五.夢にも思わない現実 (12/6)
月日が経ち、秋もすっかり通り過ぎようとする、寒空の日。
「「海輪高校七不思議?」」
四限目を終えた昼休み。蓮司と哲郎は、口を揃えて、季節外れの言葉を復唱した。
「そうなのよ。この学校にも七不思議が昔からあるみたいなんだけど、それが最近になって話題になっているみたいなんですよ」
三人は窓側の席を陣取り昼食を取っていた。哲郎の机を、前の席の蓮司が振り返って挟む形になり、その間にしずくが椅子を引っ張ってきて座っている。
夢叶は智美に呼ばれて職員室へと足を運んでいた。戻ってきたときのために席はあらかじめ哲郎としずくの間に置かれている。
「七不思議って、いわゆる学校の怪談だろう? 今まで聞いたことないぞ、そんな話」
蓮司が弁当に加え、学食で買ってきたオムソバパンを頬張りながら言った。
「オレも初耳だな。どうせ新聞部あたりがでっち上げたゴシップじゃないのか?」
弁当の筑前煮を摘みながら哲郎もまた同意した。黒い漆塗りの重箱のような、立派な弁当には焦げ目の見えない綺麗な卵焼きをはじめ定番の和食が並べられている。
「わたしもね、最初は誰かが始めた噂話かなぁって思ってたの。夜零時を迎えると一段増える東校舎の南階段とか、化学室の動く人体標本とか、遅くまでいるとコンピュータ室のパソコンに閉じ込められて出られなくなるとか」
しずくのは、いかにも女子高生らしい小さく黄色い弁当箱。それを膝の上にランチクロスを敷いて、その上に置いて食べている。哲郎が二個目の卵焼きを食べながら、
「いかにも七不思議の定番って感じだな」
と嘯く。哲郎の弁当箱を蓮司が覗くと、卵焼きだだけで箱の四分の一を占められていた。
「そうなのよ。そうなんだけど、今まで七つしかなかったのに、最近になって八つ目が言われるようになってね」
「八つ目?」
蓮司は最後に残った大きめの一口を口の中に放り込んで首を傾げた。しずくも串に刺さった唐揚げを手に取りながら首肯する。
「その八つ目が、今話題になっている怪談でね。『夜零時を超えるとコンピュータ室に現れる黒い影』っていう噂なの」
「時間設定もコンピュータ設定も、前の七つとだだ被りじゃん」
哲郎が冷静に指摘する。いつの間にか弁当にあった卵焼きが全部消えて、四角い弁当箱の一角が綺麗に四角く空間を空けていた。
「たしかにそうなんだけどね、見た生徒が結構いるらしいのよ。最初は二週間ぐらい前で、その後立て続けに四人ぐらいが目撃してるんですって」
「いや、でも、普通そんな夜中まで生徒はいないでしょ?」
哲郎が、「蓮司にしては珍しくまともな指摘だ」と、そうとでも言いたげにちらりと蓮司を見て、無言で頷く。しずくは「ごもっともです」と前置きをして、わざとらしく咳払いをしながら集めた情報を披露した。
「最初の生徒は本当に偶然だったみたい。翌日の宿題を学校に置き忘れたとかで、近くに住んでいたこともあって取りに戻ったらしいのよ」
「蓮司じゃ絶対あり得ないことだな」
哲郎が意地悪そうな光を瞳に宿しながらちゃちゃを入れる。
蓮司は「うっさい」と不貞腐れた。そう態度で示しながらも、実際に一度、宿題のプリントを忘れたことに気づきながら思い出さなかったことにしたのを、思い出す。
「その後に、それを聞いた友達が一緒に見に行ったら、なんと! 本当に人影が見えたらしいの。最初に見た生徒は、前のときは怖くて見に行かなかったみたいなんだけど、今度は友達が一緒だからって行ったら、コンピュータ室の前で人の名前を呼ぶ声が聞こえて……」
しずくが大仰に怖そうなトーンで話しているが、蓮司も哲郎も実感が湧かないのか「ふぅん」といった様子で聞いている。肩透かしをくらったような気持ちに負けず、しずくは続ける。
「……それで、ドアを開けてみたら、誰もいなかったんだって。でも校庭から人影は見えたし、最後に声まで聞こえちゃったものだから、二人とも相当背筋が凍るような思いをしたって。ちなみに四人のうちのあとの二人は、その噂話を聞いたオカルト研の人なの。肝試しがてら行ったら今度は、人影は見たけど声までは聞こえなかったから、最初の二人ほど怖い思いというか、確かめられなかったみたいだけど」
「時期的には完全に出遅れてるな。肝試しも、怪談も」
そう哲郎が言うのを聞きつつ、蓮司は黒板へと振り向いた。脇に白チョークで『十二月』と書かれている。間も無く冬休みとなる時期。気温だけですでに背筋が凍る。
蓮司は、しずくがやけに情報通であることに感心していた。他の生徒なら上っ面の噂話だけに留まりそうなところ、随分と細部まで物語っていた。
そのことが口から出そうにもなったが、それをせず後半静かに聞いていたのは、別の懸念が蓮司の脳裏を占めていたからだ。『タピルス』のこと、を。
未だ智美の求めに応じ退治に向かう先には、タピルスが生み出し誘っているという『レグナイト』しか姿を現さない。彼らがどういった組織で、どういった姿の存在であるかも、蓮司の理解以上に智美の説明にも精彩を欠く。
だが智美曰く、彼らは現実世界でレグナイトを生み出すことはできないと結論づけていた。そのため今回の件もタピルスとは無関係とも思えたが、万が一にも蓮司達の世界に干渉できるようになっていたら厄介である。
そう逡巡していた蓮司の耳に、そんな懸念を払拭したいという無意識に応えたような、しずくの言葉が届いた。
「ということで、今晩一緒に肝試ししましょう!」
「えっ?」
「はっ!?」
思考の世界から連れ戻された蓮司。そして「お門違い違いもいいところだ」と言わんばかりの哲郎が反応する。そんな二人を無視してしずくは、
「最初の二人だけなら作り話って線も消えないけど、その二人とは全く関係ない生徒まで目撃しているんだよ? そう考えると、前の七つとシチュエーションが被ってることにも妙なリアリティがあると思わない?」
「いや、嘘か本当かじゃなくて、なんでそれにオレが巻き込まれなきゃいけないんだよ」
哲郎が明らかな不満顔で反対する。
「だって、蓮司くんとわたしだけが夜中の学校に入ったら、良い雰囲気なあまり何をされるかわからないじゃない?」
「そんなんじゃ説明になっていない……」と哲郎が不平を鳴らす一方、なぜか蓮司は行く前提になっていることに異論を挟まなかった。
しずくが何故そこまでホラーに興味があるかはひとつの疑問だった。だがそれ以上に蓮司自身も気にはなっていたので、そもそも反対をしなかっただけかもしれないが。
「それに、本当に誰かいるなら、男手は多い方がいいじゃない? ……それとも、もしかして哲郎くん、おばけが怖いの?」
「怖くなんかねぇよ!」
「じゃあ決まりね!」
「あっ」と言う哲郎の表情。テストの点数だけで比べれば、この中で哲郎がしずくに勝る。一方でこういう駆け引きのようなやりとりはしずくの方が一枚上手だった。ちなみに点数の観点では、哲郎、夢叶、しずく、そして蓮司と続く。点数で夢叶に頭が上がらない蓮司。
ちょうどそのとき、智美に呼ばれていた夢叶が教室へと戻ってきた。
夢叶は「何の話をしてたの?」と言わんばかりのキョトンとした瞳をしながら、小さい弁当の包みを手に持ってくる。そして、哲郎としずくの間に置かれている椅子に気づくと、不機嫌そうな表情を浮かべながら、それを蓮司としずくの間に置き直して小さな尻を納めた。
蓮司の説明を受けた夢叶はさらに、それどころかすこぶる不機嫌であった。
時刻は夜の十一時二十分。待ち合わせを北校舎昇降口にすることを約した三人は、怪談が目撃されたとする三十分前を待ち合わせ時間とした。
学校まで歩いて二十分の蓮司は、夢叶の目を盗んで早めに家を出ようとする。書き置きだけして夢叶が入浴しているタイミングを見計らった。
夢叶は年齢にそぐわず夜更かしであった。精神年齢に、と言うべきか、海外では大学まで進学したという夢叶は、夜更かしな高校生と同じようなサイクルで生活を送っている。だから育ちが悪いんじゃないか……と密かに思ったことがあったが、当然口に出したことはない。
そのため外出は就寝前の風呂の時間を狙った。そして奸計は見事に看破される。
一体どうやって気配を感じ取ったのか、玄関で靴を履こうと框に座っていた蓮司。その座高よりも高いところから夢叶の声に呼び止められた。
「どこに行くの?」
その声色には若干の怒気が孕まれている。蓮司が恐る恐る振り向くと、慌てて風呂場を出てきたのか、夢叶はバスタオルを巻いてそこに立っていた。表情の上半分に黒い影のオーラが見て取れるようにさえ、蓮司には見て取れた。
策を見破られた蓮司は素直に白旗を上げて理由を説明する。黙って聞いていた夢叶だが、話が進むにつれてみるみる不機嫌になっていく。
「わたしも行く!」
そして現在の昇降口に至る。夢叶は慌てて髪を乾かしたよう。髪はまだ生乾きで、リンスの香りが蓮司の鼻腔を優しく擽ぐるほどに、漂ってくる。思わぬ良い香に、蓮司は夢叶から顔を逸らす。夢叶はそれを察してか知らずか、その様子を見てわずかに不機嫌を緩めた。
「ところで、その胸に抱いているぬいぐるみは何なんだ?」
蓮司は道中聞けなかった話題を振った。不機嫌なあまり夢叶が無言であったからだが、加えて、この時間帯に少女を連れて警官に出会そうものなら職質されかねない。そう思った蓮司は、最大限のレーダーを働かせて道すがらを共にした。だからこそ、夢叶を連れていかないと判断していたのだったが。
「これ? 『ユメちゃん』!」
夢叶は胸に抱いていたぬいぐるみを両手に、掲げるようにして蓮司の前へと突き出した。夢叶が『ユメちゃん』と称するそれは、全身淡いブルーの四本足のぬいぐるみだった。
顔はナスのような卵型をしており、つぶらな瞳に、鼻はぱっと見て確認できなかったが、口は前方からは見えない位置にあった。頭の天辺から首筋にかけてピンク色の鬣があるが、首自体はほとんどない。太い胴に、小さな缶詰のような太い足がくっついている。額に三角錐のツノがあり、背中には左右二枚ずつ計四枚の白い翼が生えていた。
特徴からユニコーンをデフォルメしたものだろうが、率直な感想としては子豚に近い。
そのぬいぐるみこと『ユメちゃん』を蓮司がまじまじと顔を近づけて眺めながら、
「へぇ。『夢叶』にならった名前なんだな。ユメちゃんって……」
と言った矢先、ユメの顔がぐんと持ち上がり、生暖かくぬめりとした感触が蓮司の顔面をなぞった。ユメの大きな舌が、蓮司の顔を舐める。
「……っ!」
予想だにしない奇襲に合い肌がビリビリと騒ぎ立てる。これから怪談を調べようとしているのに、そのときに取っておくべき鳥肌を今ここで使ってしまった心境。
「これ、もしかして……」
「そう! わたしの力で!」
夢叶の答えは簡潔だった。生み出したのか……。即座に理解した蓮司に、夢叶は補足する。
「でも安心してね! 人前では動いちゃダメって教えてるから。蓮司の前だけ特別」
確かに、こんな意味不明な生物が他人に知れ渡ったらと思うと、どんな結末になるか容易に想像はつく。だが同時に夢叶の補足にも妙に納得してしまった。
と言うのも、蓮司自身もユメをぬいぐるみだと思い込んでいたし、それは学校に来るまでの道中を夢叶の言う通り身じろぎひとつしなかったことで証明されていた。
そんなことを知ってか知らずか、ユメは夢叶に抱きかかえられたまま、丸まった尻尾をパタパタと左右に振っている。
「本当に何でもありだな」、そう思う蓮司であった。同時にふと、何気ない疑問が湧く。
それはこの動く物体が生物かロボットか、という手近な疑問を軽々と飛び越えて、さらにその先へと着地したものだった。
「なぁ、そうやって何でも生み出せるなら、人間とかもできたりするのか?」
蓮司は何気なく言ってしまったことを、瞬時に後悔した。二つの意味で。
一つは、自身の問いがあまりに軽薄であったこと。人間の倫理に則り、万が一にできる可能性が残る場合、それを夢叶の口から言わせること、またそれを聞く自身のこと、両方を想起したためだ。もう一つは、単純に夢叶の表情に、暗い影が落ちたから。
しかし、前者については蓮司の先見を、良い意味で夢叶は裏切ってくれた。
「……そんなこと、私にはできない」
妙に含みのある言い方に、蓮司はどう解釈すればいいのかと困惑する。だからと言ってこれ以上聞くこともままならず、蓮司も夢叶も押し黙ってしまった。
それを割るように、タイミングよくしずくと哲郎が姿を現した。
「ごめんなさい、遅くなって」
気づけば、約束の時間から五分ほど長針が過ぎていた。しずくは、哲郎を逃さないようにシャツの裾を掴んで引っ張っている。
「あ、夢叶ちゃん、かわいいぬいぐるみだね!」
ユメはすでに、完全にぬいぐるみモードへと移行していた。言いつけ通り身動き一つ取らない。先ほどまで動いていて辛くはないのだろうか、と蓮司は考える。同時に、こっちがデフォルトなのだろうとも、何故かそう思えた。
ユメの頭で口元を隠す夢叶。覗く双眸は、一見照れているようにも、一方でクラスメイトに子供扱いされていることへの反発でもあるかのようにも見て取れる。
「なぁ、夢叶って、あんまりしずくと仲良くしようとしないよな?」
蓮司は哲郎へ、囁くように耳打ちした。
「ただの嫉妬だろ? おまえが絡んでの、しずくへの対抗心というか」
哲郎もそれは気づいていたようだが、興味がない、というより犬も食わないという態度。
そんなことにはつゆほども気にかけず、しずくは早速計画を実行へ移そうとする。
「じゃあ、まずは美術室から行こうかしら。一段増える階段はあとで確認するとして、次に近いのは化学室かな? 呪いの本は、図書室だからコンピュータ室の前に行くのでいいかも」
「……って、七不思議全部確認するつもりなのかよっ!?」
半ば無理やり連れてこられたことに不満顔だった哲郎が、思わず反論を口にする。
「もちろん! せっかく夜中の学校に来たんだもの。他の七不思議にも、もしかしたらお目に掛かれるかもしれないじゃない? 個人的には化学室の人体模型が動いてくれでもしたら嬉しいんんだけど、他にも呪いの本あたりが何らかしらのホラー展開になってくれることを期待するところね!」
どうやら、と言うより実はわかっていたことだが、しずくはこの手の怪談話が好物なようだ。蓮司は以前、「実録!本当に出会った!心霊スポットベスト10」なるDVDを見たと嬉しそうに報告されたこと、そして話を聞くだけで鳥肌が立ったことを思い出した。ちなみに哲郎は、「トイレ」と一言だけ言って逃走した。『貞美』を観たことないのもそうだが、哲郎はこの手の話が苦手なのである。
しずくは、不承不承の哲郎の上着の裾と、その哲郎を面白そうに見ている蓮司の腕を抱き、コンピュータ室の西校舎とは反対側、東校舎へと歩いていった。しずくは比較的余裕そうにしている蓮司を見て意外そうに口にした。
「そういえば、蓮司くんは意外と大丈夫そうね。大人の余裕って感じ」
「んー……、自分でも意外だけど、まぁこんなもんかなぁって感じかな。それにオレ、自分で見る夢のほうが断然怖い時期があったから」
蓮司の言う「見る夢」とは、自身でも意外なことに『はざまの世界』のことではなかった。どちらかといえば、本当の夢の方、明晰夢前の、逃げたばかりの時が、一番怖かったのだ。
はざまの世界でのレグナイトは、たしかに恐怖の対象ではあったが、戦える土壌があるだけ蓮司にとっては遥かにマシなシチュエーションなのである。
そう考えると、レグナイトの戦闘経験も含めて、学校の怪談程度はかわいいものだった。
「それに夢叶ちゃんも、全然平気そうね」
「……べつに」
夢叶は蓮司の隣に張り付くように歩いている。しずくに顔を向けることなく無愛想に振る舞う。心配した蓮司が、夢叶に顔を近づけ囁いた。
「なぁ、もうちょっと愛想よくしてもいいんじゃないか? 同じクラスメイトなわけなんだし、別にしずくが夢叶のことを嫌っているわけじゃないだろう?」
蓮司に言われて夢叶も情が動かされるのか、すこし俯いて考える様子を見せる。だが意見までは変えるつもりが無いように答えた。
「……仲良くなる必要なんか、ないもん」
夢叶はいつの間にやら掴んでいた蓮司のシャツの袖を、左手で強く握った。引っ張られたようなその感触から、意志の固さを感じる蓮司。ただの子供の幼稚さのようにも思えたが、それ以上は何も言わなかった。
「ちなみに、蓮司くん知っている? 夢叶ちゃんね、この間下駄箱を開けたらラブレターが入ってたんだって! しかも今回が初めてじゃなくて、たしか六回目ぐらいだったような……」
そこまでしずくが言って、夢叶が慌ててが制止するように口を挟む。
「ちょ……っ! なんで言っちゃうの! 内緒にしてってお願いしたのに!」
怒るよりも、暗がりの廊下でもわかるほどに顔を赤くする夢叶。激情に任せてしずくへと、ユメを当てるように振り回す。が、残念ながら躱されてしまう。
蓮司は、「へぇ、夢叶ってモテるんだなぁ」と冗談交じりに言いながら、じゃれ合う二人を観戦していた。つっけんどんな夢叶の態度が、結果として柔和になったことを楽しむように。
「蓮くん! 違う、違うんだからね!? ちゃんと、全部お断りをしたから! わたしが好きなのは蓮くんだけよ!? お願い、信じて!」
夢叶のあまりの狼狽えぶり。「あんたになんか見られなきゃよかったのに!」と未だユメによるぬいぐるみアタックを繰り広げている。夢叶もまぁそうだが、首の据わらない赤子のようにぶるんぶるん振り回されるユメが不憫に思われる。蓮司も「わかったわかった」と苦笑し、恥ずかしそうに口を歪める夢叶の頭に軽く手を添えた。
ラブレターの中にはいわゆる少女趣味な輩もいるのだろうが、ぎりぎり異性として見れるほどの容姿と性格を兼ね備えており、蓮司もその点だけはラブレターを連中の気持ちがわからないでもない。
蓮司はそこまで考えて、思わず頰の熱を感じて夢叶から顔を背けた。夢叶もその挙動を訝しげに、キョトンとした表情で首を傾けてくる。
蓮司は手で何でもないことをひらひらと表すと、気づけば一行は美術室へと到着していた。
「さ! まずはここからね!」
その後のしずく隊の調査は、良くも悪くもスムーズに進んだ。端的に言えば、問題となるものは何も発見できなかったのである。
美術室のベートーベン、化学室の人体模型、東校舎の南端に位置する階段の段数。当然といえば当然なのだが、対象そのものはあっても、怪談よろしく変化するものは何一つなかった。
「ふ、ふん、オレはわかっていたけどな」
そう嘯いたのは哲郎であった。自制心を働かせようと眼鏡をクイと上げる様子が蓮司にはおかしかった。
こうなってはただの真夜中学園散歩である。これまでの七不思議確認作業が規定路線であった一方、それ故に八つ目の噂への期待値が否応無しに高まっていた。
そしてその「八つ目」は、意外なほどあっさりと蓮司たちの期待に応えた。
北校舎の二階廊下。そこを西校舎へ向かって歩いていたときのことだった。夢叶が何かに気づいたように蓮司の腕を引く。あとで聞いたことだが、夢叶がユメを抱いていたのは、ユメに索敵能力を備えていたためだった。
そのため、最初に気づいたのは、正確には夢叶が手に抱くユメである。ユメが気づき、体を震わせ夢叶に感知の結果を知らせたのだ。
夢叶に腕を引かれた蓮司は、彼女が指差す方向へと視線を向ける。
窓の向こう、校庭を対角に横切った先の、西校舎二階の最南端に位置するコンピュータ室。人影までは確認できないが、そこにはカーテン越しの淡い光が宿されていた。光量が少なく、室内照明に照らされている様子ではない。おそらく、パソコン画面の明かりが点いている。
蓮司と夢叶が立ち止まって窓の向こうを見遣る様子に、前を歩くしずくと哲郎も気付いた。
「怪談発見!? 行くわよーっ!」
目を爛々と輝かせたしずくは、蓮司の静止する間もなく全力ダッシュで駆けていく。およそ女子のものと思えないほどの力で、哲郎は引っ張られすでに北校舎と西校舎の間の曲がり角を曲がって行った。
哲郎の「ちょ、待て……」という言葉の語尾だけが、虚しく角の向こうから蓮司と夢叶の元へと響いてくる。
「どこから湧いてくるんだか。あのエネルギーは」
そう呟いた蓮司の腕を、夢叶は掴んだままであった。左手にはユメが抱かれているのだが、そのユメがしずくたちの走って行ったほうと逆側、東校舎へ続く廊下へと首を向けている。
一瞬、ユメが動いたことを注意しようかと考えた。が、ユメは夢叶の言いつけを破ったわけではない。たしかに今は蓮司と夢叶の二人きりであったから。
だがそんなことを考えていたのも束の間。ユメが向くのと同じ方向を夢叶も見つめていることに気がつく。夢叶の口は固くつぐまれ、皺の寄った眉間とその下の厳しい双眸が何かを捉えて離さない。蓮司も思わず顔を上げた。
廊下の先に、一人の、おそらく人間が立っている。
警戒心を抱く夢叶と異なり、蓮司は不随意に肩がびくんとすくんだ。人の形をしているが、胸まである長い髪が眼を覆い、表情全体を伺い知ることはできず、口元だけが微笑を湛えている。髪型と体型、白いワンピースという服装から女性であることは想像に固くない。一瞬蓮司の脳裏に宿ったのははざまの世界で大量に駆除した貞美の姿であった。
だが、明確に貞美とは異なる点が一つある。それこそ怪談らしく、幽霊にように体が透けているのだった。単にシルエットが薄いというのではなく、何かホログラムで投影されているようにさえ見える。
蓮司は恐怖に体が竦んでいた。レグナイトとは異なる、明らかな異様さが蓮司の第六感に働きかけているよう。だが出会い頭に襲いくる奴らとは違い、その幽霊は二人へ近づいてくる様子さえ感じさせない。
一方夢叶を見やると、警戒を湛えた表情から緊張の成分が消え、今はむしろ悲しそうな表情にさえ見える。
「………………」
その幽霊は覗く口元を動かしている。音が二人にまで届かないが、何かを伝えようとしていることは見て取れた。
「……なんて言ってんだ?」
しかも、同じ単語を繰り返しているよう。
夢叶は迎撃の態度を取らない。不思議に感じもしたが、幽霊に攻撃の意思がなさそうであることから、向こうの世界のように戦闘へとは移行しないこともわかる。
そこまで考えるに連れて蓮司の恐怖は徐々に薄まりつつある。そして目の前の存在が何を言おうとしているかのか、幽霊の口元を注視する。
「れんじ」
その言葉は、蓮司の腕を引く夢叶の口から放たれた。だが奇妙なことに、それは彼の名前を呼んだのが夢叶にも関わらず、その音声が彼の幽霊の唇の動きと一致したように、蓮司には錯覚された。何故だろう。夢叶のときもそうであったが、どこかで見覚えがある。
すると幽霊は、一言二言追加で同じ言葉を繰り返すと、残滓を残すようにすーっと、だが最後は完全に消えてしまった。
「…………」
蓮司の顳顬を経由して、玉のような汗が流れる。
変わらず夢叶はじっと幽霊がいたほうを眺めていた。再び現れることを懸念してのことか、それとも何か考え事をしているのか、じっと見つめたまま視線を外さない。
警戒心と悲しみが入り混じっていた表情は、今はほぼ無表情に近い。手に抱くユメがご主人である夢叶の様子を伺うように顔を上げ、軽やかに尻尾を振っている。
体感にして長く感じたが、おそらくわずか数分の出来事だったと思う。次に蓮司の名前を呼ぶ声は、その時間すら長く惜しいものであるかのように苛立ちを孕んでいた。
「蓮司くん! もうどうしたっていうのよ。後から追いかけても来ないし。ちょっと来て! 人影はなかったけど、パソコンの電源がついていたのよ!」
先ほど哲郎を引っ張って西校舎へと走っていったしずく。二人が追ってこないこと訝って戻ってきたよう。北校舎中央から西校舎南端まではそこそこの距離があるはず。しずくの呼吸はその間をダッシュしたことよりもむしろ、興奮で弾んでいるようだった。
「あぁ、ごめん」
蓮司は生返事で返した。それはしずくの目にも明らかで、「どしたの?」との問いかけに蓮司も「なんでもないよ」と返してコンピュータ室へと戻るしずくに続いた。
室内に入ると、四十台ほどのパソコンが並べられていた。縦に三列、各列向かい合うように置かれたパソコンの液晶が、教室前方の真新しいホワイトボードに対し垂直に並べられている。
蓮司たちが入った左前方のドアから教室を眺めて、一番左の列真ん中あたり、校庭に画面を向けているパソコンが、恍惚と光を発している。そこあるのはキーボードと、時折マウスをカチカチと鳴らす哲郎の姿。じっと画面を見つめているよう。三人が近づいても、一瞬視線を向けるのみで、またパソコンへと戻す。
蓮司は画面を覗き込む。そこにあったのはブルースクリーンであった。
デスクトップは表示されず、何かエラーが生じたときに表示される画面。そこまでは蓮司も知っていたが、その画面に何が書かれているのか理解できない。哲郎といえどもそれは同じよう。鼻から読む気のない蓮司の一方で哲郎はそれを読解しながらキーボードを叩いている。
一方で押し黙るようにしていた夢叶がポツリとつぶやいた。
「……随分と古い型ね」
それを聞いた蓮司はふと液晶枠に貼られた、カラフルの窓のようなロゴシールを見る。煌びやかに光るそれには、『Winda 8』と書かれていた。
「たしか最新式は『10』だったっけか? そりゃあ最新じゃないかもしれないけど、そんな古いってほどじゃないだろう」
パソコンに詳しくない蓮司であったが、そんなことを思い出しながら夢叶を諭す。
夢叶は「そうね」と淡白に返した。もうすでに動かなくなったユメの頭に顎を乗せて、真っ青になった画面を見つめ、一言呟いた。
「やっぱり、OSは最新バージョンじゃないといけないのよね…………」
蓮司は無論、夢叶のことを全て知っているわけではない。だがまるでITのエンジニアのような発言があまりにも似つかわしくなくて、蓮司は思わず苦笑する。
そんな二人のやり取りをしずくが横目にだけ捉え、全く意に介していない哲郎だけが喚いた。
「だめだ! これ、再起動するしかないな」
「天下の哲郎様もパソコンには疎いですな」
蓮司は、普段の意趣返しのように哲郎を揶揄う。
「やっかましい! ここに貼ってあった付箋にパスワードみたいなものが書いてあったんだよ! それで状態が変わるかと思ったのに、大文字小文字いろいろ入力しなおしても、全っ然、反応しない」
「ブルースクリーンなのにパスワードっておかしくない? 普通表示されるのってエラーメッセージとかで、パスワードは関係ないでしょ」
しずくが持ち合わせていたリテラシーを動員してコメントする。
「だってここに書いてあるだろう? パスワードって」
哲郎が指差す先をしずくが確認すると、システム不安定を示すメッセージが書かれた最後に、「password : 」の文字が表記されている。文字入力が可能であることを示すようにカーソルが点滅していた。
「だからここに貼ってあった付箋の文字を打ち込んでんだけど、全然反応がなくて」
哲郎が黄色い正方形の付箋を差し出した。しずくはそれを確認すると「どういう意味だろうね」と言いながらそれを蓮司にも回した。蓮司が英語で書かれた文字を辿々しい口調で読む。
「すりーぴんぐ…………びあ……びーすと?」
「っ!?」
瞬間、顎と机の間にユメを挟みながら所在なげにしていた夢叶が、弾けるように顔を上げた。蓮司の見つめる瞳の瞳孔が開ききって色を失っている。
「…………ん? どうした?」
夢叶が何かに驚いたことは蓮司も感じ取ったが、それが尋常じゃない程度であったことを、暗がりのために読みきれなかった。
夢叶は無言のまま蓮司の持つ付箋を引ったくると、手を震わせながら黙読した。
「ぃったいな! どうしたっていうんだよ」
「……………………………………なんでも、ない」
夢叶が振り絞るような声で発したのはそれだけだった。
「なんでもないって、なんでもなくはないだろう? どうしたんだよ?」
明らかに様子がおかしい夢叶を気遣う。聞こえてないのか、それとも無視しているのか、夢叶はまた押し黙ってしまった。頑なにも見える夢叶の態度に、蓮司は思わず後頭部を掻く。
結局、パソコンは再起動せず終い。電源を落としたが最後、そのまま起動さえもしなくなってしまった。
「惜しいところまではいったんだけどなぁ。結局収穫なしか」
校舎を後にする四人。しずくは校庭を歩きながらいかにも残念そうに言った。
「だから本当に七不思議なんてあるわけないだろう? そんな非科学的なこと」
哲郎が半ば強制的に連れてこられた不平を並べた。
「でもパソコンはついてたじゃん? きっと何かあるんだって」
「そんなの、単純に切り忘れかもしれないじゃないか。それかタイマーで勝手に起動したとか」
「最初にここ歩いたときは何もなかったじゃない。たしかにタイマーで起動するっていうのは、誰かの悪戯でゼロではないかもだけど………」
しずくは、希望的観測から「誰かが意図してこの時間に起動した」説を信じたがった。
蓮司は、前を歩く二人のやりとりを見やりながら、袖を握る夢叶の様子を気に掛けている。
幽霊らしきものを目撃したときは、さすがの蓮司も肝を冷やした。だがどちらかといえ付箋を見た後の夢叶の様子のほうが、今の蓮司には気がかりだ。
「………なぁ。何か困ったことがあったんなら話してくれていいんだからな?」
夢叶は、形のいい眉を八の字にしながら蓮司を見上げた。そして蓮司の、シャツの袖を再び握り呟いた。
「…………今は、これだけでいい」
蓮司は大きく嘆息した。呆れから来るため息というよりも、これ以上言及できないことへの諦めに、である。「これ以上は聞かないよ」という意思表示として前を向く。
しずくと哲郎はまだ、議論を繰り広げていた。
「だいたい、人影っていうのだって、もしかしたら警備員とかかもしれないだろう? それを最初の生徒がおばけだと思い込んだ可能性もあるじゃないか」
「そんなこと言ったら聞いたっていう声はなんなのさ?」
「最初のやつの作り話だろう。オカルト研まで見ているっつう人影が百歩譲って本当だとしても、声まで聞いたっていう話が本当かは別だよ。何かの聞き間違いかもしれないじゃないか。 やっぱり警備の人だよ、警備員!」
二人があまりに不毛な水掛け論を繰り広げるので、蓮司は思い直して今日見た幽霊の話をしようかと考えた。今の状態の哲郎は絶対信じないだろうが、しずくは嬉々として聞いてくれる気がする。蓮司が口を開いた。
「なぁ、しず……」
「警備員じゃないって! だって全身真っ黒でフードの警備員なんているわけないでしょ!?」
しずくの言葉に、蓮司は出そうとした言葉を飲み込み、そのまま閉口してしまった。