だから、形而上のものを語ることは得意ではないわ。だけど……」

 智美はハンドルを握る手を見つめながら、指でその人工皮革をとんとんと叩く。

「もし、人にとっての魂……人格、ううん、精神というものがあるのなら、その上に次の世界の礎が上書きされて、抹消される。この世界に消えて、溶けてなくなると表現したほうがいいのかもしれない。世界を維持するためだけに消費される」

 一瞬、暗闇に夢叶の顔が浮かび、そして消えた。

 智美は相当な言葉を選んでいる。が、それは詭弁だ。

「それって、死ぬってことなんじゃないんですか?」

 言葉が震えている。智美は数秒の間を置いて、「否定はしない」と言った。

 その言葉に反応するように蓮司は智美の襟首に掴みかかる。白衣の襟を引っ張り上げた。

 運転しているためか、それとも智美なりの信条がそうさせるのか、いたって冷静な態度。

「仕方のないこと、なのよ」

「何が仕方なって言うんですか……っ!」

 食い気味の蓮司は手元の力を緩めようとしない。

「もうすでにこの世界は限界に来ているのよ。誰かが、誰かがなり変わらなければならない。そうでなければ、この仮想世界は崩壊する」

「現実で生きればいいじゃないですか!?」

 智美は嘆息すると、蓮司の瞳を一瞬見つめた。それだけはあまりに真っ直ぐな視線に、襟首を掴んだ蓮司の力がわずかに緩む。

 何に感情が逆撫でさせられるのかわからない。いや、そもそも親父も、智美も、蓮司を揶揄っているだけなのではないか。だってこんな、理解も追いつきもしなければ、実感もわかない、記憶もないことを言われたって、わかるわけがない。

 ただ、その記憶は書き換えられていると言う……。しかも、二人だけではない。夢叶が最後、悲しそうな表情をしていた。

「それを私たちが考えないとでも? あなたが知らないだけで、本当の現実で、今の人間の大多数を養っていくことは、不可能なのよ!」

 智美はハンドルを握ったままに叫ぶ。込められた力がぎゅっと音を立てた。

「……でも、たしかにそうなのかも。だから、タピルスと呼ばれる人間たちが現れた」

 タピルスはこの世界を認めていない。だから壊そうとしている。そう智美は続けた。

 タピルスという名を聞き、彼らが生み出したとされていたレグナイトを、蓮司は思い出した。思い出すと同時に、力なく手が解かれた。

「もし、もしオレが、はざまの世界で、レグナイトを消さなければどうなっていたんですか?」

「……それを聞いてどうする?」

 智美が、確認するように聞き返すが、蓮司の無言が答えであるかのように受け取った。

「……バグが消されず、そのために夢叶の中の世界の構築も進まず、現行の生体システムがまだしばらく続いていた」

「それじゃあ、オレが夢叶の犠牲を、手助けしていたことに……」

「勘違いするな。蓮司がやらなくても結局他の誰かがやっていたんだ。それに見たんだろう? 学校の幽霊を。もう正常稼働の状態を保つのも限界なんだよ、この世界は。結局、次の世界へ移行しなければこの世界は崩壊するだけだ。さっきも、言ったように」

 あえて強く蓮司の意見を否定した。言葉が、そこだけいつもの智美に戻る。最後だけが萎むようになる。智美の優しさが、わからない。

「あの子が、次のベースになることで、多くの人が平和な世界で、平凡な毎日を送れるんだ。それも、あの子が望んだこと」

「夢叶を犠牲にしてでも、ですか?」

「……この世界の原理だ。わずかな人間の犠牲のうえに、残りの大多数の生命の安全と生活の保証が成り立つ。基本的なマキャベリズムなんだよ。それが……今回は身近な人間が選ばれた、ただそれだけに過ぎない」

 理不尽だ。

「デバッグの件も、蓮司は知らなかったんだ。おまえが自分を、責めることはない」

 だからと言って……!

 蓮司は沈黙する。信じられないようなこの議論を、続けることに疲れていた。

 全部嘘であればいい。むしろ嘘でしかない、と決めつけるように考えた。だが智美はこの世界自体が嘘だと言った。いや、むしろその嘘の世界を肯定している。

 何が正しいのかわからなくなる。こんな、現実感のない皮肉を。

「着いたわ」

 智美はそう言ってとある駐車場に止めると、黒塗りの乗用車をヒール鳴らしながら降りた。対照的な白衣が潮風に煽られはためく。それに続くように蓮司も車を降りた。

 だが智美はそのまま座席のドアにもたれかかると、腕を組んで広大な公園の臨海方面へ眺めていた。

「ここからはあなただけで行きなさい。私は、ここに残るから」

 風が智美の髪をかき乱し、しばらくそれを抑えながら、耳にかける。

「智美さんは行かないんですか?」

 智美は蓮司を一瞥すると、結んだ口を解くように開いた。

「最後の別れを邪魔するほど、私は無粋ではないよ」

 それを聞いた蓮司は、黙ってドアを閉めると、海辺へ向かって足を進めた。

 蓮司の背後を、暗闇を照らすように光を漏らした電車が、高架上を通過していった。


 広い、広い公園は、主な歩道をコンクリートで整備されており、海辺までの距離がある一方歩くことには苦労を強いられなかった。

 だが、すでに開園時間をとうに過ぎているためか、園内は奇妙なほどに人ひとりいない。「まるではざまの世界みたいだ」と、蓮司は感想を漏らした。

 それが余計に蓮司に考える時間を与え、また公園を覆う冷たい闇を増長させた。海を眺望できるまでの道程がいやに長く感じる。

 智美から聞いた夢叶の居場所は、石と鉄で構成された吊橋を渡った先の砂浜だという。

 「海へのプロムナード」と呼ばれているメインストリートを直進していると、左右の木々が姿を消し海岸を眺望できる、開けた場所へと出られた。

 夢叶の姿はまだ確認できない。橋のさらに先、砂浜のエリアにいるとのことだが、街灯がないその場所は、公園の明かりでぼんやりと照らされている程度である。

 白い砂浜が、不気味に見えるほど。その中に夢叶がいると思うと、その姿は闇夜と海へ溶け込んでしまったかのよう。先ほどの智美の話ではないが、蓮司はぞくりとした悪寒に背筋を寒からしめた。

 程なくして橋の取り付き部に到達し、地続きの路面上で歩みを進める。

 夢叶と会って、自分は何を言おうとしているのか——。氷のように冷たい高欄に手を添えながら、蓮司はそんなことを考えていた。

 石と白いセメントの地面の橋を渡りきると、柔らかい砂原を踏みしめる。そこだけが切り取られたように小島になっていた。一軒の商業用家屋とシャワースペースがある以外、何もないクローズドの世界。

 夢叶の姿は、左右に広がった砂辺のちょうど真ん中あたり。海へと向いて凛然と彼女は立っていた。

 先ほどと変わらぬ大人の姿に、ヒールの高い靴を脱ぎ捨て寒かろう波に足を浸している。

 カンナでギリギリまで研いだような三日月が、申し訳程度の月光を海に照射して、光の道を海上へ作り揺らしている。遠くからの蓮司には、夢叶がそのまま海の明かりに吸い込まれてしまいそうに見えた。

 立ち尽くす蓮司。いくばくか覚悟の時を経て、だが答えの無いまま夢叶へと近づく。

「…………」

 掛ける言葉も見つからず、無言の空気を抱えたまま夢叶の背後に立った。

 夢叶も、前から蓮司の存在に気づいていたように、顔だけを横に向けて蓮司を一瞥すると、また海岸線へと視線を戻す。

「来てくれたのね。ありがとう……」

 夢叶の背中から、ぽつりとした呟きのような声が聞こえた。波の音にすり減らされながらも、二人以外何もない環境で、その言葉はクリアに蓮司の耳へと届く。

「約束したから、な」

 蓮司も夢叶に聞こえる程度の声音で答える。

「蓮くんは、律儀だね。いつも必ず、そうやって約束を守ってくれる。女の子の言うことなんて、50%はわがままみたいなものなのに」

「何せオレは正義のヒーローだからな。大切な人との約束は絶対破らない、困っている人の助けになりたい。それがヒーローってもんだろう」

 少なくとも蓮司の知るヒーローはそうであった。殊更に明るく振舞って蓮司が嘯く。

「でも、怒ってるでしょ? 騙したみたいに、なっちゃって。……違う、みたいじゃない。騙してたこと」

「……気にすんな。女の子の嘘を許容するのも、それもヒーローの務めだよ」

「なにそれ」

 夢叶は苦笑しながら蓮司へと振り向いた。すっと綺麗に伸びた眉だけが憂いを帯びて、夢叶の心情を如実に物語っている。

「ううん、でもごめんなさい。結果、やっぱりわたしのわがままで蓮くんのこと、傷つけてしまったの、かも」

 それには、蓮司は即答できなかった。俯く二人の間を、冷徹な空気が重くのしかかる。

 蓮司は決して傷ついたことを肯定したかったわけではない。むしろ、

「むしろ傷ついてるのは夢叶のほう、だろうが。オレの代わりに……」

 「オレの代わりに新しい世界の犠牲に」という言葉が頭の中で紡がれて、口が止まる。

「しかも、そんな大事なことを、オレは今までずっと忘れていた」

 実感は湧かない。だからこれが智美の虚言だったらと、どれだけ思ったことか。

「ううん、蓮くんは悪くないよ。それにね、わたしがお願いしたの。蓮くんの、記憶を、って。だから、勝手なことしてごめんなさい」

 不幸にも、智美の言ったことは正しかった。

「なんで……?」

 夢叶の非を問い詰めたいわけではないことは、蓮司の引き結ばれた口と困惑の表情から伺えた。

「だって、蓮くん、やさしいんだもん。優し、すぎるから……」

 先ほどの真実の告白の時と同じ。夢叶は後ろ手に組んで上げると、顔を隠すように俯いた。

「覚えてたらきっと、許してくれない。それに、悪夢退治……デバックも、きっと、本当のことを知ったらしなくなったと思う」

 夢叶の口から初めて聞いたデバックという単語が、妙に蓮司の耳に残る。

「そういうことじゃない。なんでオレの代わりに、って聞いてんだよ」

 酷薄な決断に異議を唱えるように、蓮司の声が厳しいものに変わる。

「……蓮くんが、わたしを救ってくれたから。親のいないわたしを、ちゃんとした家族みたいに扱ってくれた。それに……」

 顔をあげた夢叶は、今度は努めて蓮司の目を見る。

「こ、恋人、みたいに、してくれたから……」

 暗澹な世界でも、夢叶の頬が朱にそまっているのがわかる。

「わたしには何もなかった。私たち、毎日ポストシステムの構築に都合がいいよう、空っぽに育てられて、候補として、環境になるためのただの器の存在として、教育されたの。生きた心地がしなかった。死んでしまいたいとさえ、思ったときもあった。そして、長い間ずっとそんな気持ちでいると、それにも疲れて、人形のように毎日をただ受け入れた」

 どんな扱いを受けてきたのか具体的には言わない夢叶。そんな記憶を思い出したくないのか、思い出させたくないのか。

「本当に、無為な毎日だった。この世界で暮らしていると、本当の現実は、無いものよりもあるものを数えたほうが早いぐらい。暖かい食事もなければ、本も、ふかふかのベッドも、かわいい服も、何も。何より、家族もいない、友達もいない。そして、わたしには名前も、なにもなかった」

 波の音が、聞こえる。

 夢叶の言う、「何もない世界」を、蓮司は知らない。覚えていないだけ、か。

 夢叶の口元に笑みが溢れた。

「でも蓮くんが名前をくれた」

 蓮司は軽い頭痛を覚える。覚えていないのもそうだが、何かノイズのようなものがピリリと脳を走る。

「それだけの……?」

「それだけじゃないよ。わたしに、生きている意味を、生きるための命をくれた。あのとき、前も半年ぐらいだったけど、わたしの中で、人として扱われた大切な思い出。わたしの人生の中で、一番輝いていた時間。鮮明に覚えてる。だからこの命、蓮くんのために使いたいの」

「だからって、なんでなんだよっ」

 冷たい潮風が、蓮司と夢叶の間を流れる。夢叶の綺麗な髪がふわりと流れて、思わず髪を抑える。水分をまとった夢叶の瞳に光が反射していた。

「覚えてないと思うけど、蓮くん、泣いて大変だったときもあるんだよ? 『システムになる』って、『おーえすってなんだろう』って、誰も教えてくれなかったから、わからなかった。だけど自分にとって『よくないこと』なんだってことだけは、わかってたみたいだから」

「…………」

「だから……そんな毎日悲しそうにしている蓮くんを、とても見てられなかった。だからわたしがお願いしたの。それが、八年も前の話」

 夢叶は小さい子に、そのときの蓮司に話しかけるような口調で説明した。

「子供ってどうして理解できないのに、真に迫るというか、嫌なことだけは敏感に感じ取るんだろうね。わたしも、本当の意味では理解していないのかもしれない。怖くない、って言ったらそれも嘘になる。……でもね、後悔はしていないの。蓮くんがそうなるより、ずっといい」

 「そう(・・)なる」と、言葉を濁す。八年という月日の長さを自身の——この年齢の認識が正しいのであれば——自身の人生の半分に当たる。

「それに、痛みとかはないんだよ! わたしは、わたしを核に世界が構築されていくこと自体は、あまり実感がわかないというか、そんなに辛くはないんだ」

 後ろ手を組みながらくるりと、沖合に向かって振り返る夢叶。

「でもね、もっと蓮くんと、一緒には、いたかった、なぁ」

 涙を、感情を、押さえ込むように言葉が途切れ途切れになる。

「前は、蓮くんが幸せな生活を送れるよう、記憶を変えてもらったの。本当はね、今回も最後まで秘密で通すことも、……騙すこともできたの。……もっと言うと、記憶や、思い出を、書き換えることもできた」

 抑えきれなかった感情が、漏れ出て涙となって流れ落ちてゆく。

「でも……でも、ごめんね。わたしのわがままで、蓮くんにはどれもしないよう、今回はお願いしたんだ。最後に思い出を作りたくて、もしかしてわたしはそれを忘れちゃうかもしれないけど、蓮くんにはそれを覚えていてほしくて、わたしを、忘れないでいてほしくて」

 振り向いた夢叶は努めて笑顔を作っていた。夢叶の頬を流れる水分が煌々とした光を纏っている。それを見た蓮司は、夢叶から、現実を遠ざけたいように、顔を横に向けた。

 そして俯く。

「……行くなよ……」

 聞いた夢叶は、ただ笑っていた。本当に嬉しそうに笑い、その反動で頬を水滴が流れる。

 蓮司の言葉は限りなく小さかったはずなのに、夢叶は聞き取ってくれた。

 これまでだって、夢叶は蓮司の言葉を余すことなく聞き取ってくれている。

 自分は、どれほど夢叶の言葉に、耳を傾けられただろうか……。

「その言葉だけで十分。それに、わたしがならなければ、誰かが、もしかしたらまた蓮くんが選ばれるかもしれない。それだけは、絶対にさせられない」

 夢叶は流す涙に反して、何かに威儀を正すように、その表情を険しいものにする。沈黙が、また二人の間を流れる。夢叶が裸足で立つ、波の音が寄せては返し、無言の隙間を埋める。

 何を思ったか、夢叶は下を向いたまま自身のスカートの両サイドの裾を摘むと、右側を前に流しては左側を後ろへ、まるで丈の長さでも気にするかのように前後にひらひらとさせる。

 その姿に、以前のポートタワーでの姿が思い出された。

「知ってる? 実はわたし、蓮くんよりも年上だったんだ。……って言っても、一年もないんだけどね」

 「てへへ」と照れ臭そうに笑う夢叶に、蓮司は再び、砂浜に映える白い足から夢叶の容姿を見上げてゆくように確認した。

「次世代世界の構築のために、わたしの成長は止められたの。だからこれは、現実世界のわたしの姿じゃない。小さい、いつものわたしが、本当の姿。……だから、この姿はわたしが、年齢と合わせ成長していたらの、仮定の姿なの。……憧れの姿だったの。この世界でなら、いつでも大人の姿になることはできたんだけど、蓮くんと出会った昔の姿を、やっぱりどこかでは思い出してほしかったし、なにより……」

 夢叶は一度小さく俯き、顔を背けるように、

「蓮くんに最後、甘えたくて。だから……」

 波を蹴り上げるように足を上げた。恥ずかしさを誤魔化すように。

 そう言うと、夢叶は静かに目を閉じた。いつもの、変身するときの、淡い光を身に纏う。

「だから、こっちの姿の方がわたしらしい、かな」

 夢叶は、いつもの(・・・・)夢叶に戻った。小柄で、愛らしくて、蓮司の知っている彼女に。

 違うのは、首もとに巻かれた赤いスカーフ。いつもの私服姿にも関わらず、それだけが変身したときの隊服時に巻いているもの。

 背丈が小さくなったからか。それとも夢叶から見て、蓮司が大きくなったからか。夢叶の蓋をしていた感情が、三度夢叶の瞳から溢れ出る。

「本当は、……本当は、ずっと、側にいたかった! 二人で、笑って過ごしたかった! たまにレグナイトと戦ったっていいよ! 蓮くんとだったら、それだって楽しいから! ずっと隣で……」

 夢叶はとめどなく流れる涙を細めた眼に溢れ返した。行き場を失った水滴が、振り向いた夢叶の動きで跳ねるように宙を舞う。波に落ち、大海の水に溶けてゆく。

「寂しい、寂しいよ。寂しいよぉ……蓮くん!」

 飛びつくように、すがりつくように蓮司の体へと身を預ける。

 あとは、ひたすら子供のように泣きじゃくる夢叶。

 蓮司は彼女の滂沱を受け止めるように、夢叶の頭を包み込むように、自分の胸へ押し当てた。

 それがさらに夢叶の離れたくない感情を優しく撫でてしまい、夢叶はさらにわっと声を挙げて()いた。蓮司の服を掴む手が、二度と離したくない想いを表すように強く結ばれる。

 声にならない、むせび泣く声と、「蓮くんっ、蓮くんっ!」と、彼の名を叫び続ける声とが入り混じる。何ができるわけではなく、蓮司は小さくなった彼女をただ慰めるように、だが自身の不甲斐なさを悔いるように、夢叶の背中へ回す手がぎゅっと結ばれる。

 本当は今からでも自分が犠牲になればいいのに。そう頭を過ぎる。

 そのまましばらく、夢叶の泣く声と、淡白な波の音が、ひたすらに響き続けた。

「……蓮くん、ありがとう。少し落ち着いた……」

 「ぐずり」と鼻を鳴らしながら、少し遠ざけるように夢叶は蓮司の体を押す。

「夢叶……オレが」

 夢叶は蓮司の口に指を当てた。

「だから、それはダメなんだって……。もう遅いのもあるけど、わたしがさせない」

 理不尽だ。夢叶が、ではない。

 何か言葉にしなければと思いながらも、そう思えば思うほどに、蓮司の言葉は遠ざかる。

「……蓮くん、ありがとう。こんな世界だけど、この世界を、よろしくお願いします。…………あ、そうだ。あとこれ……」

 「受け取ってほしいの」と言いながら、夢叶は首に巻いていた真っ赤なスカーフを解いた。

 それを一度、丁寧に対角を合わせると大きな三角を作り、蓮司の左腕に結び直した。

「これをわたしだと思って。あとこれが……」

 未だ乾ききらない涙が、夢叶が笑うと同時に一粒、涙跡を伝って流れてゆく。

「ううん、なんでもない。元気いてね、蓮くん。いつまでも、わたしのヒーローでいてね」

「夢叶……」

 蓮司は何かを伝えようとするが、言葉の紡ぎ方がわからず、口を開けてはまた閉口する。

 だがそれを知ってか知らずが、今度は自身の口元に指を、小さな指を当てた。

「……それ以上は言わないで。決心が、鈍っちゃいそうになるから」

「でも……」

「お願いっ!」

 食い入るような姿勢と険を込める表情が蓮司に迫る。

 夢叶はいつも、蓮司の話を聞いてくれたのに、これだけは絶対に譲らない。その理由が、今はわかった。だけど……。

「夢叶は、ずるいなぁ」

 そう言って蓮司の顔は、夢叶の表情につられて笑っていた。笑って、笑ってよかったものかと、恥じるように萎む。

 いつも夢叶だけは気持ちを伝えているのに、蓮司には言わせないようにする。言わせる機会を、奪って行く。

 ……違う。本当はいつでも言えたんだ。いつも、それこそ夢叶の意向を無視したって、この口から紡ぎ出すことはできる。

 だがそれを、夢叶を言い訳にして言わないのは、結局は自分だった。

 夢叶はそれを察するように、「無理しなくてもいいよ」って言う。夢叶はどこまでも優しい。だけど、優しい人間は、いつもでも割りを食う。他人の不利益を被る。

 そんな人の、助けになりたかったんじゃなかったのか……。優しい世界を作りたくて、優しい人の味方でありたくて、正義のヒーローを気取って。……馬鹿だった。

 酔いしれてでもいい。いつから自分は、その想いを忘れてしまったのだろうか。

 何がヒーローだ。現実を見ていないのは、自分の方だ。そしてまた、目の前の、大切な人ひとりさえ守れずに、理不尽な世界の犠牲になることを、ただ黙って、見過ごそうとしている。

 抗え。忘れるな。見過ごすな。出せる、差し伸べられる手を差し出せ。

 そう思って口を開かず、右手をあげる。

 だが自分に何ができる? 夢叶の頰に触れる涙に触れるのみ。

 そして……。

 蓮司は、夢叶が遮って許さない言葉の代わりに、夢叶の額に、口づけをした。

 覚悟するようにぎゅっと瞑られたまぶたがそこにある。だが次に開かれた瞳は、蓮司を慈しむような、穏やかな笑顔と、再び悲しみを湛えた眉。

「わたし、もう行くね。……行かないと、いけないから」

「…………」

「ばいばい、わたしの大好きな、蓮くん」

 か細い笑顔の次いで夢叶が瞑目する。天使のように光をまとった夢叶は、姿を変えるでもなく、そのまま、海と闇夜の間に吸い込まれるように、その姿を消してしまった。

 後には残された蓮司と、夢叶に結んでもらった赤いスカーフ。

 左に結ばれたその部分が、熱く感じるように、思わず蓮司は手を当てた。

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