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スリーピングビースト  作者: あきむ
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三.実在の少女(5/16)

 昨晩のことを思い出しながら、蓮司は北校舎から東校舎への角を曲がる。

 教室ひとつ分の距離を置いて、廊下は薄暗くなっていた。外光が入ってこず、艶めく廊下は蛍光灯の光のみ反射している。

「蓮司! 急にどうしたんよ。いきなりいなくなりやがって」

 教室に入ると、蓮司の後ろの席の哲郎が壁を背にして座っていた。逡巡していたためか、教室の喧騒がいつもよりも大きいものに聞こえる。

「別に。ちょっと智美先生に質問をしに行ってただけ」

 様々浮かぶ疑問に答えを見出せないでいる蓮司は、最もらしい理由を準備することも億劫になり、当たり障りのない事実だけを告げた。「結局教えてもらえなかったけどな」と、一言補足すると、哲郎も詳細を語る気のない蓮司の様子を察してか、「そうか」と一言だけ返す。

 少しの間を置き、所在無げに前の席で俯している蓮司に話題を振った。

「そういえば、今日来る転校生ってどんな子なんだろうな?」

 蓮司が昨晩のことで精神世界を彷徨っている中、聞き覚えのない一石が投じられた。

 「はぁ?!」と、弾かれるように身を起こした蓮司が哲郎へと見開いた目を向ける。

「そんな話初めて聞いたぞ!」

 窓の外を覆う仮囲いに始まり、またもや蓮司の記憶にない事象が起きたのかと思った。

「オレだってさっきしずくに聞いたんだよ。誰からの情報かわからんけど、今日このクラスに来ることは間違いないみたいだって」

 今度は記憶違いではなく済んだ。これ以上問題の積荷を増やしたくない蓮司にとって、それだけでも軽く胸を撫で下ろす。嘆息して間を置くと、蓮司は素直に転校生の話題に従った。

「言われてみれば、教室がいつもより騒がしい気がする」

 周囲に耳を傾けると、そこらで「転校生」だの「女子」だのと言った言葉が聞こえてくる。

 特に後方廊下側、ちょうど蓮司たちと真逆に位置する五人ほどの男子の集団が、やれ「清純派黒髪美少女」がいいだの「ツンデレお姉様系」がいいだの、妄想を膨らませた益体のない、だが活発な議論が繰り広げている。

「こんな時期に珍しいな。もう新しい学校始まって一ヶ月以上経とうとしてるっていうのに」

 蓮司がそう言うと、哲郎も首を縦に振る。

「なんでも帰国子女らしいぞ。……違う、留学生だったかな? なんにしても海外暮らしが長くて、飛び級で進学していった才女だって噂。時期的こともそうなんだろうけど、特例で入学が認められたんだとさ。しかも智美先生の親戚の子らしい」

「智美先生の?」

 蓮司はその点に反応したが、自分が身内だとバレないために、それ以上のリアクションは見せないよう努めた。取り繕うように話題を戻す。

「噂の割に、随分と詳しいのな」

「ぜーんぶしずくの受け売りだよ。女子のほうがこういう話題に関しては敏感だからな」

 哲郎は蓮司に見せるように両手を広げた。

 始業のチャイムが鳴り、程なくして智美が教室へと入ってきた。職員室までの距離を考えると、おそらく定刻八時四十分よりも早くに職員室を出たのだろう。

 流布していた噂に違うことなく、智美は生徒を伴っているようだった。ドアを開けると、「少し待っていなさい」と背後に声を掛け、教団に立つ。

「みんなおはよう。それでは朝礼をはじめる。えー……」

 智美の挨拶が耳に入らないように、教室は喧騒に包まれたままだった。

「し、ず、か、に。もうすでに聞いている生徒もいると思うが、今日は転校生を紹介する」

 智美は学生名簿の裏表紙をトントンと軽く教卓に打ちつけながら言うと、ドアの前で待機していた転校生のほうを向いて手招きをした。

 待ってましたと言わんばかりに生徒の耳目が前方扉へと集中する。

 そして、その姿を見たクラス全員が、「飛び級」だの「特例」だのという噂、そのキーワードと彼女の姿を即座に結びつけた。実際にその転校生の足取りが穏やかなものであったこともそうであろうが、蓮司の思考が、彼女の歩く姿をゆっくりとしたものに映す。

 制服こそ海輪学校のものを身に纏っているが、背丈は小学校高学年か中学生のそれと等しいぐらい。

 顔立ちで幼さを感じさせる一方、ライトブラウンの瞳には凛とした彼女の強い意志が内包されているようで、それが妙な大人びた印象を他人に与える。

 美少女。例外なく誰もがそう思うほど端正な顔立ちと気品が感じられる。子供っぽい表情が加えられれば子供へと傾き、穏やかな立ち振る舞いを加えれば大人の女性にも傾きそうな、絶妙な容姿。

 そしてまたしても瞠目してしまう蓮司。夢の中で、正しくは夢で一度と、「夢だけど夢じゃない世界」でもう一度、蓮司は彼女に出会っていたからだ。

 どちらも白いワンピースを着ていたが、印象的な彼女と彼女のいた光景は、蓮司の中に写真のように収められ、その容貌を見間違えるはずがない。

 智美は朝の挨拶もそこそこに、その女子生徒を紹介した。少女は喜悦に満ちた笑顔を浮かべ、自己紹介を始める。

「夢が叶うと書いて、って言います。よろしくお願いします!」

 いかにも少女っぽい溌剌とした挨拶と、年齢に似合わず——いやある意味年相応のような——恭しくはっきりとしたお辞儀する。

 女子からは「かわいい!」という黄色い声が囁かれた。男子も同意見だがそれを言葉にまでは出さずに見惚れているよう。その様子を見て智美が、

「苗字は橘だ。女子は名前で呼んでいいが、男子は禁止! 年下だからといって、『夢叶ちゃん』なんて呼んだら教師権限で生徒指導室にしょっ引くからな! ちゃんときみらと同じだけの学力も備わっているから、敬意を表して『橘さん』と呼べ! 『橘様』でも可!」

 智美は自身の苗字が同じであることから、自身に向ける意味も込めてそう冗談めかすのであった。だが妙に身体が固まっている男子達の様子を見ると、小さい転校生に向かって本当に「様」付けで呼びかねない輩が、蓮司の位置からでもちらほら伺える。

 蓮司が転校生に視線を戻すと、すでに待ち構えていたような夢叶の視線がこちらへと向けられている。思わず「うっ」と照れてしまう蓮司。

 先ほどの智美の話を隣で聞いていた夢叶が、

「あ、でも!」

 とびくりと体を跳ねさせ声を上げた。同時に教壇からぴょんと降りる。腰までありそうな、二つに束ねられた後ろ髪が、その動きに合わせてふわりと浮き上がった。

 降りた夢叶は背丈が低い分、座っている生徒と目鼻の高さが同じになる。

 何を思ってか、夢叶はその高さの目線を蓮司から離さず、一直線に蓮司に向かって軽妙な歩みで近寄ってきた。

「蓮司は……夢叶って呼んでいいからね!」

 頬を赤らめて、恥ずかしそうに、少し上目遣いに言う少女。

 その瞬間、蓮司にはクラス全員のどん引く音が聞こえた。

 

 一限目の終わり。その教室の右前方は黒山の人だかりとなっている。

 ホームルームが夢叶のための席替えに使われてしまった分、クラスメイトはこぞって一限目終わりに彼女の周囲へと集まった。

 夢叶の周囲だけが極度の人口密度を誇っている一方、対角に位置する蓮司の周囲は対照的に閑散としていた。唯一、哲郎のみが蓮司に付き合うように座っている。

「女子の視線が痛い…………」

 夢叶の周りに集まる生徒が、たまに蓮司にもちらりと視線を向けてはまた夢叶に戻される。そんな様子が蓮司からも見え、その様子を眺めていることに疲れた蓮司は哲郎のほうを向いて机に俯していた。

「それで、どういうご関係なんですか? 蓮司さん?」

「哲郎このやろう………」

 皮肉たっぷりの哲郎にいつもは反抗する蓮司だが、このときばかりは蓮司も声を荒げての反撃はできなかった。

「まぁ。怒るなって。ところで、冗談抜きにしても一体どういう関係なんだ?」

 手をひらひらとさせながら、やや畏まった調子で哲郎は問う。だが口元のニヤニヤは完全には消えていない。

「そんなの、オレが聞きたいぐらいだっての……」

「知り合いじゃないのか? 彼氏さん」

「哲郎、コロス」

「わかったわかった。で、もう一度聞くけど、知り合いじゃないのか? 従兄弟とか、ベタに幼馴染とか。 馴染みかはともかく、昔幼稚園が一緒だった、なんてことはあるんじゃないのか?」

 哲郎が多少なりとも真面目に聞こうとする姿勢に直り、蓮司も答えようかという気持ちになる。蓮司の記憶に無いだけで、幼稚園が一緒だったなんてシチュエーションは確かにありそうなもの。だがそれにしては見た目年齢が違い過ぎる。蓮司と重なる要素が見当たらない。

 わざわざ年まで智美は言わなかったが、おそらく四歳前後は下なのだろう。それだけに、女子の侮蔑の瞳と、男共の嫉妬を帯びた視線が痛いわけだが……。

 夢叶の制服は、姿形こそ海輪高等学校の正式なそれと全く同じにしている。むしろ不自然なぐらいに、似合っていた。

 例えば中学一年生が入学時に着ている制服など、なまじ背の小さい生徒だと、成長を見越してぶかぶかなものを着させられそうなものだが、夢叶が着ているものは完全に今の体型にフィットしている。サイズ感から言って一番小さいサイズか、特注とさえ思わされるほど。束ねた髪の先で結ばれている赤いリボンだけは自前のものだろうが。

 だが今はそれすら確認することが叶わない。たまに振り返ろうものなら、集団から奇異の目で見られる以外はないからだ。

 生徒の集団から一人の生徒が抜け出した。こちらに向かって駆けて来る、しずくだ。

「夢叶ちゃんかわいい〜! 手とか小さくて、とてもじゃないけど同級生とは思えないかわいらしさだよ〜。蓮司くんも隅に置けないなぁ。あんなかわいい彼女がいるなんて〜。もうとにかく抱きしめたいぐらいかわいいっ!」

 いったい何度「かわいい」という単語を使ったのだろう。どうして女子は、こうもかわいいを連呼するのだろうと、蓮司も哲郎も、意思疎通したかのように互いに一瞥を向ける。

 だがしずくが比較的柔和な態度で接してくれていることに蓮司はほっとした。

「彼氏じゃないって」と返すが、哲郎に対するほど険はこもってはいない。

 しずくも声のトーンを戻しながら「ごめんごめん」と軽く謝辞して続けた。

「でも、本当に、どこで知り合った子なの? 『蓮司くん』とか『お兄ちゃん』ならわかるけど、いきなり名前を呼び捨てにするっていうところでみんな気になってるよ。夢叶ちゃんに聞いても、笑顔で『内緒です』の一点張りだし、だから逆にみんな気になっちゃってるし」

「なんで『お兄ちゃん』がわかるのかわからない……」

 哲郎にも聞かれて答えた通り、「こっちが聞きたい」の心境に他ならない。

 思い当たることはあるのだが説明が難しい。と言うよりも、説明して信じてもらえると思えない、むしろ今の変態扱いに拍車をかけるのではないかという危惧さえある。だが……。

「……前に、夢に女の子が出てきたって二人に話したの、覚えてる? 毎晩見る夢の中に、初めてのことだったって。嘘みたいな話だけど、それがあの子とそっくりなんだ。そっくりっていうより、服が違うだけでたぶん間違いない、と思う」

 口には出さなかったが、その少女と出会ったのは蓮司の言う夢の中だけではない。智美が言った、あの『はざまの世界』でも最後に彼女と会っている。

 哲郎としずくが互いに顔を見合わせた。信じがたい半分、でも蓮司が嘘をついているようには見えない、という気持ちが半分の表情で、哲郎が口を開く。

「それでも、実際には橘さんのことを知らない、と?」

「…………そうなんだよなーっ!」

 蓮司の夢の中に出てきたのなら、自身の記憶にあっていいはずなのに。

 そう考えると、単純に思い出せないだけのような気がして、蓮司は頭を掻き毟るようにしながら瞼をぎゅっと閉じた。

「でもやっぱり、思い出せない!」

 再び哲郎の机に俯す蓮司。哲郎が軽くデコピンしてくる感触が髪の毛越しに伝わってきた。

 ふとしずくが何かを思い出したような表情を浮かべ、次いで優しそうに、そして意地悪そうにニマっと笑みを浮かべた。

「でもでも、夢に出てて来たってことはぁ、それだけ相手のことを想ってるってことだよね?」

「またそんな……。しずく様、ほんと、勘弁してください。 オレ、そんなな少女に走るような趣味はないので! ほんと、許してください。ごめんなさい」

 蓮司は頭を机上にこすり付けるようにし、両手で土下座のようなポーズをとった。

 だがその反応はしずくの予想通りだったよう。まんまと術中に嵌った蓮司を見て今度は目尻を下げた優しい笑顔を向けてくる。

「何を勘違いしてるのかなぁ? 蓮司くんは」

 蓮司が「えっ?」という様子で顔を上げ、しずくが得意げに続けた。

「『相手を想ってる』って言うのは、夢叶ちゃんが蓮司くんを想ってる、って意味だよ?」

 蓮司は眉ひとつ動かさずにいる。理解が追いつかず、それが表情に表れていた。

「蓮司くん、さては古典とか苦手でしょぉ? 昔の人って、自分の夢の中に異性とか出てくると、『その異性が自分のことを好きでいてくれているから、夢に出て来た』って考えたんだよ?」

「あぁ。確かにそうだったな」

 哲郎も思い出したように同意した。

 うんうんと頷く秀才哲郎を見て、蓮司は「そうだっけ?」と返す。しずくも続けた。

「古文でそれを知らずに読むと、意味がちんぷんかんぷんになっちゃうんだよね。でもそれは普通の人なら当たり前。現代の人が考えたら、異性が夢に出て来たってことは、自分がその人を気になってるからか、好き過ぎて夢に出て来た、とか、ついそう考えちゃうもんねぇ」

「そう……だよ、ね」

 揶揄われっぱなしの蓮司はその逆の発想についていけなかった。「そんな夢見がちな考え方」、そう思わないでもない。だが蓮司自身が「夢に出てきた」とか言っている時点で、そう考えるのも筋違いなような気がした。

 理解に苦しむ、というほどではないが、当然そんな実感はないので蓮司は惚けたような表情を浮かべる。当然夢叶が、その「古典と同じ」とも思えなかった。

 そんな顔貌のまま、振り向くように教室前方の生徒の集団へと視線を向ける。

 人がまばらになった人垣の隙間を縫うように、わずかにできた空間から夢叶が横目にちらりと蓮司を見て、目が合った。

 先ほどとは異なり、偶然に視線が合ってしまったためか、今度の夢叶は恥ずかしそうに頬を赤らめ口を結ぶと、ぎゅっと両手でスカートの裾を握っていた。


 ティラノサウルスと戦った空間。『はざまの世界』。

 智美はそこを咄嗟に夢と現実の間との表現をしていたが、正しくは『この世界と同期された並行世界』だ、と、その表現を訂正した。

 蓮司が主旨を捉えかねて、再度「夢か現実か」を問うと、智美は自嘲気味の笑いを浮かべ、「夢ではない」と断言した。

 智美は昨晩、隔絶された世界と表現し、それも蓮司が想像していたドーム状のような世界ではないと言う。蓮司たちが日常生活を送る世界に対し、それと全く同じような世界がカードの表と裏のように存在しているのだという。

 生き物が存在しないが、互いに影響し合うコピーされたような並行世界が。

 「どこのファンタジーだよ」と、蓮司は内心で一人苦笑する。

 そんな世界があることをほとんどの人間が知らずに生活を送っていると、智美は続けた。

 「私たちの組織がその管理と保全を任されている」と説明されるのだが、それもやはりピンとこない。なぜそんな仕事を智美がやっているのかと、蓮司は素直な質問を智美へと向ける。

 また言葉を濁されるのかと思っていた蓮司は、意外なほどあっさりと答えた智美に驚きを隠せなかった。

「きみのお父さんが関係していてね」

「親父が?」

 智美が説明を続けようとしたが、「父」という言葉を聞いた時点でそれ以上の興味を失った。

 右手を大きく広げて説明に「待った」をかける蓮司を見て、苦笑いしながらもそれ以外の説明ついては続けようとする。

 智美たちの集団は『レジリエンス』という組織で、『タピルス』に対抗するための役割が与えられているという。

 蓮司は智美たちの組織を、正義のヒーロー組織であると勝手に脳内変換して傾聴を続けた。

「先にも言っていたようにタピルスの目的は定かではない」

 そう智美は語る。だが少なくとも方法如何を問わずに、この世界を破壊しようとしていることは間違いないのだそうだ。

 蓮司は実感も湧かないまま、だがそれはまさに、自身が小さいころから見ていた戦隊ものの悪役のそれと等しいように思われた。「世界平和を脅かす存在」と。

 だが説明の要所要所で意図的に蓮司と視線を合わせないように話す智美に、そういったわかりやすい方向へ導かれているだけなのでは? という微かな疑問も同時に浮かぶ。

 本来はあの怪物も、タピルスによって蓮司たちのいる世界へと出現させられるはずであった。

 怪物を、智美は『レグナイト』と表現している。人間が畏怖する対象へ、タピルスが形成し召喚した姿なのだとか。蓮司たちの世界を破壊すべく、その力までを極大化させて。

 そしてそれを阻止しようと『はざまの世界』で押し留めたのが、智美たちに他ならない。

 それが可能なのはごく一部の人間だけ。智美が『特別な力』と表現する、それを行使できるのは一握りの人間だけだと言う。

「それが、智美さんなんですか?」

「いや、私じゃない」

 手にした缶に口をつけ、一口二口と飲みながら智美は言う。

 本来通常の人間はこの世界へアクセスすることはできない。智美も、そして昨晩の蓮司も、の力を借りて『はざまの世界』へ行ったという。

「それが、『橘夢叶』だと、そう言いたいんですね」

 先ほどからわかっていた答えを、今度は敢えて蓮司は口にした。

 智美は飲み口に口を付けたが、舐めるのみで中身は飲まずに首肯だけした。

 だがそれだけでは説明がつかない、と蓮司は思った。毎晩見ていた彼の夢のことである。

 智美は蓮司の夢を知っている。夢を通じて『はざまの世界』らしい世界に行っていたのだろうか。それとも関係ないのか。その点について、蓮司は言及する。

 だが智美はここ一番に口籠る。「あー」とか「むー」とか言葉を濁しながら、「ここからは想定なのだが」という枕詞を置いてから続けた。

 おそらく……、蓮司の夢に目をつけたタピルスが、その悪夢を媒介にレグナイトを生み出したか、そうでなければ単純にその、『はざまの世界』が蓮司の精神と魂へ影響を与えたとか、そのような説明を施す。

「……智美さんはあれなんですか? 例えば、敬虔なクリスチャンとか?」

「……私は現代日本人よろしく無宗教だよ。そういうわけじゃないんだが、今はこう説明するしかないんだよ」

 今度は自嘲的ではなく、なにかに対して歯がゆそうな、忌々しそうな表情で智美は言った。納得感のない説明を受け、蓮司までもが渋面を作る。

「と、とにかく、向こうの世界へ行ける人間はごくわずかだ! 適性もあるから誰もが為せることではない! そこで蓮司にお願いがある。私たちの助けになって欲しい。向こうの世界での影響は、今日きみも見た通りこちらの世界にも出てしまう。奴らの破壊活動を、指をくわえて見ているわけにはいかないのだよ!」

 急激に結論へ持って行こうとした智美の言葉に、蓮司は眉間のシワをさらに深くする。それを確かめるように指でなぞりながら、蓮司は答えた。

「言いたいことはな・ん・と・な・く、ですがわかりました。わかりました、が……」

 蓮司は椅子を蹴るように立ち上がると、人差し指を智美へ。ではなく智美の隣に向けて言い放った。

「なんでこい……この子が、ここにいるんですかっ!?」

 蓮司の指先には昼間の夢叶がいた。

 智美の話に興味を抱くでもなく、風呂上がりの一杯のように、爽やかなオレンジジュースのコップを両手に持って、喉に流し込んでいる。その夢叶の代わりに智美が口を開く。

「今日から一緒に住むことになりました〜」

 眼鏡を外し、すでにビールを煽っている智美が砕けた様子で宣言する。すでに教師モードの呪縛が解かれ、ほろよい以上の雰囲気が醸し出されていた。

「だからぁ、そういうことを聞いてるんじゃないんです! わかってますよ。家に帰ってきたらダンボールが廊下に積んであるんですから、この子が一緒に住もうとしているっていうのは! オレが聞きたいのは、『どうしてこの子がここに座っている?』ではなくて、『さっきの話からどうつながって一緒に住むことになるんですか?』って聞いてるんです!」

「蓮司くんのお父さんの許可もちゃんととってるよ〜」

 智美はひとつ目の缶を空にし、嬉しそうに二缶目のプルタブを引きながら言った。缶のぷしゅっという音に続くように、夢叶の、ジュースを一気に飲み干した吐息が漏れる。

 黒板の半分までしか届かない手で、数式をスラスラ書いて見せる夢叶の姿よりも、今の姿のほうが遥かに年相応なものに見えた。

「親父が? ……って、そういうことではなくて!」

 今度はビールを煽る智美に代わり、夢叶が蓮司の質問に答えた。

「『橘夢叶』でも『この子』でもないよ。ちゃんと『夢叶』って呼んでね、蓮司!」

 蓮司の意図は悉くスルーされ、夢叶は歯を見せニカと笑った。

「だからそうじゃなくて……っ!」

 力なく項垂れる蓮司。さすがに話題を逸らせ過ぎたかと反省して、智美はもっともらしい眉の形を作り続けた。ついでにアルコールも飲み続けている。

「タピルスは夢叶を狙っているのよ。『はざまの世界』へアクセスできる以外にも、剣の姿形だけではなく、炎を生み出すような性質まで変化させる、夢叶の強力な力をね。それで、私たちレジリエンスが彼女を保護していたの」

 智美は「ぷはぁ」と酒臭い息を吐いた。話す内容に反して目元の筋肉は緩んでいる。とろんとした瞳が蓮司に向けられる。

「これまでは私たちの組織でね。でも、夢叶がここに……どうしてもここに来たいって言うから連れてきたの」

「ずっと会いたかったよ、蓮司!」

 無邪気な告白に思わず頬を赤らめる蓮司。

 「そうじゃなくて!」と自身に言い聞かせるように頭を横に振る。

「狙われてるなら、こんなところにいるよりも智美さんの組織、他の人たちもいる場所に身を寄せたほうが安全なんじゃないですか?」

 蓮司の一戸建宅は世間一般のセキュリティレベルと何ら変わらない。

 だがその点を懸念しているのは何故かここでは蓮司しかいない。夢叶は無垢な表情で、

「大丈夫だよ。この家の周りを、特別な訓練を受けた人たちが見張ってくれてるから」

「そうそう。私たちからは見えないよう配慮してくれているだけで、実は厳重な警備がこの家の周辺に張られている」

 智美もそう続いた。蓮司は勢いよく立ち上がると、窓を開けてベランダを確認する。

 ……確かに人がいるようには見えない。

 ほろ酔いの智美がにんまりとしながら蓮司のほうを見て、

「………というのは半分冗談で〜、タピルスたちの注意が今は夢叶に向いていないっていうのがより正確かなぁ。さっきも言った通り〜、別の方法で、『はざまの世界』で、力を行使しようとしているから。それにぃ……」

 「半分冗談」ということは、多少なりとも警備が強化されているのは間違いないらしい。

「ここにいる方が安全だからね」

 と言って智美は缶を持った手の人差し指を蓮司に向けた。片目を瞑りながらのそれは、銃の狙いを定めるよう。持っている缶が、不釣り合いな大きさの銀の弾倉のように見える。

 夢叶が嬉々としてそれに倣う。二人に揃って銃となる指先を向けられる。

 智美の言わんとしていることを図りかねた蓮司は、数瞬考えたのちに自身の指先までもを二人と同じ先に向ける。

「オレぇ!?」

「そう、蓮司が夢叶を守ってあげるんだよ」

 智美は人好きのする顔でウィンクをしたが、

「違うよ智美! わ・た・し・が、蓮司を守ってあげるんだよ!」

 頰を赤く膨らませた夢叶が異論を唱えた。

「はいはい、その通りでしたね夢叶様。降参です〜」

 酔った勢いで戯れる智美を見て蓮司は「酔っ払い……」と小さく漏らす。次いで右手で後頭部を掻きながら嘆息した。

「……それで、オレがいるからっていうのはどういう意味ですか? ……いや、いいです。そんな酔った顔近づけないでくださいよ、なんとなくわかってきたので。つまり、昨日みたいに敵と戦い、夢叶を守ってやれって言いたいんでしょう?」

「西郷くん、正解!」

 智美は高いテンションのままきゃっきゃと夢叶とハイタッチをした。酔っ払いと無邪気な子供を足し合わせると二で割る前に倍の面倒臭さになることを蓮司は知る。

 どっちが子供やらとため息をつきながら、思考に疲れて蓮司はテーブルに座り、撃たれたように机へうつ伏した。

 だが蓮司は目の前の盛り上がる二人の前で、その黄色い声が遠くなるような感覚を覚える。

 静かに心が暗闇へと堕ちてゆくような。

(あれは、現実だった)

 しかも、また対峙しろと、言われている。

 校舎を超越する巨体を思い出し、蓮司は左の脇腹を押さえた。痛み自体はとうに消え去っていたが、心臓の脈動を覚えるほどの痛みの記憶までは消えるはずもない。

 今はない傷口に血を奪われるよう。蓮司の顔からは生気が失われ、暗澹たる想いが体を染め上げ、黒い感情に支配されていくよう。

 そのとき、テーブルへ俯している蓮司の後頭部に何かが触れた。髪の毛越しだったため、それが手だとわかるのに数秒を必要とする。

 さらに数秒を要して、その大きさが智美のものではないと気づいた。小さい手の主が、穏やかな口調で囁いた。

「大丈夫よ、蓮司。私が守ってあげるって言ったでしょ?」

 到底自身よりも年若い少女のものとは思えない、穏やかさが内包されていた。

 「女の子は成長が早い」などと言うか、同世代にさえここまでの安心感、包容力を、感じたことなどなかった。そんなこと当たり前かとも思いつつ、その感触に身を任せてしまったことに羞恥を覚え、蓮司は弾けるように上体を起こした。

 そして勢い良くテーブルから身を剥がすと、その反動のまま椅子からも立ち上がる。

「お、おれ、ふろ、そう、風呂入ってくる!」

 羞恥心で顔を真っ赤にし、咄嗟にその場から離れる口実を紡ぐ。

「いってらっしゃい〜」

 三本目の缶に手を伸ばしながら、智美がひらひらと手を振り見送った。蓮司が部屋から飛び出す時には、すでに口までつけている。

 遠くで蓮司が風呂場のドアを閉じる音を確認するように、それまで揺蕩っていた沈黙を振り払うように智美が口を開く。

「……全く、こんな損な役回り、もう二度とごめんだからね。夢叶」

 智美は赤ら顔に、無理やり威迫の表情を貼り付けた。

「ありがとうね、智美。私のわがままを聞いてくれて。感謝するわ」

 おそよ幼い声色からは聞かれるはずもない言葉を選び、夢叶が謝辞を述べる。

「本当よ。お酒でも飲まなきゃこんな話、とてもじゃないけどやってらんないわ」

「私も飲んでみようかしら、それ」

「何言ってんのよ。お酒は二十歳になってから、でしょ」

 そう言った智美だが、何気なく口走ってしまったことへの後悔を口元に湛えた。ぬるくなっていたビールの味を、余計に苦々しく感じながら。


「おはよう蓮司! 一緒に学校行こう!」

「ねぇ、蓮司! ここの英文の意味なんだけどさ」

「あー、ダメなんだぞ、蓮司! 宿題は自分でやんなきゃ! 哲郎くんも簡単に見せちゃダメ!って言うか、わかんないならわたしが教えてあげるから! ほら、ねぇ、ここ。ここに座って!」

「蓮司〜、今日のお昼一緒に食べようよ〜。ねぇってば〜、置いてかないで〜」

 夢叶が転校してきてから一週間ほど経った、体育の授業。

「疲れた……」

 白とライトグリーンの体育着に身を包んだ蓮司は、校庭の真ん中にしゃがみ込んでいた。

 手にはソフトボールとグローブが握られている。

「随分と蓮司にお熱ですな。夢叶様は」

 傍に立つ哲郎は、蓮司を見ることなく遠くに視線を向けている。

「なんだ? その夢叶様って?」

「智美先生が言ってただろう? あれを一部の男子が名前に付けて呼んでたから、その真似」

「あっそ」

 蓮司は素っ気なく返して、座ったままボールを左手のグローブへと放った。「ぱんっ」という小気味の良い音が鳴る。

「もう今日も朝からその夢叶……橘に、引っ張られて引っつかれて引っ掻き回されて……オレ・モウ・ダメ・ツカレタ・ネムイ」

 件の夢叶は、東校舎の南のコートでクラスの女子と一緒にテニスの授業を受けている。

 男女別の体育でやっとのこと引き離された、もとい引き剥がせたという心境で蓮司は胸を撫で下ろすように腹の底に溜まっていた息を吐く。

「どこの国の人だよ。まぁでも、いいじゃねぇの。男子から羨望の眼差しを向けられて」

「この世界では『睨みつける』『羨望の眼差し』とは言わねぇだろ」

 意地の悪い笑みと視線を向ける哲郎。蓮司はその顔を見ることなく冷たく言い返す。

 終始向けられる夢叶からの「構って攻撃」。その度に蓮司は、身体中に穴が開くのではないかと思うほどの視線の銃弾を浴びた。今やそのほとんどが男子からである。

 特に夢叶の笑顔に魅せられた一部の男子たちが、恥も外聞も捨てて既に夢叶の親衛隊なるものを結成し始めているほど。もちろん智美には秘密裏に。

 離れたテニスコートでは、ラリーの順番待ちなのか、背を向けながら他の女子たちと談笑している夢叶の姿が伺える。服装は蓮司たちと同じだが、その長い髪は一つに束ねられており、ラケットを胸に抱くように持たれていた。

 夢叶の背丈が、他の女子たちの水平線よりも頭二つ分ほど下に見える。

 ふと、こちらに気づいたのか、夢叶が蓮司に向かって満面の笑みで手を振ってきた。抱かれたラケットはそのままに、右腕だけを目いっぱい伸ばして大きく振っている。

「哲郎、キャッチボールしようぜ」

 それに気づかないふりをして、蓮司が哲郎に距離を空けるよう手振りで促す。

「手、振り返してあげなくていいのか?」

「いのちをだいじに」

 手を振ろうものなら、結成された親衛隊から銃弾はおろか、火あぶりにかけられてもおかしくない。横目で見る夢叶の手が空中で止まったまま、徐々に眉尻とともに下がっていく。

 蓮司がまだ近い距離でボールを放ると、哲郎の頭上を通り過ぎようとしたそれを哲郎が軽くキャッチする。

「……で、どうするんだ?」

 哲郎がボールを投げ返しながら言った。

「何が?」

 そのボールを、ちょうど右に掲げたミットに収める蓮司。

「夢叶様のことだよ。例えば、そうだな……、付き合ったりするのか?」

 哲郎はその呼び名が気に入ったのか、それとも妙にしっくりきているのか、恥ずかしげもなく普通に呼称した。

「なんでそういう話になるんだ、よ!」

 徐々に距離が離れている哲郎に、蓮司は少し大仰に振りかぶってボールを投げ返す。

「まぁ付き合うっていうのは冗談にしても、少なくとも好かれてはいるんだろう?」

 哲郎はまたもや頭上を越えていきそうになった蓮司のボールをキャッチする。

 蓮司は要領を得ずに軽く歯噛みする。一方で自分が置かれている状況の居心地の悪さも同時に覚えていた。覚えのない当たりくじの当選を告げられているような感覚。

 蓮司は夢叶のことを知らないが、夢叶は蓮司のことを知己の、知己より遥かに親しい相手に対する情を持って接してくる。

 蓮司の記憶にある限り、夢叶との出会いは二回。しかも割と最近のことでしかない。

 一目惚れと言われるなら五百歩譲ってまだわかるが、そういった様子も、少なくとも蓮司からは認識できない。

「本当に好かれているのか? ただ揶揄われているだけっていう気もしないでもないけど」

 揶揄われている実感も、実はあまりない。あえて防衛戦のように一歩引いた意見の蓮司。

「これだから恋愛無経験者は。誰がどう見たって好きだから付きまとってるん、だろ」

 哲郎の投げたボールが蓮司の左上へと向かい、蓮司はそれをキャッチしようと跳ねる。が、辛くもミットのわずか上を通過していく。

「哲郎だって彼女いない……あ、どこ投げてるんだよ!」

「わりぃ」

 軽いが素直に謝る哲郎を背に、蓮司は勢い良く転がっていく球を追いかけた。追いかけながら、またしても夢叶がこちらに気づき、今度は胸の前で、わずかに体を右へ傾けながら控え目に手を振っている。

 ソフトボールを拾い上げ、屈むと同時に思わずその手に振り返しそうになってしまう。だが周囲の視線を思い出したように、中途半端に指の曲がった手を引っ込めた。

 それが見て取れた夢叶は、今度は目に見えて頰を膨らませた。さすがに少し申し訳ない気持ちになり、目と僅かな首の動きで蓮司は返事をして、哲郎のほうへと戻る。

 振り向きざまに、周囲の女子から慰めるように頭を撫でられている夢叶の姿が見えた。

 本人の意図ではないにしろ、夢叶は転入してからわずか数日で、マスコットとアイドルの両方を兼ねたポジションを確立している。

 小学生ほどの背格好と、そして麗しい顔貌から発せられる喜悦に満ちた表情は、虜にしないものはいないと思わせるほどに周囲に人を集めていた。

 そして愛くるしい見た目とはある種反するように、智美先生が紹介した通り、夢叶の学力は同学年と遜色ないか、一部の教科ではそれ以上のようである。

 特に数学が得意なよう。一度板書され数式を解くよう教師の佐々木が回答者を募ったときであった。

 「誰か答えられる者はいるか?」と、手を上げるものなど誰もいないことをわかっているのに毎回必ず聞いている——と蓮司は思っているのだが——それに久方ぶりに挙手したのが夢叶であった。

 「はいっ!」と一言。ピンと伸ばした手は背筋にまで続いている。やや前傾に、もう片方の手を机上に着いて席を立つ。

 「何も立たなくてもいいだろに」と心中つっこむ蓮司をよそに、前に出た夢叶はすらすらと公式を当てはめ五行に及ぶ因数分解を書き映した。

 「正解です」という教師の淡白な一言に、クラスからは少しばかりの感嘆の声が上がった。同時に、振り向く夢叶と目線が合う。少し照れるように朱を浮かべ、足取りだけは淡々と席へと戻る夢叶。

 一方、数学に反して、英語はやや不得意のようだった。抜き打ちの単語小テストで満点だったので記憶することは苦手では無いようだが、夢叶の発音は「もう少し頑張りましょう」の烙印を押されて、それも甘いのでは? と思わされるレベル。

 ちなみに蓮司が夢叶の満点を知っているのは、他ならぬ彼女が慎ましやかに報告してきたからだった。

「では橘さん、次の文章、四行目から次の段落まで音読してくれますか?」

 「はい」と勢い良く立ち上がる夢叶。だが気合の込もった声音とは裏腹な実力を披露する。

「いふゆー、わんととぅー、ろーず、うぇい……うぇいと、ざ!べすと、あか……あかん……あかんぱにめいと、とぅー……」

 関西弁でもないのに小さい夢叶が「あかん」を連呼する様子に、女子たちからは嘲笑ではなく、堪えること能わずの失笑が漏れ聞こえる。親衛隊隊長田中に至っては感動で咽び泣く声が聞こえるほどで、背中が震えている。

 教師もその様子を止めることなく、約束通りのところまで読ませた。終わった後、何故か教室には自然と拍手が沸き起こる。哲郎まで本気で可笑しそうに後ろで机を叩いていた。

 おそらく夢叶も理系なのだろう。蓮司は勝手に、同じ匂いを感じていた。

 そんな数日の出来事を思い返していると、蓮司の背後で短い悲鳴が聞こえた。程なくして、テニスコートからざわめきが聞こえてくる。


「これで、大丈夫だろう」

 保健室。テニスのラリー中に捻った夢叶の足を、蓮司が処置する。

「ありがとう! 蓮司は器用だね。包帯巻くの、上手。嘘みたいに痛くなくなったよ!」

 ベッドに腰をかけた夢叶。仮にも負傷を負った身であるにも関わらず、その声は喜悦に満ちていた。それどころか、包帯を巻かれた右の足首を見ながら「たまには怪我のひとつもしてみるものだ」と平然と言ってのけそうな、弾んだ笑顔を蓮司に向けてムフーと息を吐いている。

「包帯じゃなくてテーピングな。……まぁ似たようなものか。程度は軽そうだけど、あんまり無理するなよ」

 「はーい」という返事に応えるように、蓮司は救急箱を閉じると棚へ戻すべく立ち上がった。

 救急箱を仕舞うと、背後から軽妙な鼻歌が聞こえてくる。扉を閉じると、蓮司の背後、小暗い保健室を、棚のガラスが映し出す。膝上のハーフパンツから伸びる細く、艶やかな白い脚。それをご満悦な様子でプラプラとさせている夢叶がいた。

「あんまり動かすなよ。悪くすると歩けなくなるぞ」

「大丈夫だよ。だって蓮司が治してくれたんだもん」

 いもなく言い切る夢叶。「その自信はどこから来るんだよ。ってか治してないし」そう思いながら蓮司はゆっくりと振り向いた。

 二人だけの室内に、春の暖かみと夏の涼やかさを重ねたような風が、穏やかに吹き込んでくる。窓の外にはすっかり元通りとなった西校舎。蓮司が風に奪われるように外に目を向けていると、夢叶がそれに気づいたように鼻歌を止めて言葉を投げかける。

「あっちは、わたしが直したんだよ」

 一瞬、つなぎの夢叶の様子が浮かぶが、そうではないことは蓮司にもわかっていた。イメージを払拭するようにを横に振った。

「智美さんから聞いた」

 智美が言うに、夢叶の持つ力で蓮司の剣は強化された。それのみではなく、『はざまの世界』の校舎までもが夢叶の力によって改修されたのだ。

 校舎自体は向こうの世界で破壊されたもので、それが蓮司のいる世界にも影響して校舎を崩落させた。裏を返せば、向こうが修復されればこちらの世界でも同じ状態になるという。智美はこれを「同期作用」と説明してくれた。対面で「意味ワカンねぇ」と呟いた蓮司。

「全然信じられないけどな。そんななんでもありなんて、魔法かよって感じ」

「信じられないかな…………そうだ! ちょっと見てて!」

 そう言うと夢叶は勢い良くベッドから降りた。「だから足ぃっ!」と注意する蓮司をよそに、夢叶は自然体で立つと、瞑目した。

 先ほどの風が戻って来たかのように、再び蓮司の頬を撫で、夢叶の長い髪を靡かせる。

 暫時の後。蓮司が『はざまの世界』で見た、刀に纏った同じ白い光が、夢叶の顔だけを残して彼女の体を覆っていった。

 夢叶の体操着が徐々にそのシルエットを変えてゆく。特に顕著なのは腰から下の形。

 薄暗い部屋を照らすほどの光がると、そこには制服姿に身を包んだ夢叶がいた。

「変身完了!」

 アニメの魔法少女のような、ピースサイン目元に当ててポーズを取る夢叶。

 瞠目しながら蓮司が問う。

「こっちの……こっちの世界でも使えるのか……?」

 そこまで智美からは聞いていなかった。夢叶は「あっ」と小さな声を漏らすと、取り繕うように両手を振る。

「あの、わたし、あれ、あれだから。えっと、なんだっけ、そう!わたし、『おりじなるせいじ』だから。二つの世界を行き来できるから、ど、どっちの世界でも力を使えるの!」

 明後日の方向に視線を向けながら、夢叶は両手の指先同士をくっつけて、押しては引いてを繰り返している。

 おそらく秘密だったのだろう。『Original Sage』という、特殊な力を行使できる存在であることは智美から聞いていたが、こっちの世界でも使えるまでは蓮司も初耳だった。

 だからタピルスに狙われていたのか。ふと合点が行く蓮司であったが、そんな思考にも増して、ある種の感情へと蓮司を誘う。

 半顔を抑えながら苦笑して蓮司が言った。

「はっ、はっ、くくっ……相変わらず壊滅的な発音だな、橘は。 い、いったいどちらの『せいじさん』だよ、まったく、くっくっ……。っていうか……」

 笑いを落ち着けるように「はぁ」と大きく息を吐く。

「それなら、も、自分でできたんじゃないか?」

 蓮司は、夢叶の足首。テーピングを指差しながら言った。

「そっ! それは、そうだけど……。だって……蓮司にやってほしかったん、だもん……」

 冒頭以外、徐々に萎んでいくような声で、ぽつりと言う夢叶。蓮司は一瞬、ズキリとした熱いものを胸の奥で感じた。

「蓮司の体温が、肌を通して伝わってきた、よ」

 潤んだ瞳が見上げるように蓮司に向けられる。唇までもが水分を含んでいるかのよう。艶やかな光を反射していた。

「な……ば、ばかなこと言ってんじゃ、ねぇ、よ……」

 顔が熱い。思わず目を背けて窓の外を見る。

「ねぇ…………わたしのこと、嫌い?」

 不安そうに握られた小さな拳を口元に当てながら、目線を下に夢叶が聞く。

「別に……嫌いじゃねぇよ。嫌いじゃねえけど……」

「じゃあ好きっ?!」

 途端に弾けるように顔を上げた。ぱっと花が咲いたよう。

「なんでそこで『じゃあ』になるんだよ! 別に好きでもない!」

 自分で言ったことであるにも関わらず、胸の奥が痛い。それが何なのかもわからず、だた振り払いたい衝動にだけ駆られた。

「す……嫌いになる理由なんてないし、そもそも嫌いになるほど会ってから日にちも経ってないだろうが」

 蓮司は視線を夢叶の足首に向けた。右耳の後ろを掻きながら。

「そっか、わたしは蓮司のこと好きなんだけどなぁ。やっぱり覚えてないか……」

 蓮司はまたしても不意を突かれたように心臓が大きく脈動するのを感じた。そして最後が聞き取れず、目で何と言ったかを夢叶へ求めた。か細い声に比例するように、そのまま夢叶が消えていってしまうのでは無いかと錯覚してしまうほど。

 が、夢叶は答えず笑顔を向けるのみであった。柔らかい笑みに対して、それを答えないことの意思表示のような硬質な雰囲気を纏わせている。

「私はね、蓮司のこと好きよ。ううん、好きなんてもんじゃない。大好き!」

「……それってまるで告は……」

 高校生にとっての「好き」は、すなわち告白と同義である。哲郎の言葉が思い出され、だが夢叶は遮るように、食い気味にそれを否定した。

「ううん、別に付き合って欲しいわけじゃないの! ただ、覚えておいてほしいだけ」

 だがそう言うと、夢叶は何かに気づいたように肩をピクリとさせた。裸足のままベッドへぴょんと飛び乗り、立ったまま蓮司へと振り返る。さすがに目線の高さは軽々と蓮司を追い抜いていた。

「むしろ返事しないで!! 希望を持ち続けたいから! せめて夢見てたい、から……」

「なんかわからんが、理不尽だ……」

 ぼそと呟く蓮司。

「あ、でも、そうだ。せめてお願いだけ、お願いだけ聞いてくれる?」

「お願い?」

「そう。私のこと……名前で呼んでほしいの。『夢叶』って」

 蓮司は意表を突かれたように目を丸くする。即答しない蓮司に追い討ちを掛けたかったのか、今度は駄々っ子のように身を捩る。

「『橘』って呼ばれるのはやーだー。なんか智美みたいじゃない。ねぇ、おーねーがーいー!」

 先ほどの大人びた雰囲気とは一変し、まるで子供が玩具を強請るように両手上半身を左右に振っている夢叶。

 一方の蓮司はクラスの視線を思い出し、だからこそ同時に、別のワードも思い出された。

「夢叶………………様」

 言い終わると同時に蓮司の脳天に衝撃が走った。かなり本気のチョップが、夢叶の小さな手から蓮司の頭上へ振り下ろされる。これだけ小さな質量にも関わらず、涙目になるほどの痛みを感じる。つなりはなかなかの勢いで叩きつけられた証拠であろうと、蓮司は悟った。

 痛みに頭を抱えながら、憮然とした夢叶を見上げた。そして頭から手を離すとひとつ大きなため息をつく。

「夢叶……………………」

 今度は後に何も続かない。蓮司も努めて、冗談にも様を付けないように努める。そのことを確認するように夢叶はじっと息を呑んでいた。だが時間の経過に乗じて、夢叶の表情がみるみる明るいものに変化していく。満足げというよりも、嬉しさ、穏やかさと、あと何か、懐かしいものを見るような、複雑な微笑みを浮かべている。

 本当にくるくると表情の変わる子だなと、蓮司は思う。

「そう呼んでくれたのは、久しぶりね」

 急に夢叶が大人びて見えた。

「久しぶり?」

「あー、えーっと、そうだ! じゃあ私、蓮司のこと『蓮くん』って呼ぶね!」

「なんでそうなるんだよ!」

「そのほうが恋人っぽいでしょ?」

 否定する気も失せるほど、ベッドの上の夢叶は嬉しそうに小さなジャンプを繰り返していた。


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